明けましておめでとうございます…!
前回との温度差で風邪を引くかもしれないので注意♡
鏡の中の自分は、ひどく滑稽に見えた。
トリニティ総合学園、寮の一室で、
「……よし。完璧だよね、私」
誰に聞かせるでもなく呟いた声が、静かな部屋に溶けて消える。 心臓の鼓動が、普段より少しだけ速い。期待と、そしてそれと同じくらいの――あるいはそれ以上の「恐怖」が混ざり合っていた。
エデン条約を巡るあの一件。
ミカが犯した罪、裏切り、そして孤独。 多くのものを失い、多くの人を傷つけた。今の自分は、かつて皆が憧れた「ティーパーティーのリーダー」ではない。ただの、傷だらけで羽をもがれた迷い子だ。 それでも。
(……彼だけは、私を嫌いにならないでいてくれるかな)
幼馴染の彼は、ミカにとって最後の拠り所だった。 政治も、派閥も、裏切りも関係なかった、あの幼い日の記憶。
「ミカは笑っているのが一番だよ」と言ってくれた彼の言葉だけを、暗い地下牢のような自責の日々の中で、ミカは何度も反芻して生きてきた。 彼に会える。その約束だけが、今のミカを支える唯一の光だったのだ。
「待っててね。今、会いに行くから」
机の上に置かれた紙袋には、少し無理をして買ったトリニティでも一番人気の店で予約した特注のロールケーキ。 彼は甘いものが好きだった。これを一緒に食べれば、きっとあの頃みたいに――。
シャーレオフィスのラウンジへと続く廊下は、驚くほど長く感じられた。 一歩進むたびに、胸の奥がチリチリと焼けるような感覚がある。
もし、彼が今の私を見て「幻滅した」と言ったら? もし、私に怯えるような目を向けたら? そんな不安を打ち消すように、ミカは首を振った。
(大丈夫。彼は優しいもん。きっと『大変だったね、ミカ』って、頭を撫でてくれる)
そんな甘い妄想を抱いて、ラウンジの扉に手をかけようとした、その時だった。
「……あはは! 先生、本当に面白いですね」
扉の隙間から漏れ聞こえてきた、聞き覚えのある声。 ミカの心臓が、跳ねるのをやめた。
その声は、ミカがかつて独占していたはずの、あの温かくて優しい響き。 けれど、その声はミカに向けられたものではなかった。
ミカは息を殺し、僅かに開いた扉の隙間から中を覗き見る。 そこには、陽だまりのような窓際で、先生と楽しげに笑い合う彼の姿があった。
「いやぁ、君がそんなに話術に長けているとは思わなかったよ。助かるな、私一人じゃ手が回らなくて」
「いえ、先生の力になれるなら光栄です。……次は、あっちの資料をまとめましょうか」
二人の間には、完璧な「調和」があった。
先生は彼の肩を軽く叩き、彼はそれを受けて嬉しそうに目を細める。 ミカがずっと夢見ていた、彼が見せる「一番の笑顔」。 それが今、自分のためではなく、この学園の誰もが慕う「先生」という他者に向けられている。
その瞬間、ミカの視界から色が消えた。
(……ああ。そうなんだ。そういうことなんだ)
ドロリとした、重くて冷たい何かが足元から這い上がってくる。
先生はすごい人だ。皆を救い、皆を導く。自分のような壊れた人間でさえ、見捨てずに手を差し伸べてくれた。 だから、彼だって先生に惹かれるのは当たり前だ。先生と一緒にいれば、こんなドロドロした自分と一緒にいるより、ずっと明るくて、正しい場所へ行ける。
(先生は、ずるいよ……)
先生は、何でも持っている。 信頼も、地位も、みんなからの愛情も。
なのに、どうして? 私が唯一、これだけは絶対に離したくないと思っていた「彼」まで、先生は持って行ってしまうの?
