「ここは……?」
柔らかい風と陽光が差し込む。
ちゅんちゅんというスズメの鳴き声を聞きながら寝返りを打った瞬間、ベッドの上で目が覚めた。
寝ぼけ眼であたりを見渡すが――。
「知らない天井だ」
人生で一度は言ってみたいセリフ一位。
それを言えてなんだか満足。
そう、僕は満足していたはず。
覚えているのは満ち足りた気持ちで暗くなっていく視界。
なぜ目が覚めたのだろう?
「よいしょっと……?!」
気合を入れて体を起こすと、力の入れ方を間違えたようでベッドから転げ落ちてしまった。
いたたと声に出しながら立ち上がり部屋を見渡す。
「ここ、どこ?」
それは殺風景な部屋だった。ベッドの他には勉強机とクローゼットしかない。シンプルイズベスト。ミニマリストもびっくりである。
1LDKという間取りだろうか。一人暮らしをするにはちょうど良い、そんな雰囲気の部屋だった。
そこで気が付くが身体が全然痛くなかった。
「あれ僕……あれ……?」
独りで。自分の足で立っていた。誰の介助も必要とせず立ったのはいつ振りだろうか。
右足を一歩。
左足を一歩。
進む。
ちゃんと進む。
膝を折る。床に手が届く。立ち上がる。腕を広げる。部屋の端まで歩いていく。壁に触る。折り返す。
ただそれだけのことを、何度も繰り返した。
これが歩くということなんだ、と思いながら。
しばし感動に震え喜びに浸る。
だが、見知らぬ場所。何もない部屋。周囲に誰もいなくてなんだか寂しい。
この姿を家族に見せたかった。
満足していたはずだった。満ち足りていたはずだった。
何の熱もないと思っていた自分の深奥に埋め火が灯るのを感じる。
なんだかやる気が出てきた。心なしか気持ちがしゃっきりする。
服は着ている。見慣れない服だ。
玄関に行くと靴があるが、小さな子供靴だった。とても自分には履けそうにない。
探してみるが他に靴はない。
冗談で無理やり履いてやろうかと足を通すと、なぜかぴったりだった。
「僕、小さくなってる?!」
そこでようやく気付いた。鏡がないのでわからないが部屋の天井が妙に高い。
明らかに小人化していた。アポトキシン4869を打たれた記憶はないのだが。
さて。
ここは一体どこなんだろう。
転生した、というのはわかる。
目が覚めた瞬間から、なぜかそれだけははっきりとわかった。
あの満ち足りた暗闇の感触が、前世の終わりだったのだと。
そして今ここが、新しい始まりだということも。
でも何の世界に転生したのかは、まだわからない。
財布があった。キャッシュカードもある。通帳を開いてみたところ、桁が多すぎて頭がおかしくなりそうだったので閉じた。
机の引き出しに何かあった気もするが、後回しにした。
まず、外の空気を吸いたかった。
玄関ドアを開けて外へ出た。
外、というのは思っていたよりずっと広い場所だった。
当たり前のことを言っている自覚はある。
でも、本当にそうなんだ。誇張でも大げさでもない。
病室の窓から見えていたのは、隣の病棟の壁と、その上にある切り取られたような空の欠片だった。
あれが「外」の全部だった。
なのに今、どこまでも続く道がある。
左を見ても右を見ても、道が伸びている。
どこへでも行ける気がした。
てくてくと歩く。
どうやらここは日本らしい。だって日本語の看板があるから(名推理)。
本やブラウン管からしか見れなかった日常の光景だった。
横断歩道の前で信号が赤になった。
待つ。
青になる。
みんなが歩き始める。
僕も歩く。
それだけのことが、なんだか嬉しかった。
信号を待って、青で渡る。そんな当たり前の行為を、自分の足でやっている。
商店街に入った。
八百屋に積み上げられたトマトが赤い。
魚屋の前を通ると、磯の匂いがした。
パン屋の前を通ると、焼きたてのバターの匂いがした。
お腹が鳴った。気が付けばひどく空腹だった。
商店街のど真ん中で、立ち止まった。
人が流れていく。
買い物袋を持ったおばさん。ランドセルを背負った小学生。自転車を押しながら電話している男の人。
みんなそれぞれの目的地に向かって、当たり前のように歩いていく。
この人たちは、毎日これをやっているんだ。
毎日この道を歩いて、毎日この匂いを嗅いで、毎日この景色を見ている。
それが当たり前すぎて、もしかしたら気にもしていないかもしれない。
羨ましい、とは思わなかった。
そうか、そういうものか、という気持ちだった。
それよりも、自分が今その中に混ざっていることのほうが不思議だった。
通行人の一人が、こちらをちらと見た。
突っ立っていたから、邪魔だったのかもしれない。
慌てて端に寄る。
エキストラは空気を読まなければいけない。
八百屋の店先に夕顔が吊るしてあった。
丸くて白くて、よく見れば縞模様がある。
こんな野菜があるのか、と思いながら眺めていたら、店のおじさんに「買うの?」と聞かれた。
財布がないので買えません、と答えたら苦笑いされた。
次の店先では金魚が売っていた。
ペットショップではなく、縁日の金魚すくいみたいな感じでプラスチックのケースに入っていた。
