4月8日 エヴァンジェリン邸 朝。
「ケケケ、オマエガ御主人ノ呪イヲ解呪シタヤツカ」
翌朝、士郎が目を覚まして一番最初に目に入ったのは人形だった。 それも、刃物を持った人形が自身に跨っている光景だ。
「……ここは?」
士郎は呟きながら体を起こす。 まだよく回っていない思考のまま、胸から転げ落ちそうになった喋る人形を受け止め、周囲を見回した。
「確か……そう、この家に」
異世界であるということに、いまだ実感なんて湧かない。 だが、何も分からず、何も知らないのは確かだ。 この家に逗留していいというエヴァの言葉は、今の俺にはありがたかった。
「オイ、オマエガ御主人ノ呪イヲ解呪シタヤツカ?」
思考に埋没していると、膝の上に置いた口の悪い人形が、ケケケと笑い声を上げながら問いかけてきた。
「御主人っていうのがエヴァのことなら、確かにそうだ。……まあ、俺の力っていうよりは宝具の能力なんだけどな」
そう言いながら、士郎は肩を竦めてみせた。
「ん? どうかしたか?」
膝の上に据わる人形から強い視線を感じ、ふと見下ろす。 確かエヴァは『人形遣い』とも呼ばれていると聞いた。 御主人と言っている以上、この人形もエヴァの従者なのだろう。
見詰め合うこと数十秒。
「――オマエ、家政夫ダナ」
いきなり断定された。
「は?」
言うに事欠いて家政夫。 確かに士郎は家事全般が嫌いではないが、初対面の相手に断定されるのは些か複雑なものがあった。
「家政夫って……俺には衛宮士郎という名前があるのだが」
「ケケケ、ソウカ家政夫」
どうやら訂正する気は無いらしい。 いい性格をした人形に、士郎は軽く溜息を吐いて口を開いた。
「……それじゃあ、お前の名前は?」
「俺様ノ名ハチャチャゼロダ。忘レルナヨ家政夫。キット俺様達ト長イ付キ合イニナルダローカラナ」
俺様達と――チャチャゼロはどこか意味深な言葉を残してケケケと笑った。
「ああ、分かったよチャチャゼロ」
「こちらこそよろしく」という士郎の挨拶に、チャチャゼロは愉快そうに再び笑った。 視線を外して、壁にかかった時計を何気なく見る。
「……もう昼近く、なのか?」
些か寝すぎたと自戒し、エヴァと茶々丸は何をしているのだろうかと疑問が浮かぶ。 士郎は、自力では動けないであろうチャチャゼロを何気なく頭の上に乗せて、二人を探すために立ち上がった。
しかし、二、三歩もしないうちに、部屋の奥からメイド服姿の茶々丸が顔を出した。
「士郎さん、おはようございます」
「ああ、茶々丸か。おはよう」
よく眠っていましたね、という茶々丸に、疲れていたからだと短く答える。
「マスターが起こすなと言っていたのは、そのことを知っていたからでしょうか」
「どうなんだろうな。記憶を覗いたとか言っていたから、多分知ってはいたと思うけど。……そういえば茶々丸、このチャチャゼロのこと、知っているか?」
士郎に名を呼ばれると、ケケケと不気味に笑うチャチャゼロ。
「はい。マスターの初代従者で、私の姉に当たります」
姉という言葉に一瞬疑問が湧いたが、確かに二人には似通った部分があると思い直す。
「姉妹と言っても、私が稼働し始めたのはここ二年。私が科学と魔法の混血なのに対して、姉さんはマスター謹製の人形です。姉さんはマスターと共にありましたから、稼働時間は軽く数百年を超えています」
「ケケケ、スゲーダロ家政夫」
「……む、確かに」
数百年を超える真祖の吸血鬼と共にいた人形。 士郎の元いた世界の理に当てはめるなら、何かしらの神秘を帯びていても不思議ではない。
「昨日は見かけなかったが、チャチャゼロはどこにいたんだ?」
