大切な生徒が取られてしまう話   作:やま夫

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百合園セイアの場合

 

 

 

トリニティ総合学園、ティーパーティーの拠点。その庭園は、今日も非の打ち所がないほど完璧な調和の中にあった。

 

百合園(ゆりぞの)セイアは、白磁の椅子に深く腰掛け、そよ風に揺れる花々を眺めていた。

 

かつての長い療養生活――あの、白く閉ざされた寝たきりの日々を思えば、今のこの時間は奇跡のような贈り物だ。

 

「……ふむ。存在とは、常に他者との関係性において定義される。私が私であるためには、私の不在を嘆き、私の帰還を喜ぶ誰かが必要だった。……そうだろう、ナギサ」

 

「ええ。あなたがそうして椅子に座り、また難解な独り言を漏らしている姿を見て、ようやく私は安眠できるようになりましたよ、セイアさん」

 

正面に座る桐藤(きりふじ)ナギサは、いつもと変わらぬ手つきでティーポットを傾けていた。完璧な角度で注がれる紅茶。ナギサにとって、この日常を守り抜くことこそが「平穏」の証明なのだ。

 

セイアの脳裏に、一人の少年の顔が浮かぶ。 暗い部屋で一人、死の予知夢と孤独に震えていた自分に、外の世界の話を届けてくれた幼馴染の彼。彼が運んできてくれたスープの温かさや、不器用な励ましの言葉こそが、セイアをこちらの世界に繋ぎ止める命綱だった。

 

「彼は、今どこに? そろそろ私の淹れた、この特別な茶葉の香りを共有すべき位相にあるはずなのだが」

 

セイアの問いに、ナギサはスコーンを口に運ぼうとして、ふと手を止めた。

 

「ああ、彼なら今、シャーレの先生と一緒にいますよ。なんでも、先生と密に相談したいことがあるそうで……。先ほどラウンジの方を通った際、見たこともないような満面の笑みで先生の肩を叩いておられました。あんなに楽しそうな彼は初めて見ました。……あら、セイアさん?」

 

カラン、と乾いた音が響く。 セイアの手にあったスプーンが、石畳の上に落ちていた。

 

「……先生と、密に? 見たこともない、笑顔で?」

 

「ええ。まるで、長年連れ添った魂の片割れを見つけたかのような……。おや、セイアさん、どこへ?」

 

セイアは何も答えなかった。

 

ただ、幽霊のような足取りでラウンジの方へと向かっていく。 その背中には、平時の彼女からは想像もできないほどの、どす黒い負のオーラが漂っていた。

 

セイアは見た。 柱の陰から、音もなく、呼吸さえ止めて。

 

ラウンジの窓際。午後の柔らかな光の中で、彼は先生と肩を並べていた。 先生が何かを囁くと、彼は顔を綻ばせ、弾けるような笑い声を上げた。

 

その瞳には、かつてセイアにだけ向けられていたはずの、親愛と信頼が満ち溢れている。 先生もまた、慈愛に満ちた表情で彼の背中を優しく叩いている。

 

(……ああ。そうか。理解したよ)

 

セイアの頭脳が、異常な速度で「推論」を開始する。 先生は素晴らしい。私を救い、トリニティを救った。だが、救世主とは得てして、他者の最も大切なものさえも無自覚に吸い寄せてしまう「特異点」なのだ。

 

(私の不在という空白期間を、先生という太陽が埋めてしまった。……いや、これは略奪だ。知性という名のヴェールで覆い隠すことのできない、純然たる魂の領土侵犯――)

 

セイアの瞳が、危うく輝く。 かつて寝たきりだった自分を支えた「彼との時間」が、先生という強大な重力によって書き換えられていく恐怖。それが、知性という鎧を歪ませ、猛烈な嫉妬の炎へと変えていく。

 

「……検証が、必要だ。この事象の裏側に潜む、真実という名の怪物を引きずり出すための……物理的な加速が」

 

 

 

 

「……セイアさん、説明してください。なぜ私は今、あなたの愛車の助手席に押し込められているのですか?」

 

ナギサの声には、珍しく困惑と怒りが混じっていた。

 

彼女の膝の上には、先ほどまでテーブルにあったティーカップが、ソーサーごと鎮座している。

 

