わたしから色々なものを奪って行ったあの日。旧都陥落が起こったあの日から。わたしの目には、人の『痕跡』が映るようになっていた。
────『
そこに残された記録と記憶が、形を持って……像を結んで、わたしの目に見えるようになっていた。
当然、目にするのは良いものばかりではなくて。ホロウの中に入れば、誰かが終わりかけた頃の記録を目にすることになる。終わってしまった記録を、目にすることになる。
何度も幸せだった頃を見た。何度も絶望を目にした。
次第にわたしの心の何かが削れて行って────思うように、なったのだ。
終わりが無い物語なら、わたしもページをめくる勇気が持てるのに……って。
誰しも望んだ終わりを迎えられたわけじゃない。誰しも、平和に終われたわけじゃない。
その光景を目にする度、辛くて苦しくて堪らなかった。
だから、
『そう。辛かったのね』
だからこそ。
『私と共にくれば────貴女の夢も、きっと叶うわ』
あの人の言葉が、深く深く胸に突き刺さった。
わたしはこの街を知っている。わたしはこの場所を知っている。
……正確に言えば、『外のこの場所を』にはなるけれど────。
「あのね、猫又ちゃん。よく聞いて?」
この街を最初に見た時浮かんだ違和感。目を逸らしてきたその感覚が、教会の扉に触れて確かなものへと変わってしまって。
「この人工ホロウの主人は、わたしなの」
この温かい夢の終わりを拒んでいるのは、この向こうに居るわたし。
「それで……この扉の向こうに居る『アレ』もまた────、」
◇◆◇
「────え、」
思わず掠れた声が漏れて。そんなあたしを置いてけぼりに、教会の扉は開く。
頰を撫でる、肌が粟立つほどの冷たい風。扉の向こうには、寒々しい光景が広がっていた。
規則的に並べられた幾つかの長椅子には氷が張り付き、正面の壁には煌びやかなステンドグラス。ソレを通り抜けた日差しは様々な色で、室内を照らしている。
赤、青、黄色、緑。色とりどりの光が照らすそこに、
「あの化け物もまた、わたしなの」
背中から生えた無数のタコの触手を壁に這わせて、眠るように項垂れた人型のエーテリアスが……白と黒を基調とした外殻の化け物が、そこに居た。
「人としてのわたしはもう終わってしまった。あの化け物は────あのエーテリアスは、かつてのわたしの願いを叶えるために動き続けるモノ」
「ぇ、ぁ、」
人工ホロウの性質。かつて、『ケセド』とサラに呼ばれていたあの場所で、あたしがそうであったように。このホロウにも主人がいるのだろうという考えはあった。
死者が平和に暮らす街。終わりの向こう側というテクスチャを貼り付けた街。それを望んだ誰かが居るのだろう、と。
澄輝坪に住む連中には『死んだ時の記憶』があった。だから讃頌会の信徒が何処かに潜んでいて、ホロウの主人をしているだろう────そんなことを、思っていたモノだけど。
「イ、ドリー……が?」
「ええ、そうよ。わたしが。……わたしが望んだから、あの街はある。わたしが望んだから────このホロウは、成り立っている」
そして、ステンドグラスの中央に埋め込まれた核を護るように存在する、あのエーテリアスもまた────自分自身であるのだ、と。
「誰もが望んだ最後を迎えられたわけじゃない。誰もが幸せに死ねたわけじゃない。だから、その後くらいは平和に過ごしていて欲しいなって……温かい世界を、望んだから」
……言いたいことは、とてもわかる。
まるで、幸せな夢みたいな場所だったから。
誰もが終わりを受け入れて。誰もが笑って暮らしてて。生前と変わらない生活を、叶わなかった習慣を繰り返して。変わらない明日が、繰り返し訪れる。
優しい街。優しい世界。終わりと絶望が、ホロウという形を持って目に見えてしまうこんな世界だからこそ、あの街は幸せで……温かくて。
「でもね、猫又ちゃん。わたし、あなたを見ていて思ったの。あなたたちを見ていて思ってしまったの。この街があると、生者も死者も────きっと、前に進めない」
「────、────」
「繰り返し訪れる当たり前の明日はあっても、その先に未来はないのよ。幸せで、温かくて。それでもきっと、
イドリーの足が進んでいく。目の前で項垂れるエーテリアスに歩み寄るように。その全てを、受け入れるように。
「だからね、猫又ちゃん。あなたが────終わらせて」
出会ってから一番優しい声音を最後に。瞬きの間に、その姿が消失した。
あたしに伝えたいことは全て話した。対話の時間はもう終わりだ、と言わんばかりに。床に向いていたエーテリアスの頭部と思われる部位が持ち上がり────その中央に在る大きなヒトツメが、あたしを見た。
壁に這わされていた無数の触手。そのうちの一本が立ち上がり、あたしを目掛けて振り下ろされる。
「みんな────みんな、あたしに託して先に行く」
誰も責めることはせず、温かい笑顔で見送ってくれる。
この街の終わりを受け入れて、その手伝いまでしてくれて。
まだ、自分のことに答えすら出せていない────あたしに。
「みんな、みんな……あたしを置いていく」
振り下ろされた触手を、床を転がるように躱して……上手く力が入らない両手で、双剣の柄を握り直した。
何も────何も、答えなんて出せちゃいない。
なんでみんな満足した顔であたしの背中を押すんだよ。ここに居るのが、あたしじゃなくて……もっと立派な『誰か』であれば良かったのに。
「ゔ、づ────!」
横っ腹に痛みと衝撃が走る。肺の中から空気が一気に抜ける感覚があって。視界が一瞬、明滅、して、
『アンビーや俺の意思を否定してほしくないように。俺は、猫又の選択や意思を『あたしなんかが』で否定してほしくねえよ』
勘弁してくれ。もう苦しいんだよ。止まってしまいたい。
このホロウを終わらせる。この場所に来る。そう最初に決めた頃のあたしに、贖罪の意識はあった。誰かを救った実感が欲しかった。
これから先に、進むために。
「結局全部投げ出したかっただけなんだよ」
死に場所を求めていた。それもまた事実だ。
終わりが欲しかった。先になんて進めやしなかった。
サラに利用されて。自分の手を汚して。赤牙組の連中も、お父さんもお母さんも失って。今の自分には何もない。
だから、先に進みたくない。先に進めない。目の前にある道を歩くだけの余力がない。力がない。
……なんでアンタらはそんなに立派な答えを持ってるんだよ。停滞したって良いじゃんか。なんで……なんでそんな顔でみんな終わりを受け入れて、先に進めるんだ?
