4月22日 旅館
エヴァたちは学園長に用意させた旅館の一室へと、昼過ぎには完全に移っていた。
登校地獄の解除という衝撃的な話題から始まったエヴァと近衛近右衛門の電話だったが、いくつかの約束を了承することで、旅館に一室用意されることとなった。
その約束事とは、「緊急事態を除き関西呪術協会に過干渉しない」「有事の際は一般の生徒たちを守る」といった内容だ。
その中でも一番念を押されたのが、今後どうするにせよ必ず麻帆良に顔を出せというものだった。 思いのほか、近右衛門はエヴァが二度と戻ってこないのではないかと心配していたようだが、エヴァは「馬鹿なことを」と半分笑い飛ばしていた。 結局、半信半疑の学園長を麻帆良に戻るまで気を揉ませ続けたのは言うまでもない。
「まあまあの旅館だな。茶々丸、お茶をくれ」
「まあまあって……」
チェックインするなりふらりと居なくなっていたエヴァだったが、戻ってきての第一声はそんな一言だった。 エヴァは士郎の呟きを黙殺しながら、部屋の内装へと視線を巡らす。
十畳ほどの和室に、長方形の座卓。 障子戸の向こうには、
「ふむ、典型的な旅館の一室、といった所か」
「修学旅行の宿泊先に選ばれるくらいだろ。そう奇を
「それもそうだな」
エヴァは頷きながら、士郎の隣に敷かれた座布団に腰掛ける。
「旅館ヲ探検ダナンテ、ガキミテーダナ御主人」
「……チャチャゼロ。貴様、少しは主人を敬おうとは思わんのか? あ?」
主人の凄みを利かせた言葉もなんのその、チャチャゼロはケケケと笑い飛ばす。
エヴァは「まったく」と溜息をついて、茶々丸が淹れたお茶を啜った。
「それで、旅館内はどうだったんだ?」
「ふむ。ざっと見てきただけだが、やはり目に付いたのは露天風呂か」
「ケケケ。ソレ以外ニ見ル物ガナカッタンジャネーノカ」
「そうとも言うかも知れんな」
「ケケケケケ」 「フフフフフ」
揃って不敵に笑う主従に、士郎は頭を抱えた。
「マスター、時間もありますし、温泉に行ってきてはどうでしょう?」
士郎への助け舟のような茶々丸の提案に、エヴァは軽く首を捻ってから頷いた。
「ここでお茶を飲みながらゆっくりするのも一興だが、ガキどもが来る前に一度入っておくのが賢明か……」
今なら煩い者もいなくて快適だろう。そう思ってエヴァは視線を上げた。
「どうかしましたか、マスター?」
「いや、一人で行くのもどうかと思ってな。……茶々丸は、無理か」
「申し訳ありません」
一礼する茶々丸に、エヴァは気にするなと首を振る。
「チャチャゼロ! ……はどうせ来んな」
「ケケケ」
同意するように笑う人形。エヴァは聞いた自分が馬鹿だったと鼻を鳴らし、最後に衛宮士郎を見た。
「士郎、貴様は大丈夫だろう? いや、大丈夫だな。一緒に行くぞ、拒否は認めん」
「俺も? ……分かった、行くよ」
どうせ拒否しても認められそうにない。それなら楽しんだ方が賢明だと士郎は頷いた。 風呂の準備の前に、せっかくのお茶を一杯。
そう思って士郎が湯飲みを手に取った時には、エヴァはもう立ち上がっていた。
「……今すぐに行くのか?」
「当たり前だろう。何を言っているんだ貴様」
何を馬鹿なことを、と可哀想なものを見るような目で見られる。
言いかけた言葉を飲み込み、士郎はお茶を一気に飲み干して立ち上がった。
「茶々丸、お茶をありがとな。今度は時間がある時にでも、また淹れてくれるか?」
「はい、それはもちろん。……それよりも」
「茶々丸?」
語尾を濁す茶々丸に、士郎は怪訝そうに眉を寄せる。
「その、ですね、士郎さん。ここの露天風呂は……」
「うん?」
「おい士郎、何をぐずぐずしている。さっさと行くぞ!」
すでに扉に手を掛けているエヴァの催促。
茶々丸の歯切れの悪さが気になったが、待たせるわけにもいかない。
「茶々丸、話はまた後でな。チャチャゼロ、じゃあ行ってくる」
「ケケケケケ、シッカリ御主人ヲ堪能シテコイヨ」
「あ? ああ、エヴァと一緒に楽しんでくるよ」