「いえ、姉さんは見ての通り学園結界の敷かれているこの麻帆良では碌に動くこともできません。今朝方、マスターが何かしていたので、多分掘り起こしてきたのではないでしょうか。理由までは分かりませんが……」
「そうか……。チャチャゼロ?」
「俺様ガ知ルワケネーダロ家政夫。イキナリ御主人ニ起コサレテ、オマエノ上ニ投ゲラレタンダゼ」
チャチャゼロの答えに、士郎と茶々丸は顔を合わせて揃って首を捻った。
「貴様ら、出掛けるぞ!」
声のした方へと振り向くと、そこには仁王立ちをしたエヴァの姿。
「エヴァ、いい所に。……出掛けるって、学校じゃないのか?」
「ああ、しばらく休むと言った。家庭の事情とな」
エヴァは悠然と答えて、不敵に笑う。
「安心しろ、出席日数なら大丈夫だ」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
「気にするな、どうせ些細なことだ」
「マスター、学年最初の始業式から出席日数と言っても……」
「うるさいぞ、貴様ら!」
「…………」 「…………」
「……まったく。せっかくあのバカの呪いから解放されたのだ。少しは自由にしてもいいだろうが!」
士郎と茶々丸の息の合ったジト目に、エヴァは言い訳をする子供のように反論する。 そんな彼女を見て、士郎はなんだか子供をいじめているような錯覚を覚え、思わず肩を竦めた。
「……それで、どこへ出掛けるんだ?」
話を戻すように水を向けると、エヴァは待ってましたとばかりに一転して、高々と宣言した。
「京都だ!」
***
エヴァの宣言後、士郎は朝飯も早めの昼食も食べる暇なく、あれよあれよという間に新幹線の中にいた。
車内で買った駅弁をつまみながら、隣に座る大人姿のエヴァを何気なく見る。 駅弁を食べ、冷凍みかんを買い、酒にツマミとはしゃぐエヴァ。 その姿からは、齢数百を超える吸血鬼であることなど到底信じられない。 老獪さはあるが、どこにでもいる普通の女性にしか見えなかった。
彼女は自分を「不老不死の化生」だと、寂しげに笑って言った。 だが、エヴァンジェリンという少女は、決して悪意ある存在ではない。 そのことに、士郎は安堵と、縁を持てた喜びを感じていた。
いつの間にかうとうとし始めたエヴァに、士郎はそっと聖骸布のコートをかけてやった。
「すいません、士郎さん」
「いや、いいさ。それにしても随分とはしゃいでいたな。まるで本当の子供みたいだった」
「ケケケ、御主人ガキミテーダゾ」
士郎の頭の上で、酒を片手にそんなことを言うチャチャゼロに、士郎は苦笑いを浮かべた。
「……マスターは本当に楽しみにしていましたから」
どこか憂いを含んだ茶々丸の言葉に、士郎は彼女の顔を見つめる。
「私が稼働し始めて丸二年。片時も離れず従者として共にいましたが、このようにはしゃぐマスターを見たのは初めてです。……見てきたのは、どこか投げやりな行動と、諦念、それに寂しさでしたから」
「…………そうか」
希望を持って過ごした日々が、一転して絶対の戒めとなった後。その想いは――。 士郎はそれ以上考えるのをやめ、首を振った。 自分みたいな者が、彼女の想いを推測するなどおこがましい。 ただ、呪いが解けた瞬間に彼女が流した、あの一滴の涙。その横顔だけが胸に残っていた。
「……昔のエヴァって、どんな感じだったんだ?」
「昔、昔カ。簡単ダ。タダ流レテイタ、ソレダケダゼ」
「流れていた?」
「コレ以上聞キテーナラ御主人ニ直接聞クンダナ、家政夫」
ケケケと笑うチャチャゼロ。だが、その笑いはいつもとは少しだけ毛色が違っていた。 士郎も、その意を汲む。
「そうだな。チャチャゼロの言う通りだ」
彼女は何を思って生きてきたのだろう。 長年生きてきた韜晦(とうかい)さと、童女のような純粋さ。 士郎はエヴァに掛けた外套を直し――ふと手が伸びて、自然と彼女の頭を撫でていた。