「そんな立派な答えがあるなら、あたしにも教えてくれよ────」
なんで、終わりたくて仕方ないあたしに……進み方すら分からず、どうしようもないあたしに『明日』があるのに、
『────別に私たちも、簡単な話だって思ってるわけじゃない。正直今でも死んでしまったことは悲しいし、悔いのない人生だったと言えば嘘になる』
悔いを持った『ここの人たち』に、『明日』がないんだよ。
なんで、そんな……終わりを受け入れられるんだよ。
氷の
意識が、削ぎ落とされていく。
「なんか────もう疲れたな」
……もう良いか。良いや。全部。ここで終わっても良い。
諦めて良いだろ、もう。きっと誰も、あたしを責めない。仕方ないって笑って受け入れてくれて、ここの住人の仲間入り。
いつか朱鳶や巴、輝夜ちゃん辺りがあたしの代わりに終わらせてくれるはずだ。
それで良い。もう、良いだろ。
良いじゃん。全部。
「なのに────、」
なのに、何で。
何で体が言うことを聞いてくれないのか。
致命傷になり得る氷の礫と、氷柱を双剣で弾いて受け流して。潤んだ瞳は、エーテリアスを捉えて離さない。
悴んで上手く力が入らない掌は、それでも双剣を離してくれなかった。
……死にたくないから? いや、違う。
「────無駄にしたくないんだ。託されたから。託されちゃったから」
みんなが笑っていた。みんなに託されたから。誰かの思いは、無駄にしたくないから。
自分のことなんて何もわかっていないくせに。自分のことを、何も決められていないくせに。
「……ああ、いや。そっ、か」
そうだ。誰しも、満足な死を遂げられたわけじゃない。誰も、自分の人生に悔いがなかったわけじゃなかった。澄輝坪で暮らしてた、みんなだってそうだった。
だからこそ、寂しいって言葉が飛び出したんだろう。
「────今答えが出るわけじゃないんだ。今、答えが出せるものじゃない」
だからこそ、あたしに『託す』ことはしても。こうした方がいい、ああした方がいい、と。押し付けることは決してしなかった。
悔いはあっても。悲しみはあっても。それでも前に進む決意をして、あたしに託したんだ。
「は、はは────うん。そっか。そうかも。そうだよね」
無くしたものへの向き合い方はわからない。あたしの中に巣食う罪悪感への向き合い方もわからない。
目の前の行動と贖罪を結びつけようとするな。そんなに簡単な問題じゃない。
わからない。何も分からないけど────わからないからこそ、前に進む。わかるまで考えれば良い。
今ここで答えを出そうとするな。一生をかけてでも、考え続けろ。
「ありがと、おかげで頭が冷えた。楽に死ねないな、本当に────!」
◇◆◇
……肝が冷えた。そっか、ちゃんとあの子なりの答えに辿り着けたならそれでいい。
この子に素晴らしい
────ずっと、考えていた。終わってしまった
彼女が言うに、外の世界はこの街のせいで────このホロウのせいで困っている。
きっと、あの子も。あの子は強い子だけど、無理をするから。今も必死に前を向き続けて、戦っている。
「なら────私も最後の大仕事をしなくちゃ」
鞘から剣を抜く。切先に陽の光が反射して妖しく煌めく。
これは、何かを代償に振るわれる一撃。
今の私の身体に支払えるモノは何も無い。それでも死後までこの剣が着いてきたということは、まだ支払える何かがあると言うことだろう。
「────良いよ、持っていって。そうだなあ……円環の理から外れる、とか。そんなところかな」
息を大きく吸う。吐き出す。それだけで、今の私には十分。
地を蹴り、宙を舞い────教会の入り口に着地して、体の芯まで凍ってしまうような冷たい風を受けながら、
「伏せて」
◇◆◇
突然背後から聞こえてきた声。その声の主が振りかぶった剣から、眩い光が放たれる。
咄嗟に身を屈め、頭を抱えて。視界に映るのは浮かび上がった無数の剣。それが触手を壁に縫い付けると、見惚れるほどのひと振りが放たれる。
横薙ぎの一閃。斬撃がエーテリアスの胴体へ到達し、音を立てて外殻が破れて────コアが、露出する。
「お膳立てはこれで十分。ほら、行って」
道は、開けた。あたしを邪魔するものはもう何もない。
足を回す。駆け出す。駆けていく。もつれさせながらも進んで、剣を逆手に持ち直して、振りかぶる。
「────、────」
奥歯を噛み締めて、目の前のコアに狙いを定めて、振り下ろす────その瞬間に。
『ありがとう、猫又ちゃん』
穏やかな彼女の声を、聞いた気がした。