先生が彼に向けた微笑みが、今のミカには鋭いナイフのように見えた。 彼が先生に向けている親愛の情が、自分への拒絶に見えた。
「……あは、あはは……。そうだよね。私みたいな『魔女』より、先生の方がいいに決まってる」
指先が震える。 握りしめていた紙袋が、無残に歪む。中のケーキは、もう原型を留めていないかもしれない。 でも、そんなことはどうでもよかった。
一度沈み始めると、ミカの思考は底なしの沼だった。
彼は先生に、私の「したこと」を全部聞いたんだろうか。 「ミカって最低な奴なんだよ」って、笑い合っているんだろうか。 いや、先生はそんなこと言わない。でも、彼が自発的に知ってしまったら? あんなに純粋に笑っている彼の隣に、人殺しの片棒を担いだ私が立っていいはずがない。
(いらないんだ。私なんて。……彼にとっても、世界にとっても)
激しい動悸がして、視界が歪む。
今すぐにでも部屋に乱入して、彼の手を引き寄せて、「私のことだけ見て!」と叫びたかった。 先生を突き飛ばして、彼をどこか遠く、誰にも見つからない場所へ隠してしまいたかった。 けれど、今のミカにはその権利がない。
その「資格」を、自分自身で壊してしまったから。
「嫌だ……嫌だよ……。行かないで、お願い……」
声にならない悲鳴が喉の奥でつかえる。 ミカは扉に手をかけることさえできず、ただずるずると後ずさりした。 逃げなければ。この幸せな光景から。 自分が異物であると突きつけられる前に。
ミカは踵を返し、走った。 どこへ行くあてもない。ただ、自分のヘイローがどす黒く濁っていくような錯覚に耐えながら、光の届かない場所を求めて、シャーレオフィスの回廊を彷徨い始めた。
ミカは、自分がどこを走っているのかも分からなかった。 ただ、胸の奥に溜まった黒いヘドロのような感情が、喉元までせり上がってきて息苦しい。
(……なんで、どうして。先生はあんなに笑うの? 彼はどうして、あんなに楽しそうなの?)
たった一度のすれ違い。それだけで、ミカの世界は簡単に崩壊した。
彼女の愛は、常に「
私は、彼にとっての『過去』に過ぎない。 今の彼には、先生という『未来』がある。
眩しくて、正しくて、誰も傷つけない、美しい未来。
「あはは……。そうだよね、私。また勘違いしちゃった。私みたいなのと一緒にいるより、先生と一緒にいる方が、彼は幸せになれるに決まってるもんね……」
冷たい回廊の壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込む。 手に持っていた紙袋は、もう無残にひしゃげていた。 中に入っているのは、彼のために選んだ、最高に甘いロールケーキ。 けれど今のミカには、それが腐り落ちた果実のように、自分自身の醜い独占欲の象徴に見えて仕方がなかった。
「……消えちゃいたいな。いっそ、誰も私を知らないどこかへ」
膝を抱え、顔を埋める。 一度沈み始めたミカの思考は、重力に逆らう術を知らない。 自分を責め、先生を恨み、そんな自分をまた責める。 無限に続く自己嫌悪の螺旋。その暗闇の中で、ミカは独り、震えていた。
「――ふむ。星の運行が狂い、観測者がその視座を失うとき、人は往々にして『所有』という名の幻想に縋るものだね」
静寂を切り裂いたのは、あまりにも場違いな、凛としていて、それでいてどこか人を食ったような声だった。
ミカは顔を上げないまま、声の主を特定する。 この、聞いているだけで頭が痛くなるような、遠回しで、
トリニティ総合学園。ティーパーティー、サンクトゥス分派のリーダー
「……セイアちゃん。悪いけど、今はそういう難しい話を聞く気分じゃないんだよね。あーあ、もう最悪……。放っておいてよ」