特に意味があったわけではない。なんとなく、そうしたくなった。 エヴァは拒絶することなくそれを受け入れ、ただ、チャチャゼロの笑い声だけが響いた。
***
新幹線は京都に到着した。 酒のせいか、寝不足か。エヴァはなかなか目を覚まさず、士郎と茶々丸は彼女を支えて構内のベンチへと運んだ。
「エヴァ、大丈夫か?」
「うむ……」
「ダラシネーナ、御主人」
「……うるさいぞ、黙れチャチャゼロ」
大きなあくびをして再び寝ようとするエヴァに、士郎は肩を落とす。 とりあえず自販機で缶コーヒーを買い、エヴァの手に持たせた。
「エヴァ、とりあえずこれでも飲んで目を覚ませ」
「うむ……」
緩慢な手つきで缶を握るエヴァ。 綺麗な爪でプルタブを……引こうとするが、結局引っ掛けられずに船を漕ぎ始めてしまう。
「こらこら」
落ちそうになった缶を取り上げ、プルタブを引く。
「ほらエヴァ、開けたぞ。落とさないようにな」
士郎はしゃがみ込み、エヴァの白く綺麗な掌に缶コーヒーを戻して、上から包むように握らせた。
「こぼさないようにな」
促されて、エヴァは小さく背を丸め、コーヒーを啜り始めた。 妙齢の女性の姿でありながら、ちびちびと飲むその仕草は、まるで十歳児の少女だ。
士郎は誘われるように、またエヴァの頭に手を伸ばし、さらさらの金髪を解きほぐすように撫で始めた。
「ん~……」
機嫌よさそうに目を細めていたエヴァだったが、はっと気がついて士郎の手を払いのけた。
「し、士郎! 貴様、何をしている!?」
「……やっと目が覚めたみたいだな」
顔を赤らめてわたわたするエヴァに、苦笑いを浮かべる。
「ま、まあいい。……今度はブラックを買ってこい。それで許してやらんこともないぞ」
そっぽを向いて口を尖らせる彼女に、士郎は「はいはい」と頷いた。 一人歩いて行く士郎の背中を、エヴァはぼうっと眺める。
「オイ御主人。本物ノガキミテーダッタゾ」
チャチャゼロは、空になった空き缶をぶつけられた。
「士郎!」
自販機の前にいる士郎の名を呼ぶ。 士郎は一瞬戸惑ったが、エヴァが掲げた手を見て、ふっと笑って缶コーヒーを投げた。
「ナイスキャッチ」
「貴様の腕がいいのだろう」
無糖の缶コーヒーを掌で回し、エヴァは不敵に鼻を鳴らした。
「完全に目が覚めたみたいだな」
「うむ、すまんな士郎」「これからどうするんだ?」
「ん? ああ、別に意味も無く京都に来たわけじゃないぞ。茶々丸、電話をかけろ」
エヴァは服を漁ると、数字が羅列された一枚の紙切れを茶々丸に手渡した。
「そこにかけろ」
「はい、分かりました」
「……まあ、昔の知り合いというやつだ」
茶々丸が電話をかけている脇で、エヴァはコーヒーを傾けながら答えた。 やがて茶々丸が、すっとエヴァの正面に立つ。
「――少々お待ちください。マスター、どうぞ」
「うむ。――久しいな、近衛詠春」
***
「エヴァンジェリン!」
息を切らして喫茶店に駆け込んできたのは、細身で長身の男性。 エヴァの隣に座る士郎に気づくと怪訝そうにしながらも、彼は促されるまま腰を下ろした。
「……お久しぶりですね、エヴァンジェリン。それで、呪いはどうしたのです」
「早速それか。見ての通りだ、解呪したぞ」
詠春と呼ばれた男は、驚きのあまり言葉を失った。
「……お義父さんはこのことを?」
「昨日の今日だ。多分知らんだろう。まあ、しばらくは貴様の娘と同級生だ」
「少なくとも麻帆良に一年は留まると?」
「ああ、それが約束なのでな」
詠春は「約束」という単語に疑問を抱くが、ひとまず喉を潤すために水を飲んだ。 そして、ずっと気になっていた隣の男へと視線を向ける。
「エヴァンジェリン、この方は?」