赤い金魚、黒い金魚、白に赤が混ざった金魚。
ゆらゆらと泳いでいる。
金魚には悲しい思い出がある。ペットに食べられたのだ。デメちゃん……。
悲しげに眺めていたら、隣に男の子が来た。じっと金魚を見ている。
僕と同じくらいの年齢だ。ぎゅっと財布を持っている。
その子は結局何も買わずに、でも満足そうに立ち去った。
ただ見るだけでもいいんだ、と思った。
僕も満足した。
本当はペットショップに行きたかったが、見当たらない。
昨日最愛のペットを失ったばかりだ。これがペットロスか。
財布は持ってきていない。
出てくるとき、そういうことに思考が回らなかった。
どんなに良い匂いがしても、今日は食べられない。
でも、不思議と悔しくなかった。
匂いを嗅ぐだけでも、十分に嬉しかった。
こんなにたくさんの匂いがする場所が、世界には存在していたんだ。
住宅街に入ったところで、自分が完全に迷子になっていることに気がついた。
来た道を覚えていない。
覚えていないというより、そもそも覚えようとしていなかった。
外の景色が全部珍しくて、全部眺めながら歩いていたら、どこをどう来たのかさっぱりわからなくなった。
困った。
でも、困りながらも少し笑えた。
迷子、というものを初めて経験している。
これも初めてのことだ。
とりあえず歩く方向を変えた。
さっきより少し高いところに出たら全体が見渡せるかもしれない、という判断だった。
坂道を上る。
足が疲れている。でも動く。これがいい。
上りきったところに小さな神社があった。
石の鳥居。苔のついた石畳。奥に社。
静かで、誰もいなかった。
なんとなく足が向いて、境内に入った。
鳥居をくぐる。砂利を踏む音がした。
社の前で立ち止まる。
お参りをしたことがなかった。
病院に神社はない。
でもやり方はテレビで見ていた。
鈴を鳴らした。
二礼して、二拍手して、一礼した。
ちゃんとできたかどうかわからない。
でも、せっかくなので心の中で話しかけてみた。
――転生神様、いますか。
いたとして、ここに来ているかどうかわからないけれど。
今日、外を歩きました。
全部初めてのことで、全部きれいで、全部嬉しかった。
ありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。
拍手の音がまだ手のひらに残っているような気がした。
返事はない。当たり前だ。
でも、なんだかすっきりした。
かわいい狐が「くぉん」と鳴いていた。
最近の神社は狐を飼ってるんだね。
ドジっ子そうな(失礼)巫女さんが隣で世話をしていた。
マンガと違ってミニスカじゃないんだね。
神社を出ると、坂の上から街が見渡せた。
屋根が並んでいる。その向こうに海が見える。
どこに来たのかはまだわからないが、少なくとも海のある街だということはわかった。
いい場所だ、とぼんやり思った。
住んでいく場所として、悪くない。
前世の病室には海は見えなかった。
これから毎日見えるかもしれない。それだけで、少し気分が上がった。
商店街を抜けると住宅街になった。
塀の隙間から猫が覗いていた。目が合った。猫は逃げなかった。
しゃがんで見つめ合う。猫は欠伸をした。舌がピンク色だった。
ひどく暇そうで、でも幸せそうだった。
いいな、と思った。
理由もなく、そう思った。
猫に嫉妬するとは思っていなかった。
また歩き出す。
知らない路地を曲がった。
知らない坂道を下りた。
海が近いのか、風に少しだけ塩の匂いが混じっていた。
どのくらい歩いただろう。
少し足が疲れてきた。
自分の足で疲れるほど歩ける、それ自体がまた嬉しいのだから、困ったものだ。
公園を見つけた。
砂場とすべり台と、二台のブランコ。
ベンチが一つ。
よくある、どこにでもある公園だ。
でも僕には縁のなかった場所だ。公園、という場所に自分の足で来たのは初めてだった。
ベンチに向かおうとして、ブランコに座る少女に気がついた。
悲しそうに目を伏せていた。
幼稚園に通っていそうな年ごろの女の子。周囲に保護者の姿はない。
少々不用心ではないかと、自分を棚に上げて近づく。
「ど、どどどうしたの?」
「ふぇ?」
どもってしまった。生まれてこの方、子供と話したことなどない。前世では誰かと話すといえば医者か看護師か家族だけだった。
不審者に思われてしまっただろうかと身構えるが、硬直した自分を少女は目を丸くして見つめてくるのみ。
意を決してもう一度口を開く。
「君のような幼子が一人でいるのは危険だ。大人の僕がいっしょにいてあげよう」
「なのはと同じくらいにしか見えないの」
そうだった。僕もまた子供なんだった。
「んんっ。それはさておき親御さんはどこに?」
そう尋ねると目に涙を浮かべうるうるしだしたではないか。
どうすればいいのかわからない。とりあえず事情聴取だ。かつ丼……はないか。わたわたしていたらなぜか少女はクスリと笑った。
失礼な奴め。でも内心ほっとしつつ、話を聞く体制を整えた。
どしたん?話聞こか?