「それはできない相談だね、ミカ。君から放たれるその負の情動が、ここの調律を乱している。君のその、暴風雨にさらされた百合の花のような、あるいは深淵を覗き込みすぎて光を忘れた迷い子のような表情を見るに、事態は極めて主観的な悲劇へと向かっているようだ」
セイアは、音もなくミカの隣に歩み寄った。 彼女は手に持った本をパタンと閉じ、まるで見世物でも眺めるかのように、じっとミカを見つめる。
「落ち着いて聞きたまえ、ミカ。そもそも『愛』という不確かな概念を、物理的な『占有』と同一視すること自体が、存在論的な
「…………。」
「いや、むしろそれは、因果律の糸が複雑に絡み合い、君という終着点へ向かうための必然的なプロセス、あるいは多次元的な可能性の収束点における一時的な揺らぎに過ぎない。事象の地平線において光が屈折するように、感情もまた、対象への距離が近すぎるがゆえに歪曲して伝達されるということさ。理解できるかい?」
セイアは、一度も呼吸をしていないのではないかと思わせるほどの流暢さで、言葉を紡ぎ続ける。 ミカは顔を上げたが、その瞳には困惑の色が浮かんでいた。
「ねえ、セイアちゃん……。それ、どういう意味……?」
「簡単に言えばだね、君が抱くその『喪失感』という名の偶像は、鏡合わせの自己愛が生み出した幻影に過ぎないということだ。実体を持たない影法師を追うようなものだと理解すべきで……。さらに付け加えるなら、先生という変数が介在することで、君たちの関係性は静的な均衡を脱し、より高次の、不可逆的な親密さへと昇華される可能性を秘めているんだ。例えるなら、未熟な果実が厳しい冬の風に吹かれることで、その内部に甘美な糖分を蓄えるプロセスに似ている。君は、その冬の風を『死』と誤認しているが、それは生命の循環におけるーーー」
セイアの言葉は止まらない。 彼女は空を見上げ、陶酔したように、あるいは精密な機械がプログラムを遂行するように、難解な語彙を積み上げていく。
最初は悲しみに沈んでいたミカだったが、次第に別の感情が頭をもたげてきた。
(長い。……長いよ。セイアちゃん。っていうか、何を言ってるのか一ミリも分からない!)
「……セイア、ちゃん」
「また、存在論的な観点から考察すればだね、君が彼に対して抱いている独占欲という名の牢獄は、実のところ彼を閉じ込めているのではなく、君自身を閉じ込めているに過ぎない。解放とは、他者を所有することではなく、他者が自由であることに喜びを見出す……」
「……セイアちゃん」
「さらに言えば、時間軸における特異点としての『今』をーーー」
「ストップ! ストーップ!! セイアちゃん、長いし難しいよ!!」
ついに、ミカの耐忍袋の緒が切れた。 ミカは勢いよく立ち上がると、セイアの華奢な両肩をガシッと掴み、前後に激しく揺さぶった。
「もう! 三行目くらいから何言ってるか全然わからなかったもん! わざとやってるでしょ!? 要するに私が馬鹿だって言いたいの!? それとも私の負けだって言いたいの!? どっちなの!?」
「おや……。まだ話の序論、前提条件の定義すら終わっていないのだが。やれやれ、これだから直情的な君は困る。君のその、思考の短絡化こそが、悲劇を生む土壌となっているとは考えないのかい?」
「考えない! 考えたくない! セイアちゃんの話を聞いてると、悲しいことより『イライラ』の方が勝っちゃうんだもん!」
ミカの目からは、先ほどまでのドロドロとした涙は消えていた。 代わりに、怒りと困惑で頬が赤く染まっている。
セイアは、揺さぶられて乱れた髪を整え、ふっと小さく、勝利を確信したような笑みを浮かべた。
「……ふむ。ようやく、本来の君らしい活力が戻ってきたようだね、ミカ。ならば、無意味な修辞学はここで切り上げよう。私が言いたい結論は、君の『敵』が誰であるかを見誤るな、という極めて単純な話だよ」
「……えっ?」