チャチャゼロの言い回しに首を傾げつつも、頷く士郎。 茶々丸はどこか複雑そうな目で見ていたが、それ以上は何も言わず、二人の浴衣とタオルを手渡した。
「……それでは、行ってらっしゃいませ」
「ああ、行ってくるよ」
結局、二人の真意を理解しないまま、士郎は軽く手を振って部屋を出た。
廊下に出て視線を彷徨わせると、どこか小躍りするように歩くエヴァの背中が見えた。 そんなに楽しみなのかと苦笑しつつ、士郎も足取りを速めた。
***
「士郎、早く上がっても、私が戻ってくるまで待つようにな。冷えたフルーツ牛乳を手に持っているのなら尚良いぞ」
エヴァが指差したのは、瓶牛乳の自販機。
提案ではなく、もはや命令だ。傲慢で不遜、けれどどこか子供の我儘のようでもあり、士郎の口元には自然と笑みが漏れた。
「忘れるなよ?」
「忘れないさ」
エヴァは満足げに頷くと、颯爽と女湯の暖簾を潜っていった。 士郎もまた、自身の暖簾に目を向ける。
「さて、約束したからにはエヴァより早く上がらないとな……」
男湯の暖簾を潜る。
「誰も、いない?」
熱気が充満する脱衣所には、人っ子一人いなかった。 好都合だとばかりに、士郎は手早く服を脱ぐ。
衣服の下から覗くのは、夥しい数の傷跡だ。
切り傷、火傷、そして日本ではまず見かけない銃創。
血生臭いこととは無縁の平和な日本なら、気味悪がられてもおかしくはない。
「……エヴァだったら、きっと鼻で笑うだけで済ませるんだろうな」
出会ってからまだ日は浅いが、不敵に鼻を鳴らす彼女の姿が鮮明に浮かぶ。 そんな自分が可笑しくて、士郎は喉を殺して笑った。
衣服を籠に放り込み、タオルを片手に露天風呂の扉を開ける。
「ほぅ……」
視界に広がった石造りの広い風呂。
士郎は手早く掛け湯を済ませ、湯船に浸かった。 露天風呂ということもあって、遠くから野鳥の鳴き声が聞こえてくる。
「……温泉に浸かると、ようやく日本に帰ってきたって気がするな」
ぐっと腕を伸ばし、完全に寛いでいた士郎だったが、ふと扉が開く音が聞こえた。 他の客が来たか、と視線を向けると――。
「――!?」
湯煙の先に見えたのは、女性の裸体。
白く長い四肢。金糸の髪をなびかせた長身の美女。 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル、その人であった。
ここでようやく、茶々丸とチャチャゼロの真意が繋がった。 知らぬは自分ばかり。士郎は頭を抱え、恐る恐る顔を上げた。
「エ、エヴァ?」
「なんだ、士郎か」
挙動不審な士郎に対し、エヴァは平然としたものだった。
「この露天風呂は混浴だったみたいだな。ふむ、士郎もいるなら酒が欲しい所だ」
手桶で掛け湯を済ませ、湯船に浸かって士郎の元へと移動してくる。
「えっと、エヴァ?」
「無闇やたらと他人に肌をさらす趣味なぞ無いが、ゆうに五百年以上も生きているのだ。いまさら肌を見られたからといって、きゃーきゃー喚く羞恥心なぞ無い」
そう言い切ったエヴァだったが、ふと何かを思いついたように士郎の顔を覗き込む。
「……士郎。貴様は初心なのが好みなのか?」
しなだれかかってくる美女の姿に、士郎は深く、深く溜息をついた。
「ふん。何だその溜息は! 少しは動揺してみせろ、この馬鹿者が!」
エヴァは指を鳴らし、幻影の魔法を解いて子供の姿に戻った。
そして胡坐をかいている士郎の膝の上に腰を下ろし、後頭部を士郎の胸に預ける。
見かけは子供だ、と無理やり納得し、士郎はそれを受け入れた。
「……この体勢に、何か意味はあるのか?」
「そんなもんあるわけないだろ。しいて言うなら私が座りたいからだ。役得だと思って素直に享受しろ」
大人の姿でこれをされたらたまらなかったが、子供の姿ならむしろ微笑ましい。 士郎は何も考えずに口にした。
「……まあ、確かに。大人の姿は美人だけどさ、子供の姿の方も可愛くて俺は好きだぞ」
士郎は目の前にある小さな頭を、ぽんぽんと撫でる。
「ふ、ふん! 何を言っているんだ貴様、馬鹿かっ!」