へーお父さんが事故にあったんだ。
それ以来家族が忙しそうにしていて構ってくれない。
兄と姉は怖い顔をして道場に籠りきり。道場とかあるんだ。こわっ。ああ、話をそらしてごめんて。睨まないで。
それで、お母さんはお店を切り盛りするのに精いっぱいでいつも疲れた顔している。
とても私にかまっている余裕なんてない。
だから私は良い子でないといけない――どんなに寂しくても。
「こらっ」
そこまで聞いてデコピンで奇襲を仕掛けた。
「にゃっ!?」って間抜けな声を上げてこめかみを抑える少女をみて笑ってしまう。
にゃっ、だって。にゃっ、だってさ。
恨めしそうにこちらを見上げる少女の目に涙が溜まっていくのを見て慌てて弁明を試みる。
「いいかい少女よ。寂しいなら『寂しい』ってはっきりいいなさい。君の話を聞く限り君のご家族は君のことを愛している。そんな家族がだ。寂しい思いをしている末っ子を放っておくというのかい?」
それとも君の家族はそんなに冷たい人なのかな?
「ち、ちがうの。お父さんもお母さんもお兄ちゃんもお姉ちゃんも優しい人なの。いつも気にかけて優しくしてくれたの」
じゃあ反対に、君のお母さんが本当は寂しいのに君に黙って耐えていたとしたら、君はどう思う?
そこでハッと顔を上げた少女。気づいてくれたようだ。もう涙は引っ込んだ。セーフ。
「……がんばってお話してみる」
そういって涙をぬぐうと微笑んだ。ちょっと無理しているように見えたので両手で頬をむぎゅむぎゅしてやる。また「にゃっ!?」となったので、リラックスできたようだ。抗議の視線は受け付けない。
てくてくと少女と歩く。
少女のうちは近所でも評判の洋菓子屋らしい。
「シュークリームがおいしいんだよ」と両手を握って力説する少女。じゃあ、報酬はシュークリームで。とかっこつける。頬染めて嬉しそうに笑う少女を見て、こっちもなんだかほっこりした。
歩きながら、少女はぽつぽつ話してくれた。
お母さんは若くて、でもすごくしっかりしていて、料理が上手で。
お兄ちゃんは怖い顔をしているけど本当は優しくて。
お姉ちゃんはいつも一緒に遊んでくれて。
みんなのことが大好きなのに、大好きだから遠慮してしまう。
わかる気がした。
大切なものほど、壊したくなくて、傷つけたくなくて、遠回りをしてしまう。
そういうのは、僕にもわかった。
ほどなくして洋菓子屋の前についた。
甘い匂いがした。
バニラか、バターか。
先ほど商店街で嗅いだパン屋とはまた違う種類の、焼き菓子の匂いだ。
お腹の虫が、ここぞとばかりに主張してくる。
「ここなの。おいしいから一緒に食べよ!」
入口を見る。
素敵な扉だ。
木製の扉に、小さなガラスが嵌まっている。中に光がある。
甘い匂いがもっと濃くなった。
でも財布がない。
一文無しだ。
「……あ、ごめん。ちょっと用事を思い出した」
嘘をついた。
少女が目をぱちくりとさせる。
「えっ、でも、シュークリームは?」
「また今度! 君のご家族と、ゆっくり食べて」
なるべく笑顔で言うと、少女はしばらく首を傾げていたが、それから「……うん」と頷いた。
店のドアが開いた。中から若いお母さんらしき人が顔を出す。
少女が「お母さん!」と声を上げた。
それだけで、もう大丈夫だとわかった。
踵を返す前に、少女が振り返った。
「ありがとう!」
はっきりした、いい声だった。
涙の気配はもうどこにもない。
満面の笑顔のまま扉の向こうへ消えていく。
僕は扉が閉まるのを見届けてから、きびすを返した。
お店の名前は、まだ見ていない。
「シュークリーム食べたかったな」
歩き出してすぐに気が付いた。