「ナギサ、ティーカップは置いてきたまえと言ったはずだが」

 

「いいえ。この混乱した状況で、紅茶すら手元にないなど、ティーパーティーの権威に関わります。……それより、このエンジン音は何ですか? 壊れているのですか?」

 

「壊れているのは、この世界の因果律だよ。……行くよ。思考の回転数が足りない。速度による強制的な意識の拡張が必要だ」

 

純白のオープンカー。その優雅なフォルムとは裏腹に、エンジンは猛獣のような咆哮を上げた。 セイアは、病み上がりとは思えぬ手つきでシフトレバーを叩き込む。

 

目指すは、トリニティの裏山を貫く、未舗装の難所。通称『巡礼者の峠』。 セイアはアクセルを踏み抜いた。

 

峠を攻めるために。

 

ギィィィィィィィィッ!!

 

「っ!? セイアさん!?」

 

強烈な加速によるGが二人を襲う。 純白の車体は、トリニティの平穏な大通りを裂くように疾走し、急峻なヘアピンカーブが連続する峠道へと躍り出た。

 

「見ているがいい、ナギサ! 先生という『絶対座標』が彼を引き寄せているのなら、私はその重力を振り切るだけの『脱出速度』を証明しなければならない!」

 

「意味がわかりません! 前を、前を見てください! 崖です! 崖が見えています!」

 

目前に迫る直角のコーナー。通常ならばブレーキを強く踏み込み、慎重に旋回すべき場所。 だが、セイアの瞳に迷いはない。彼女の細い指先が、ステアリングを電光石火の速さで切り込む。

 

キィィィィィィィィィン!!

 

タイヤが白煙を上げ、車体は横滑りを始める。慣性ドリフト――否。セイアに言わせれば、それは「現実の歪みを修正するための軌道修正」であった。

 

「この挙動こそが哲学! 遠心力に抗う車体の軋みこそが、私の胸の内にある不条理の叫びだ! ナギサ、君には聞こえないか!? 先生という巨大な引力によって、彼のベクトルが私から乖離していく、あの絶望の摩擦音が!」

 

「聞こえるのはタイヤの悲鳴だけです! それと私の心臓の鼓動です!」

 

ナギサは、猛烈な横Gに翻弄されながらも、驚異的な体幹と執念でティーカップを水平に保っていた。 車体が左右に激しく振られ、オープンカーの車内に猛烈な風が吹き荒れる。ナギサの美しい髪が乱れ、翼と制服がバタバタと音を立てる。 しかし、そのカップの中の琥珀色の液体は、まるで魔法にかけられたかのように、一滴たりとも縁を越えることはなかった。

 

「無意味だ、ナギサ! 静止した美学など、この動的な崩壊の前には無力だ! 彼は先生と笑っていた! 私が知らない、あの多幸感に満ちた表情で! それは即ち、私の存在意義という名の公理が、根底から覆されたことを意味する!」

 

「ただの楽しそうな談笑を、宇宙の終焉みたいに言わないでください!!」

 

セイアの運転はさらに激しさを増す。 シフトダウンの衝撃と共に、エンジンブレーキが咆哮する。 「溝落とし」にも似た、崖際の限界走行。

 

(アウト)から(イン)へ! 認識の転換だ! 先生が彼にとっての『正義』なら、私は彼にとっての『深淵』となろう! 闇があるからこそ、光は定義される! 彼を奪われるくらいなら、私はこのまま思考の地平を突き抜け、概念の海へと……!」

 

「突き抜けるのはガードレールだけにしてください! セイアさん、あなたはティーパーティーのリーダーでしょう!? もっと論理的に、落ち着いて、……ああもう、この速度で紅茶を飲むのは不可能です!」

 

ナギサの叫びも虚しく、純白の閃光は峠の頂上へと向かって、狂ったように加速し続けるのだった。

 

 

 

峠の頂上。焼き付いたゴムの匂いと、過熱したエンジンの熱気がオープンカーの周囲に陽炎を作っている。 セイアはステアリングから手を離すと、乱れた前髪を無造作にかき上げ、深い溜息をついた。その瞳は、先ほどの狂乱が嘘のように静まり返っているが、その実、内側ではさらに「純度の高い勘違い」が結晶化していた。

 

「……ナギサ。速度の果てに、ようやく真理の断片を掴み取ったよ」

 

