【異常なし】——深夜警邏、境界の記録   作:Gemini 3

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【前書き:第九話閲覧に際しての警告】
【警告:共感の遮断と義務の履行】

本章を読み進める前に、防犯上の観点から以下の「番人」の心得を想起せよ。

一、真実を語ることは、必ずしも救済ではない。 「守護」の膜の中に留まっている一般人に対し、異常の存在を告げることは、彼らを護る壁を内側から破壊する行為に等しい。真実という名の毒を、安易に他者に分け与えてはならない。

二、事務的な嘘は、最も強固な盾である。 「幽霊」を「光の屈折」と言い換え、「呪い」を「肌荒れ」と定義せよ。名を変え、意味を剥ぎ取ることこそが、怪異から「実体」を奪う唯一の術である。

三、孤独な防波堤としての自覚。 感謝されることも、理解されることも求めてはならない。人知れず異常を事務処理の渦に埋没させ、何事もなかったかのように日常を返却すること。それこそが我々警察官に課せられた、血の通った「事務」である。


――救済とは、時に、優しい嘘の形をしている。


第九話:無垢なる通報 —— 境界の防波堤

深夜一時十五分。 車内の無線機が、静寂を切り裂いて無機質な音を立てた。 『各局、こちら通信指令。不審者事案入電。二十代女性より、ストーカーに追われているとの通報。現在、〇〇公園付近の公衆電話ボックスに避難中……』

 

「こちら〇〇号。受理、現場へ急行する。――どうぞ」 A巡査長が短く応答し、パトカーを加速させた。

 

助手席のB巡査は、膝の上で新しい手帳とペンを、白くなるほど強く握り締めていた。第八話での「初陣」を経て、彼の視界は以前よりも敏感になっている。パトカーが夜の街を滑るたび、電柱の影や路地裏の暗がりに、以前なら気づかなかった「澱(おり)」が蠢いているのを感じ、それをメモの束を握る力に変えて耐えていた。

 

「B巡査。これから会う通報人は、まだ『守護』の中にいる人間だ」 A巡査長が、前を見据えたまま静かに言った。 「お前が何を見ようが、それを彼女に悟らせるな。お前が『そこに何かいる』と認めた瞬間、彼女のフィルターは破れ、向こう側へ引きずり込まれる。いいか、お前の仕事は犯人を捕まえることじゃない。彼女の『正常な世界』を修復することだ」

 

「……了解しました」 B巡査は、乾いた喉を鳴らした。

 

現場の公園は、死んだように静まり返っていた。公衆電話ボックスの中で、一人の女性が受話器を握り締め、震えながら外を伺っている。 パトカーの赤色灯が彼女を照らし出した瞬間、B巡査の心臓が凍り付いた。

 

彼女の背後に、**「それ」**はいた。

 

人の形を模しているが、関節の数が明らかに足りない。真っ黒な油のような質感をした影が、彼女の背中にべったりと張り付いている。影の手は、彼女の細い首にゆっくりと指をかけ、その耳元で、実体のない唇を動かし続けていた。

 

女性がボックスから飛び出し、パトカーに駆け寄ってくる。 「お、お巡りさん! ずっと、ずっと誰かについて来られていて……! すぐ後ろに、誰か、誰かがいるんです!」

 

彼女の背後で、影が嘲笑うように首をかしげた。影の顔には目も鼻もないが、B巡査が自分を「見ている」ことを確実に認識していた。影は長い指を彼女の喉元に食い込ませ、じわりと、彼女の白い肌に黒い痣のような模様が浮かび上がり始める。

 

(……見えている。そこに、あんなに恐ろしいものがいる)

 

B巡査の指先が震える。正義感が、あるいは恐怖が、叫びたがっていた。 だが、隣に立つA巡査長の視線は、氷のように冷たく、鋭かった。

 

「……B巡査。状況を確認しろ」

 

その声で、B巡査は正気に戻った。 今、自分がここで「あれ」を認めれば、彼女の認識は確定し、あの黒い痣は「不治の呪い」に変わる。彼女を救う唯一の方法は、あの影を「存在しないノイズ」として処理することだ。

 

B巡査は、震える脚を一歩前に踏み出した。影と視線が合う。影はさらに深く、女性の肩に爪を立てた。 「……落ち着いてください。周囲の状況を確認しましたが、不審者の姿はありません」

 

「でも、視線が! すぐそこに、誰かの気配がするんです!」 女性が泣き叫ぶ。その声に呼応し、影の体躯がさらに膨れ上がる。

 