気恥ずかしげにそっぽを向くエヴァ。 だが、その首筋が赤く染まっているのに気づき、士郎はくっくっと喉を殺して笑った。
「な、に、を、笑っているんだ貴様! 縊り殺すぞ!」
魔法が飛んできそうだったので、士郎は慌てて自重した。
「でもさ、どうして大人の姿に? 観光の時もそうだったけど」
「大人の姿の方が何かと便利だからな。子供の姿ではおちおち夜も歩けん」
「まあ、確かに」
この外見で夜出歩いていたら、すぐに補導されてしまうだろう。
「それに……」
「それに?」
「……美人に見られたいからだ」
「――――ッ」
頬を染めたエヴァの言葉。
あまりに予想外の、あまりに女の子らしい言葉に、士郎は思わず吹き出してしまった。
「き、貴様! 笑ったなッ!」
「わ、悪かった。……けど、そうか。美人に見られたい、か」
エヴァは湯船を波立たせて立ち上がり、士郎の首を掴んでガクガクと前後に揺さぶった。
「な、んだ! 何か言いたいことでもあるのかッ!」
「さっきも言ったけど、大人のエヴァは美人で、子供の姿は可愛いぞ?」
「その疑問形は何だッ!? とってつけたような言葉には騙されんぞッ!」
五分ほど騒いでいた二人だったが、やがて冷静になり、無言で肩をくっつけて座り直した。
流れる湯の音。硫黄の匂い。自然の情景を五感で感じ、深く息を吐く。
「……まったく。ゆっくりするために来たというのに。これでは逆に疲れに来たようなものだぞ」
「悪かったって。でも、思ったことをただ声に出しただけだぞ?」
「……まったく貴様は
エヴァは満更でもなさそうに鼻を鳴らし、ふふふと童女のように笑った。
二人は改めて肩を並べ、快晴の空を見上げた。
***
「マスター、随分と長湯でしたね」
「まあな。なかなかの湯加減だったぞ。湯上がりのフルーツ牛乳もな」
茶々丸は頷き、士郎に視線を向ける。
士郎は混浴だったことに多少の後ろめたさを感じ、取り繕うように乾いた笑いを浮かべた。
エヴァは肘掛け椅子に腰掛け、窓の外を眺める。
「ん? ガキどもが到着したか」
旅館の入り口には、何台もの観光バスが停まっていた。 降りてきたクラスメイトたちを見て、エヴァは呆れたように溜息を吐く。
「……阿呆か」
視線の先には、乗り物酔いか何かでべろんべろんになった生徒たち。 あたふたと戸惑うネギを一瞥し、エヴァはつまらなさそうに鼻を鳴らした。
***
旅館内に生徒たちが溢れてからは、エヴァたちはほとんど部屋を出なかった。 夜。エヴァの一言で、買い込んできた酒による宴が始まった。
「ハッハッハッ! 飲め! 酔え! 溺れてしまえッ!」
「ケケケ、ハッチャケテンナ御主人」
周囲に転がる空の酒瓶。最初からハイペースだったが、その勢いは一向に衰えない。
「オイ御主人、モウスグ酒ガナクナルゾ」
「チッ。私に買ってこいというのか」
「なら、俺が買いに……」
酔いの回った士郎がふらりと立ち上がるが、よろめいた体をエヴァに支えられた。
「士郎、貴様。酔いがかなり回っているぞ。そこで休んでいろ。……まあいいだろう、私が買ってきてやる」
「あ、マスター、私が行きましょうか?」
「いや、いい。茶々丸、貴様は士郎に酌でもしていろ」
エヴァは影の転移術を展開し、自身の影の中へと沈んでいった。
***
コンビニの袋を両手に下げ、エヴァは夜道を歩いていた。 魔法で戻ることもできたが、この夜の空気が妙に身に馴染んだ。
「……今日は本当に、良い夜だな」
煌々と照る月を見上げる。 何度も見てきたはずの月。だが、これほど酒が美味いと思ったのはいつ以来だろうか。
「このまま散歩も楽しそうだが、士郎たちが待っているしな」
旅館が見えてきた頃、玄関前で身支度を整えている従業員姿の女が目に入った。 眼鏡をかけた黒髪の女。
「お客様、今お帰りですか?」
「ああ、そうだな」
素っ気なく返事をして通り過ぎようとしたエヴァだったが、はたと足を止めた。 学園長との約束――「有事の際は一般の生徒を守る」。
「……忘れる所だった。貴様、今すぐ帰れ」