「先生は、彼が君に贈るためのプレゼントについて、その……君のような、少しばかり『扱いが難しいお姫様』が喜ぶものは何か、相談に乗っていただけだ。君が今すべきなのは、ここで床を蹴ることではなく、彼の手を引くことじゃないのかい? もっとも、君のその惨めな姿を彼に見せるのが、君の望む『再会』であるなら、私は止めないけれどね」
「……な、ななな……」
ミカは絶句した。 プレゼント。相談。 その単語が、暗雲に覆われていた彼女の脳内を、眩い光で一気に照らし出した。
「え、ええ!? それ、本当!? セイアちゃんの予知!? 予知なの!?」
「……今の私はもう予知夢は見えないよ。それに、私は君とは違って、物事を客観的に、多角的に観察しているだけだよ。さあ、行くがいい。君の『騎士』が、先生と一緒に君を探して右往左往している姿は、これ以上の観察対象としては退屈だからね」
セイアは再び本を開き、ミカに背を向けた。 その耳元が、ほんの少しだけ赤くなっていることに、ミカは気づかなかった。
「セイアちゃん……! ありがとう! 大好き!」
「……やめたまえ、暑苦しい」
ミカはひしゃげた紙袋を抱え直すと、一目散に廊下を駆け出していった。 先ほどまでの、重く冷たい足取りはもうどこにもない。 その後ろ姿を見送り、セイアは小さく溜息をついた。
「……全く。やれやれ……次は、もう少し簡潔な比喩表現を模索すべきかな」
賢者は一人、静寂を取り戻した庭園で、そっと口角を上げた。
「ミカ! どこにいたんだよ。先生と一緒に探してたんだぞ」
シャーレのラウンジ前。息を切らせて走り込んできたミカを見つけるなり、彼は安堵したように駆け寄ってきた。 その隣には、少し申し訳なさそうに微笑む先生の姿。
「ごめんね、ミカ。彼を少し独占しちゃって。大切な相談を受けていたんだ」
先生の言葉に、ミカの胸の奥に残っていた最後の一滴の澱が、綺麗に溶けて消えた。 彼は、ミカの前に立つと、少し照れくさそうに小さな小箱を差し出した。
「これ……。先生に相談して、ミカに似合うと思って選んだんだ。……久しぶりの再会なのに、待たせてごめんな」
箱の中には、ミカの瞳と同じ色の、美しいヘアピンが入っていた。
ミカは、泣きそうになった。 自分がどれだけ醜い想像をしていたか。どれだけ彼の優しさを信じていなかったか。
けれど、そんな反省さえも、今は愛おしさに塗り替えられていく。
「…………ううん。私の方こそ、ごめんね。……でも!」
ミカは小箱を受け取ると、そのまま彼の腕を力いっぱい、それこそ先生が少し引くくらいの勢いで抱き寄せた。
「もう、遅いよ! 私はすっごく寂しかったんだから! これはお仕置きだよ!」
「えっ、ミカ!? ちょっと、近いよ……!」
「先生も、もうダメ。彼は今日、私のものなんだから。誰にも、一分一秒も貸してあげないんだからね!」
先生は「参ったな」と苦笑しながら肩をすくめ、彼の方は顔を真っ赤にして狼狽している。 ミカは、その腕の温もりを、二度と離さないと言わんばかりに強く抱きしめた。
「行こう、二人だけで! ケーキは潰れちゃったけど、味は変わらないはずだし!」
夕暮れ時のシャーレオフィス。 少し重すぎる愛を抱えたお姫様と、それに振り回される騎士。 二人の笑い声が、黄金色に染まる回廊に響き渡る。
その様子を、遠くの窓から眺めていたセイアは、やっぱり難解な溜息をつきながら、ページをめくった。
「……やれやれ。やはり、愛とは盲目。そして、救いようのないほどに……幸福な病だよ」
・聖園ミカ
としごろのしょうじょはめんどくさい
・百合園セイア
狂言回しFOXですまない
・先生&幼馴染君
ただ話していただけ
・桐藤ナギサ
何か言いたそうにこちらを見ている
1回こっきりのネタ小説が続いてしまったのであらすじやらタグやら変更しておきました。