B巡査は、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。自分の中の「警察官」というシステムを極限まで稼働させる。 「それは、街灯の点滅による錯覚です。……見てください、あの街灯。基盤の故障で不規則に瞬いています。深夜の静寂とあの光の点滅が重なると、脳は存在しない動体を感知してしまうことがあります。警察用語では『環境性誤認事案』と呼びます」

 

B巡査は、彼女の背後の影をあえて「透過」するように見つめ、事務的なトーンを維持した。 「また、あなたの首元にあるのは、マフラーによる摩擦と、寒さによる血管の収縮です。鏡を見てください。ただの肌荒れです。異常、ありません」

 

「……ただの、肌荒れ……?」 女性の視線が、自分の肩越しではなく、B巡査の語る「理論」へと向いた。 その瞬間、彼女を覆っていた緊張の糸が、ふっと緩んだ。

 

彼女の認識が「ストーカー」から「物理現象」へと切り替わった途端、背後の影が、陽炎のように揺らぎ始めた。実体感を失い、黒い油が蒸発するように薄くなっていく。

 

「……そうです。あなたは今日、少し疲れが溜まっていただけです。我々がご自宅までお送りします。この現場は、我々が『不審者なし』として処理を完了させます。安心してください」

 

A巡査長が、静かにパトカーのドアを開けた。 女性が車に乗り込む。彼女が背を向けた瞬間、最後まで残っていた影の残滓が、B巡査に向かって牙を剥くような形を作ったが、彼はそれを「ただの排気ガスの揺らぎ」として無視し、パトカーのドアを閉めた。

 

――パチン。

 

その乾いた音が、世界の境界線を再び固定した。

 

彼女を自宅へ送り届け、署に戻る道中。 B巡査は、自分の手のひらが、ぐっしょりと汗で濡れていることに気づいた。 「……巡査長。私は、嘘をつきました。彼女のすぐ後ろに、あんなものがいたのに」

 

「いいや。お前は、彼女の世界を修復したんだ」 A巡査長は、アクセルを一定の踏み込みで維持しながら、淡々と答えた。 「あの影は、彼女が『不審者』という恐怖を抱き続けることで糧を得ていた。お前がそれを事務的な理屈で解体したから、奴は拠り所を失って霧散した。……それでいい」

 

(――そうだ。これでいい) A巡査長は、バックミラーに映る、疲弊したB巡査の横顔を盗み見た。 かつて、B巡査が配属される前。あの通報人Aの時も、自分は同じように「嘘」をついて彼女を救った。その事実は、この隣の若造にはまだ教える必要はない。自分たち「番人」だけが共有していればいい、孤独な真実だ。

 

「俺たちが被っているのは、ただの制服じゃない。この社会の『正常』という名の巨大な絶縁体だ。嘘を吐き通してでも、守護の中にいる連中を向こう側に連れて行かせない。それが、番人の義務だ」

 

B巡査は、新しい手帳を取り出した。 そこには、今回の事案の報告書の下書きが、極めて無機質な筆致で記されている。

 

『〇月〇日、〇時〇分。不審者通報事案。現場確認の結果、街灯故障による誤認と判断。実害なし。受理番号、〇〇……』

 

その事務的な文字列が、今、B巡査には何よりも尊い、命を救うための呪文のように見えた。

 

「こちら〇〇。事案処理完了。……全管内、異常なし。――どうぞ」

 

夜明け前の街を、パトカーが静かに走り抜けていく。 B巡査は、ルームミラー越しに、少しだけ明るくなり始めた東の空を見つめた。 そこには、何の変哲もない、退屈で、平和な日常が戻ろうとしていた。




【第九話:防犯(防霊)指針】
一、通報人の守護維持 未だ「守護」の中にいる一般人に対し、怪異の存在を示唆することは厳禁である。 どれほど明白な異常が視認されようとも、それを「自然現象」「物理的故障」「心理的錯覚」として断定し、通報人の認識を正常な領域に繋ぎ止めよ。

二、事案の解体と再定義 怪異は観測者の「意味付け」によって強化される。 現場においては、事務的な語彙(環境性誤認、基盤故障等)を積極的に用い、事象から「恐怖という付加価値」を剥奪せよ。

三、優しい嘘による絶縁 真実を告げることが正義ではない。 虚偽の報告によって他人の日常を守り抜くことこそが、絶縁体としてのプロフェッショナルな職務であると心得よ。
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