「もうそろそろ、出発する時間じゃないかい? 悟」
久方ぶりの再会だった。軽く背を叩いてそう告げたのは、かつての親友――夏油傑である。
五条悟は両面宿儺に敗れ、おそらくこの世とあの世の狭間のような場所にいる。霧のような空間に、ふたりだけが取り残されていた。
「出発って……まさか、生まれ変わるってことかよ?」
眉をひそめる五条の問いに、夏油は懐かしむような眼差しで微笑む。
「ああ、概ね間違いじゃないよ。――何か、やり残したことでもあるのかい?」
五条はふてぶてしく頭をかきながら、肩をすくめた。
「生徒の前であんなに見栄張っといてよ……結局負けちまった。笑えねぇよな」
「……彼らのことを、気にしているのか?」
夏油の問いに、五条は「ハッ」と短く笑った。
「俺が育てた生徒たちだぞ? 気にするに決まってんだろ。――いや、気にする“までもない”か」
そう言いながら、五条の表情がふっと和らぐ。
彼は、かつて虎杖に言われた言葉を思い出していた。
“負けちゃう……?”
あの言葉。あの瞳。あの期待。
生徒たちの顔が、一人ひとり浮かんでは消える。
「宿儺は強かったよ。あれで本気じゃなかったんだ。とんでもねーよ……でもな」
五条はゆっくりと目を閉じ、噛みしめるように言葉を絞り出す。
敗北の余韻を抱えたまま、それでもなお、揺るぎない確信を宿した声で。
「――勝つさ」
五条は勢いよく立ち上がり、そのまま前へ歩き出した。
「よし、行くぞ。――傑」
呼びかけに応える代わりに、夏油の声が背中へ投げかけられる。
「悪いが、私は一緒には行けない」
その一言で、五条の足がピタリと止まる。振り返った表情には、納得よりも先に疑問が浮かんでいた。
「は 何言ってんだよ。どういうことだ?」
夏油は曖昧さのない口調で続ける。
その声音には、もはや躊躇も濁りもない。
「さっき言っただろう。出発だ。――私が乗る便は、夏油傑としての人生を終え、新しい魂として生まれ変わるための場所へ向かう便だ。そこに私は行く。でも、君は違う」
五条の眉が深く寄る。理解できない。
「俺だけ別扱いってことかよ。なんでだ」
夏油は目を伏せもせず、まっすぐに答える。
「悟は“終わった”と思っているのかもしれない。けれど、まだ終わっていない。やることが残っている。理由は私にも分からない。ただ、それが済むまでは、君はそっちへ進めない」
五条は舌打ちこそしなかったが、声に苛立ちが滲む。
「いや説明になってねぇよ。やることって何なんだ」
「さぁ、私には分からない。けれど、その答えを見つけるのは他でもない、悟だ。灰原も七海も向こうへ行った。ここに残っているのは私だけだ。だから、私は待つ。それだけだ」
言葉は淡々としているのに、拒絶ではなく背中を押すような確かな熱があった。
五条はしばらく黙り、やがて肩で息をつきながら視線をそらす。
「……面倒くせぇな。ほんとに。まぁいい。分かったよ」
それでも、一歩踏み出す足は止まらない。
重い話でも、先の見えない条件でも、立ち止まっている気はさらさらない。
「――先に行くんじゃねぇぞ、傑」
言い捨てるようでいて、確かに届く言葉だった。
そうして五条は、出発する便の方へと歩き出した
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しばらく待っていると、空港とはまるで似つかない車体――電車のようなものが、線路もない空間を滑るように五条の前を通り過ぎていった。
金属の車体が空気を切り裂き、風が五条の髪を揺らす。
「ここ空港だよな? なんで電車が走ってんだよ」
乗るべきか判断がつかないまま立ち尽くしていると、場違いなほど明瞭なアナウンスが響いた。
『五条悟様。四番乗り場に停車中の“学園行き”の電車にご乗車ください』
はっきりと名指しされた瞬間、五条はふと頭上を見上げる。
視線の先には「4番乗り場」の看板。そして目の前には、あの電車。
どうやら自分の乗り物で間違いないらしい。
「……ハイハイ。俺の名前呼ぶなら、せめて説明もつけろっての」
文句を言いつつも足は電車へ向かう。
車内に足を踏み入れると、そこには誰の姿もなく、静まり返った空間が広がっていた。
乗った途端、背後で扉が自動的に閉まる。
すぐに車体が揺れ、出発の気配が掌に伝わった。