「……その『真理』とやらが、私の命を天秤にかけるほど価値のあるものだと信じたいです、セイアさん」

 

助手席のナギサは、もはや怒りを通り越して、ある種の解脱の境地にいた。 彼女の髪は激しい風に煽られて見る影もなく乱れ、制服のあちこちが風圧で皺寄っている。

 

しかし、その手にあるティーカップの中身は、奇跡的に一滴も零れていない。彼女は震える手で、冷めきった紅茶を一口啜った。

 

「結論から言おう。先生は『観測者』としての特権を濫用している。私と彼が共に過ごした、あの静謐な療養期間――あれは、時間という名の不可逆な回廊に刻まれた、私たちの聖域だった。だが先生は、その回廊に『日常』という名の土足で踏み込み、彼の視界を、私のいない未来へと強制的に再起動させてしまったのだよ」

 

「……あの、セイアさん。先ほどから黙って聞いていれば、随分な言い草です」

 

ナギサは、カップをソーサーに置いた。カチリ、という硬い音が、車内に静かに響く。

 

「先生はあなたを救い、私たちを救った恩人です。そして彼は、あなたの幼馴染であり、一人の自立した生徒です。彼が誰と笑おうと、それは彼の自由であり、友情の証に過ぎません。それを『略奪』だの『回廊への侵入』だの、文学的な言葉でデコレーションして正当化するのは、ただの無様な嫉妬というものです」

 

「嫉妬? 違うね。これは『存在の防衛』だ」

 

セイアは流暢に、淀みなく言葉を繋ぐ。

 

その声は、かつて予知夢を語っていた時のような、絶対的な確信に満ちていた。

 

「考えてもみたまえ。彼は先生といる時、あのような――太陽の黒点を射抜くような輝かしい笑顔を見せた。私との時間に不足があったわけではない。ただ、先生という存在が彼の精神構造における『欠落したピース』を、巧妙に埋めてしまったのだ。これはもはや、一種の精神的な寄生だ。先生は彼の心を簒奪し、私の存在を最下層へと引き下げた。……ナギサ、君は理解すべきだ。今、私が立ち上がらなければ、彼は永遠に、先生という名の巨大な特異点の、数多くいるうちの一生徒として消失してしまうということを……」

 

「……」

 

ナギサの眉間が、限界まで寄った。

 

セイアの話は、長かった。そして、あまりにも身勝手で、あまりにも「めんどくさい」。

 

知性を盾にして、自分の心の弱さを認めようとしないその態度は、友人として、そしてティーパーティーの執務を預かる身として、到底看過できるものではなかった。

 

「セイアさん。あなたはティーパーティーのリーダーと呼ばれ、思慮深い人間だと私は思っていました。……ですが、今のあなたは、ただの『好きな子を他の子に取られて泣き喚いている子供』よりタチが悪いです。言葉を武器にして、真実から目を逸らしているだけです」

 

「心外だね、ナギサ。私はいつだって客観的だ。速度の中で、私は確かに見たのだよ。彼と先生の間に流れる、あの異質な親密さ――あれはもはや、宇宙の物理法則を書き換えるほどの――」

 

「黙りなさい」

 

「…………。」

 

「いいですか、セイアさん。私は今日、あなたとの優雅なティータイムを楽しむためにここに来たのです。それがどうです? 死ぬような思いで峠を攻められ、聞きたくもない嫉妬のポエムを延々と聞かされ、私の忍耐は、もうこのカップの縁よりも限界に近いのです」

 

ナギサは、ゆっくりと車から降りた。そして、トランクに隠されていた「予備」の茶菓子箱――ティーパーティー御用達の、最高級ロールケーキが詰まった箱を掴み出した。

 

「セイアさん、私と一緒に来なさい。今すぐ、ラウンジへ戻ります。あなたのその腐りかけた『推論』を、現実という名の光で焼き切ってあげます」

 

「ナギサ……? 待つんだ、私はまだ前提条件の整理すら終わって――」

 

「議論は終了です! さあ、降りなさい!」

 

 

 

トリニティのラウンジは、夕暮れの茜色に染まっていた。 そこには、依然として楽しげに語らう先生と彼の姿があった。

 

「あ、ナギサさん。それにセイアさんも! どこに行ってたんですか? ずっと探して――」

 