お腹が鳴った。ぐう、と。
今日は財布を持ってくることさえわからなかった。
ここが日本だということ、転生したということ、それしかわかっていない。
わかっていないことが多すぎて、お腹が空いているのに食べるという発想すら後回しになっていた。
でも不思議と、後悔はなかった。
夕暮れが始まっていた。
空の端が橙色に染まり始めている。
海の方向に向かって、薄い雲がゆっくりと流れていた。
病室の窓から見えていた空は、もっと小さかった。
切り取られたような四角い空だった。
その空をずっと眺めていた。晴れの日も、曇りの日も。
でも今見えている空は、どこまでも続いている。
視界の端から端まで、全部が夕空だ。
きれいだな、と思った。
それだけのことなのに、なぜか少しだけ泣きそうになった。
帰る道がわかるか不安だったが、なんとなく足が向かう方向に歩いていたら見覚えのある景色が出てきた。
猫がいた路地を通る。さっきの猫はもういなかった。
魚屋はもう閉まっていた。シャッターの前に鱗が一枚だけ残っていた。
パン屋からはもう匂いがしなかった。
日常が動いていた。
さっきとは少しだけ違う日常が。
時間が経てば景色が変わる。それが当たり前のことで、でも僕には全部が初めてだ。
歩きながら、さっきの少女のことを考えた。
ちゃんと話せたのかな。
「がんばってお話してみる」と言っていたから、たぶん大丈夫だろう。
よく笑う子だった。最後のあの笑顔は、本物だった気がする。
名前を聞かなかった、と今更思った。
まあ、別にいい。
僕はただの通りすがりだ。
それにしても今日は歩いた。
足が疲れているのに、不満がない。
疲れるほど歩けたことが嬉しくて、疲れた感触そのものが嬉しい。
嬉しいことだらけで頭がおかしくなりそうだ。
前世の自分が知ったらどう思うだろう。信号を渡れて嬉しい、猫の欠伸で嬉しい、足が疲れて嬉しい。
僕の大切だった人たちはどうだろう。
きっと笑ってくれると思う。そういう人たちだったから。
マンションが見えてきた。
今日の出発点だ。
朝ここを出て、知らない街をずっと歩いて、また帰ってきた。
それだけのことだ。
それだけのことが、こんなにも長くて、こんなにも満ちていた一日だった。
ポケットには何もない。財布も持っていなかった。シュークリームも食べられなかった。
お腹は空いたままだ。
それでも。
玄関ドアの前に立つ。
一度だけ振り返った。
夕空はもう半分、紫になっていた。
街に明かりが灯り始めている。
どこかで夕飯の匂いがした。
転生した。
日本にいる。
子どもの体になっている。
それ以外は何も知らない。
でも今日だけで、知らなかったことがたくさん増えた。
外の空気の匂い。
信号を渡る感触。
猫の欠伸。
パン屋のバターの匂い。
少女の「にゃっ」という声。
街が夕暮れに変わっていく様子。
全部、初めてのことだった。
全部、本物だった。
きっと明日も、知らないことが増える。
ドアを開けると、部屋の中は暗かった。
電気をつけると、殺風景な部屋が変わらずそこにあった。
朝と同じ部屋だ。
何も変わっていない。
でも、なんとなく朝より少し「自分の部屋」に見えた。
帰ってきた、という感覚があるからかもしれない。
机の前に立つ。
引き出しに手をかけた。
まだ開けていない引き出しが残っている。
朝、後回しにしたやつだ。
外の空気を吸いたくて、それどころじゃなかった。
でも今日の外はもう終わった。
さて。
ぐう。
まずお腹を何とかしなければならない。
でもどうすればいいのかわからない。食事とはすなわち病院食だったから。オワタ。