「衛宮士郎だ。なかなかの強者だぞ。油断すれば貴様も私も、あっさりと喰われるかもしれんくらいのな」
「……確かに、そうですね」
士郎は「そんなんじゃない」と否定するが、詠春は士郎から漂う尋常ならざる気配を感じ取っていた。
「私は近衛詠春。エヴァンジェリンとは古い友人ですよ」
「衛宮士郎と言います。エヴァに拾ってもらった人間……という所でしょうか」
二人が握手を交わす中、エヴァは悪い笑みを浮かべて爆弾を落とした。
「――で、私の呪いを解いた男だ」
「――っ!」
詠春は驚愕のあまり腰を浮かせる。
「解呪するためには違う理を持ってくるしかなかった。……こいつが凄いのか、あのバカが凄かったのか」
エヴァは不機嫌そうに鼻を鳴らし、冷めかけたコーヒーを飲み干した。
「それで、例の物は持ってきたか?」
「……はい」
緊張した面持ちの詠春を連れ、一行はタクシーで移動を始めた。 到着したのは、林の奥にひっそりと佇む一軒の建物。
詠春から受け取った鍵で、エヴァが扉を開ける。 そこは時が止まったような空間だった。膨大な書籍に満ちる魔力。 士郎が圧倒されている間に、エヴァは書斎へと歩みを進める。
そこには、一枚の写真立てがあった。
「……それは?」
「サウザンドマスターとその戦友たちですね」
詠春が静かに告げる。
「その真ん中に立っているガキがそうだ。ナギ・スプリングフィールド。……正義の味方、かもな。そして私に呪いをかけて、勝手に死んだバカなやつだ」
冷ややかな口調。だが、エヴァの視線はずっと写真の中の男を見つめたままだった。 正義の味方、か。 士郎がその言葉に感慨を覚える中、詠春が尋ねた。
「エヴァンジェリン、これからどうするつもりですか?」
「ん? 少しの間だけここに留まらせてもらう。ここでヤツのことを少し調べて、観光を楽しむだけだ」
詠春を見送った後、士郎は一人、書斎に残ったエヴァに尋ねた。
「ナギって人は、エヴァにとってどんな人だったんだ?」
「さあな。結局答えが出る前に、ヤツは私の前から居なくなった。……だからこうして今尚、ヤツの足跡を探しているのかもしれん」
***
別荘での生活が始まった。 エヴァは資料を読み漁り、士郎は家事を引き受け、茶々丸は猫の餌やりを手伝い、チャチャゼロは皆を茶化す。
最初の数日は精力的に動いていたエヴァだったが、一週間も経つと次第に調べ物もおざなりになってきていた。
4月15日 朝。
「いつまで寝ている! 起きろ士郎!」
「…………エヴァ?」
目を覚ますと、子供姿のエヴァが跨っていた。
「調べ物は終わったのか?」
「もういい! 欲しい手がかりはなかったんでな、昨日で打ち切りだ! 観光に行くぞ!」
「は?」
一週間、観光につぐ観光だった。 清水寺から始まり、有名所はほぼ網羅した。名物を堪能し、エヴァが点てた茶を楽しみ、士郎自身も存分に楽しむことができた。
そして月曜の朝。上機嫌で朝食を食べるエヴァが口を開く。
「さて、いい加減麻帆良に帰るとするか。二週間も開けるとジジイがうるさいからな」
「……マスター」
茶々丸が、言いづらそうに口を開いた。
「マスター、明日から修学旅行です」
「……場所は?」
「……京都です」
「はぁ!? 何だそれは!」
エヴァは聞いてないぞと詰め寄るが、茶々丸は淡々と答える。
「ちなみに始業式に出ていない私たちには、健康診断の受け直しが待っています」
「ぐぬぬ……どうせ体型なんぞ変わらんというのに!」
激昂するエヴァ。 麻帆良には帰らないのか、と疑問を浮かべる士郎に、エヴァは無言で振り向いた。
「エ、エヴァ?」
「茶々丸、ジジイに電話を繋げ」
数コールの後、学園長に繋がる。
「おいジジイ、部屋を一つ都合付けろ」
それは、脅迫に近い一言だった。