彼が、セイアの姿を見つけて顔を輝かせた。 その瞬間、セイアは再び「知性の防衛壁」を構築しようと口を開いた。

 

「待ってくれ。……先生、君の行動について、私には問いたださなければならない哲学的な疑念が多々ある。まず、先生という存在が彼に及ぼす精神的重力の偏向、およびそれによって生じる――」

 

「セイアさん」

 

ナギサが、静かに一歩踏み出した。

 

「ナギサ、邪魔をしないでくれたまえ。私は今、先生との決定的な議論を――」

 

「問答無用です!!」

 

ナギサの腕が、電光石火の速さで閃いた。 彼女が手にしていたのは、箱から取り出されたばかりの、ずっしりと重い特製ロールケーキ。 それが、セイアの芸術的な長台詞の最中に、彼女の口内へと「物理的」にねじ込まれた。

 

「むぐぅっ!?」

 

言葉の迷宮が、生クリームの奔流によって封鎖される。 セイアの瞳が驚愕に見開かれ、細い指先が空を掻く。

 

「む、むーっ!? むぐ、むーっ!!」

 

「いい加減にしなさい、このわがままお嬢様! 先生、幼馴染さん。……説明してあげてください。あなた方は何をしていたのかを」

 

ナギサは肩で息をしながら、勝ち誇ったように言い放った。 幼馴染の少年は、口をモグモグさせているセイアを見て、苦笑しながら小さな包みを取り出した。

 

「あ、いや……セイア。驚かせてごめん。……実はこれ、先生に手伝ってもらって、外の世界の『希少な茶葉』を取り寄せてたんだ。君が寝たきりの時、いつか一緒に飲みたいって言ってたブランドで……。先生ならルートを知ってると思って、サプライズの相談に乗ってもらってたんだよ」

 

先生も、申し訳なさそうに頭を掻いた。

 

「そうなんだ、セイア。彼、君が起きた時に最高のティータイムをプレゼントしたいって、一生懸命でね。……お邪魔だったかな?」

 

「………………」

 

セイアの動きが、凍りついたように止まった。

 

口の中に広がるのは、最高級の卵と生クリームの、あまりにも甘くて優しい味。

 

そして脳裏をよぎるのは、つい数分前まで自分が「先生は略奪者だ」「彼は寄生されている」と叫びながら峠を攻めていた、あの絶望的に恥ずかしい記憶。

 

「……ふむ。……む、むふぅ……」

 

セイアは、飲み込むことさえ忘れたまま、顔を赤く染めていった。

 

それは、彼女の生涯で最も深い「赤」だった。耳の先まで、そして首筋まで、熱い羞恥心が駆け抜ける。

 

「あら、セイアさん。どうしました? 続きを聞かせてくれませんか?。先生の『略奪性』についての、高次元な考察を。そのために私は、死ぬ思いで助手席に座っていたのですから」

 

ナギサが、地獄の女神のような慈愛に満ちた笑顔で、セイアの背中を優しく叩いた。

 

「……ぁ……ぅ……」

 

セイアは、ようやくロールケーキを飲み込むと、消え入りそうな声で呟いた。

 

「……君。……そして先生」

 

「うん?」

 

「…………ごめんなさい……。……そして……ありがとう。……このケーキ、……死にたくなるほど、美味しいよ……」

 

セイアは、生まれて初めて、知性という名の鎧を完全に脱ぎ捨てて、その場にうずくまった。

 

そんな彼女を、彼は不思議そうに見つめ、先生は全てを察して苦笑いし、ナギサは「これでお相子です」と言わんばかりに、ようやく手元の紅茶を、優雅に飲み干すのであった。

 

 

 

トリニティの夕陽は、赤面するお姫様を優しく包み込むように、いつまでも輝いていた。

 

 

 

 




・百合園セイア
情緒不安定なやつがオープンカーで峠を攻めるな
セイアの熱ダレか…?

・桐藤ナギサ
お前それ次やったらマジで〝これ〟だからな
(ロールケーキのジェスチャー)

・先生&幼馴染君
頼み事をされた(してもらった)だけ

・聖園ミカ
ぶち込んだのか、私以外のヤツと…(ロールケーキを)

・ロールケーキ
2話連続でキーパーソンになってすまない

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