「お、お客様、何を……」
「匂うぞ、貴様。隠すのならもっと上手くするべきだな」
女の顔色が変わる。魔法の匂い。西の人間だろう。 女は懐から呪符を取り出した。
「へ?」
化かされたような声を上げる女。
エヴァは闇から溶け出し、背後から女の首に左手を掛けた。
「ひゃっ! い、いつの間に!」
「私は今、とても気分がいいんだ。帰るなら見なかったことにしてやる。水を差すというなら容赦はせんぞ?」
禍々しい魔力を解放する。
「ば、化け物ッ!」
その一言で、興が冷めた。 女を放し、コンビニの袋を拾い上げる。
「ま、待ちや」
女が
「なっ!?」
「……やるなら私の手の届かない所でやれ。次に向かってくるなら、一瞬で終わらせてやる」
「――ヒッ!」
悲鳴を上げて逃げ去る女。
「化け物か……。当たり前だろう、この身は死ぬにも死ねん吸血鬼なのだからな」
エヴァの言葉はどこか虚ろだった。 玄関ですれ違ったネギに視線を合わせることもなく、エヴァは部屋へと戻った。 そして、何かを忘れたいかのように酒を煽り、士郎にも無理やり飲ませた。
***
「……なあ、士郎。起きているか?」
深夜。エヴァは膝に乗せた士郎の髪を撫でながら囁いた。 聞こえてくるのは穏やかな寝息。
「星が、減ったか……」
窓の外を見上げるエヴァの表情は柔らかい。
「貴様の所為か。なあ、士郎」
こいつは私を否定しない。畏怖もしない。 馬鹿な奴だ、と優しい笑みを浮かべる。
「エ、ヴァ……?」
士郎がうっすらと目を開けた。
「貴様、起きたのか」
「あ、ああ。悪い、膝枕なんて……」
「今しばらく、そうしていろ」
「だが……」
「私は言ったぞ?」
士郎は諦めて、見上げる角度でエヴァの横顔を眺めた。
「……なあ、士郎。貴様は私のことをどう思う?」
「どう、って?」
「私は真祖の吸血鬼だ。闇の福音、人形使い、禍音の使徒。魔法界では子供を脅すための名前だぞ」
自嘲的に笑うエヴァ。
「数え切れないほどの命を奪ってきた。……化け物と言われても否定はできん。事実、化け物なのだからな。旅館にいたあの女のように、それが普通の反応だ」
「……俺だって、人を殺してきた。何人も」
「…………」
「殺さなければならなかった。だから俺はこの手で――」
士郎は拳を握りしめ、けれどすぐに力を抜いてエヴァを見つめた。
「俺は、エヴァを信じてる。たとえ過去がどうであっても、今のエヴァはそんなんじゃない。それだけは胸を張って言える」
対等な者に向ける、真っ直ぐな信頼。
「……馬鹿者」
エヴァは内側から込み上げる震えを感じた。
「エヴァは、その時何を思っていたんだ?」
「……私は、ただ生きるために生きてきた」
エヴァはどこか儚げに、自分の過去を語り始めた。
十歳で吸血鬼にされたこと。神を呪い、復讐を果たしたこと。 殺さなければ生きられなかった時代のこと。
「……エヴァはどうして俺を拾ってくれたんだ? エヴァにはそんな必要、なかったはずなのに」
「さあな」
とぼけるエヴァ。士郎は薄く笑った。
「投影魔術なんて気味悪がられて、捨てられるようにこの世界に来た俺の手を、エヴァは握ってくれた」
「……私と貴様は、どこか似ている。同族意識かもしれんし、傷の舐め合いかもしれん」
本当は、ただ寂しかっただけかもしれない。けれど、それは口には出さなかった。
「やっぱり、エヴァは優しいんだな」
「むぅ」
膝の上で笑う士郎が癪で、エヴァは彼の顔面に手刀を落とした。
「っ! 何を……」
「ふん。貴様が悪い」
エヴァは自然と、言葉を漏らしていた。
「なあ士郎。貴様は、ずっと私といろ」
「エヴァ?」
「貴様は危なっかしい。ふらりと消えて垂れ死にかねん。どうせ行くべき場所もないなら、ずっと一緒にいろ」
「…………」
「貴様が死ぬその時まで、私が貴様の死に水くらいは取ってやれるぞ」
「……それも、いいのかもしれないな」
「―――――ッ!」
エヴァの全身を感情の波が駆け巡った。
「――そうか。士郎。肯定したからには、私は貴様を絶対に放さんぞ」