「学園って言ってたよな……まさか呪術高専、なんてオチじゃないよな?」
苦笑まじりに呟く。
さっきのアナウンスの言葉から考えれば、思い当たる場所はそこしかない。
電車は空港の滑走路を滑るように進み、やがて景色が水上へと切り替わった。
窓の外には海が広がり、夕陽に近い橙色の光が車内へ差し込む。
座席の一部は眩しく照らされ、反対側は静かに影を纏う。
反射した光が揺れて、海面と車内が同じリズムで波打った。
まるで現実と夢の境界が曖昧になるような光景だった。
「なるほど。さすが“あの世”の移動手段ってか。……黄昏れてきちゃうな」
そんなこと言っていると 突然夕陽が差し込み、橙色の光が五条のサングラスに反射した。
まぶしさに目を細めたその瞬間、気づく。
いつの間にか、目の前の席に“誰か”が座っている。
最初からそこにいた気配はない。
まるで光が形を取って人になったような、唐突な現れ方だった。
知らない顔だ。
だが同じ電車に乗っている以上、行き先は近いのかもしれない。
そう結論づけた五条は、あっけらかんと声をかけた。
「ハイハーイ! そこの君 僕と同じ境遇の人だったりする? 僕この電車がどこに向かうのかよく分からないんだけど 学園ってなにか知ってる?」
夕陽に目が慣れていくと、相手の輪郭が段階的に浮かび上がる。
中学生か高校生くらいの少女。
誰なのか分からないが、こちらを拒む気配もない。
そこで五条の表情から、ゆっくりと笑みが消えた。
少女の体に目が止まる。
包帯、血の跡、沈んだ色の皮膚。
一目で理解できる状態だった。
「その怪我 もう長くないんじゃない?」
五条の声はいつも通り率直で、曖昧さがない。
少女はすぐには返事をしなかった。
けれど、沈黙は絶望ではなく、どこか落ち着いた静けさを帯びていた。
やがて、少女はふっと微笑む。
「相変わらずですね 先生」
その言葉で、五条の眉がわずかに持ち上がる。
驚きというより、鋭く状況を読み取る反応に近い。
「確かに 僕は教員だけど 君の先生じゃないと思うよ」
五条はきっぱりと言い切った。
しかし少女は揺らがない。むしろ、確信しているように言葉を重ねた。
「覚えていないのも 無理はありません
何も思い出せなくても おそらくあなたは同じ状況で 同じ選択をされるのでしょうから」
その声音には余計な情緒がない。淡々としているのに、否応なく意味が滲む。
五条は黙ったまま、少女を観察した。
彼女は続ける。
「私の ミスでした 結局この結果に辿り着いて あなたの方が正しかったことを悟るだなんて」
まるで五条悟を深く知っているかのような口ぶりだ。
だが五条は、この少女に見覚えがまったくない。
記憶がどこを探しても引っかからない。
「今更図々しいですが、お願いします
五条先生」
五条は返事をせず、少女の声だけを静かに受け取った。
沈黙は拒絶ではなく、選択のための時間だった。
「きっと私の話は忘れてしまうでしょうが
それでも構いません」
「大事なのは 経験ではなく 選択です
あなたにしかできない 五条先生にしかできない選択の数々を」
「責任を負うものについて 話したことがありましたね」
「あの時の私には分かりませんでしたが 今なら理解できます」
少女は自分の過去を辿るように、そして五条の未来へ言葉を置くように続けた。
「大人としての責任と義務 そしてその延長線上にあったあなたの選択
私が信じた大人である あなたなら
この捻れて歪んだ先の終着点とは また違う結果を」
「そこへつながる選択肢は きっと見つかるはずです」
「だから先生 どうか」
その最後の願いが形になる前に、五条が遮った。
「よく分からないけど 分かったよ 僕はまだ何も知らない それをこれから知っていくんだろ?」
五条の脳裏には、傑の言葉が蘇る。
――まだやることがある。
もしそれが真実なら、この少女の言葉は無関係ではない。
これから起こる何かに 深く影響する
目の前の少女は名前も知らない。
だが、自分を信じて話している。
いつか生徒になるかもしれない存在だと思う
自分の知らない記憶を知っている人物。
だから五条は、彼らしい一言で締めた。
「僕 最強だから」
その言葉を聞いた少女は、静かに瞼を閉じた。
夕陽の光が彼女の輪郭を溶かし、影が海の色に飲まれていく。
次の瞬間、少女の姿はその場から消えていた。