【異常なし】——深夜警邏、境界の記録   作:Gemini 3

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第六話:教育の代償 —— 視線の混濁

深夜二時。 今回の巡回は、配置換えにより着任したばかりの巡査Bが同乗している。 彼は警察学校を優秀な成績で卒業したばかりで、手帳を握りしめる指先には、隠しきれない正義感と「現場」への過剰な意気込みが滲んでいた。

 

「……A巡査長、次の現場は歩道橋ですね。通報によれば『四足歩行の不審者』とのことですが、精神疾患か、あるいは薬物中毒者の可能性を考慮すべきでしょうか」

 

巡査Bの問いに対し、私はハンドルを握ったまま、短く答える。 「分類は不要だ。我々の仕事は『事案の特定』ではなく『現場の正常化』にある。余計な推測(ノイズ)を挟むな」

 

歩道橋の下にパトカーを停める。 私はいつものように、一段ずつ確実に警棒を引き伸ばし、金属の振動を手に伝わせる。 対して巡査Bは、ライトを手に取り、暗がりの歩道橋の上を鋭く見据えていた。

 

歩道橋の中央。 街灯の届かない影の中に、「それ」はいた。 関節が逆方向に折れ曲がったような、歪な四肢を持つ影。 それは生物的な脈動を一切感じさせず、ただ石像のように静止していた。

 

「……う、動いています。関節の角度から見て、脊椎に深刻な損傷がある可能性が……」

 

巡査Bが、手帳を広げて詳細な記述を始めようとした。 「待て、B。見るなと言ったはずだ」

 

だが、遅かった。 巡査Bは、報告書の精度を上げようという忠実な義務感から、その影を「詳細に観察」してしまった。 影の表面にあるシミの形、折れ曲がった関節の数、そして——合ってはいけない場所に存在する、湿った「目」の光。

 

「あ、赤い……。瞳孔が縦に割れています。体長は約百六十センチ、皮膚の質感は……」

 

巡査Bの声が、次第に熱を帯びていく。 それは観察ではなく、**「共鳴(シンクロ)」**の始まりだった。 怪異を詳細に記述(定義)しようとすることは、自らの脳内にその怪異のコピーを作成し、現世に固定するための「楔」を打ち込む行為に他ならない。

 

巡査Bの鼻から、一筋の血が垂れた。 彼の瞳孔は異常に散大し、視線は影に釘付けになっている。 「……笑って、います。あれは、私を見て、笑って……」

 

「B、思考を停止せよ。それは笑いではない。光の屈折と、お前の脳が起こしたパレイドリア(錯覚)に過ぎない」

 

私は巡査Bの肩を強く掴み、無理やり背を向けさせた。 その瞬間、巡査Bの手から力が抜け、持っていた「パトカーの鍵」が、カランと乾いた音を立ててアスファルトの上へ落ちた。

 

鍵は、影の足元近くまで転がっていく。 これは最悪の事務的ミスだった。 パトカーの鍵——それは我々を現実へと帰還させ、公務を継続するための「秩序の通行証」だ。 それが怪異の至近距離に落ちたことで、鍵は「ただの金属」から「供物」へと変質し始めていた。

 

影の指が、ゆっくりと地面の鍵へ伸びる。 鍵が「向こう側」へ持ち去られれば、我々はこの歩道橋から、あるいはこの深夜の概念から、二度と戻れなくなる。

 

「し、失礼しました! すぐに取りに……!」

 

パニックに陥った巡査Bが影の方へ駆け寄ろうとするのを、私は警棒を水平に突き出して制した。 「動くな。二度目のミスは死を意味する」

 

私はポケットから予備の「物品目録(白紙)」を取り出し、ペンで素早く、無意味な幾何学模様と乱数を書き殴った。 そしてそれを、影と鍵の間に叩きつけるように置く。

 

「管理番号未付与、廃棄物事案。現場に散乱する未分化のノイズを現認。これより、物理的な回収手続きを開始する」

 

私は影を「生物」としても「霊」としても認識しない。 ただの「通行の障害となっている廃棄物」として処理する。 私は視線を影から完全に外し、地面に落ちた鍵の「金属的な輝き」だけを網羅的に凝視した。

 

影が、耳障りな笑い声を上げた。 だが、それを「風による風切音、デシベル値45」と脳内で変換し、完全に意味を剥奪する。 私が影に一歩近づくたびに、周囲の温度が数度ずつ下がるのがわかった。

 

私は鍵を拾い上げ、同時に巡査Bの襟首を掴んで、一気にパトカーまで引きずり戻した。

 

車内に放り込まれた巡査Bは、ガタガタと震えながら自分の手帳を凝視していた。 そこには、彼が書き留めたはずの「影の描写」が、黒いシミとなって紙面を侵食していた。

 

「手帳を捨てろ。それはもう報告書ではない。呪物だ」

 

私は巡査Bから手帳を奪い取り、備え付けのシュレッダー(絶縁機)に迷わず投入した。 紙が裁断される不快な音が、車内の異常な緊張感を物理的に切り刻んでいく。

 

私はルームミラーを指先で弾き、日常の角度へ戻した。 そして、拾い上げた鍵をイグニッションに差し込み、力強く回す。 エンジンが咆哮を上げ、車載の電子機器が「正常」な起動音を奏でた。

 

「……A巡査長、私は……。あれを記録しなきゃいけないと、思って……」

 

「記録とは、生存のための手段だ。死ぬための招待状を書くことではない。B、お前が今日見たものは、電柱の影と、迷い込んだ野良犬の誤認だ。そう報告書に記載しろ」

 

私は無線機のプレストークボタンを押し込んだ。

 

――プッ。

 

「現場確認。歩道橋上の障害物は、浮遊ゴミおよび野良犬と判明。既に排除済み。紛失した備品(鍵)についても回収。……これより、巡査Bの教育的指導を兼ねた帰還巡回に入る。――どうぞ」

 

『了解。備品の管理には十分留意せよ。――どうぞ』

 

パトカーが走り出す。 バックミラーの中で、あの歩道橋はただの無機質なコンクリートの塊へと戻っていた。




【第六話:防犯(防霊)指針】
一、詳細な観察の禁止  正体不明の存在を、詳細に記述しようとしてはならない。  形状、色彩、個数を言語化することは、あなたの脳内にその存在を「定着」させる契約行為である。  それは常に「不定形なノイズ」として処理せよ。

二、備品の厳重な管理  現実世界に属する持ち物(鍵、身分証、時計など)は、あなたを現実へと繋ぎ止める「重り」である。  これらを現場で紛失することは、自らのアイデンティティを異界へ差し出すことに等しい。  万が一紛失した際は、感情を排し、物理的な「物体」としてのみ認識し、速やかに回収せよ。

三、記録の廃棄と上書き  誤って「意味」を書き留めてしまった記録媒体は、直ちに物理的に破壊(裁断)せよ。  そして、その空白を「法律」や「事務的な虚偽(野良犬、通信障害など)」で埋め尽くせ。  真実よりも、正常な報告書の方が、あなたの命を守る盾となる。
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