苦手な方はご注意ください。
「私を食べていただけませんか」
私は胡乱げな視線を目の前に立つ簡素ながらも清潔な服装をした人間の子供に向ける。
スルシャーナの回答は謂わば劇薬。それに思い至らず、覚悟もなく衝動的にプレイヤーに会ったのは賭けに等しい行為だった。準備のないまま博打に挑むなど馬鹿のすることではないだろうか。
案の定、打ちのめされた私はあれから数か月、数年かもしれない時間が経ちながらも未だに立ち直れていなかった。もはやそのような瞬間は決して訪れないのではないか、そう思えるほどに気分は深く沈み、重く掴み所のない泥に覆われた気分だった。
しかし現実はそんな私のことを放っておいてはくれないらしい。
スルシャーナも私がこうなることを自らの経験から予想していたのだろう。あの対談が終わってからスルシャーナは、心が落ち着くようにと神殿の奥深くの一室に私たちを案内した。
そこは静かな壁の内側から限界まで音を排除したような無音の空間であった。神殿には似つかわしくない天蓋付きのベッド、大理石のような質感の丸いサイドテーブル、格調高い意匠を凝らした化粧台と深紅のビロードの椅子。天井は外の光を取り込んでいるのか淡い光が差し込んでいる。
しかし配置された家具はすべて人間のためにあしらわれたものだった。当然、私たちに使えるはずもなく、スルシャーナからも「好きにしていいよ」と言われているため、今では部屋の隅に重ねられ埃を被っている。
「私を食べていただけませんか」
私の意識が重ねられた家具に向いたことを無意識的に直感したのだろうか。同じトーン同じ声量で、先の言葉と全く変わらない言葉が投げつけられる。
この人間はいつの間にか、この部屋に出入りするようになっていた。あの小さな体で毎日二回、あのように同じ言葉を繰り返し、体力が尽きた頃に部屋を去っていく。
「私を食べていただけませんか」
壊れた自動人形のようなこの人間は、スルシャーナが「構わなくていいよ」と吐き捨てるように言っていた、白い壁の内側に住む人間の一人だ。
スルシャーナ曰く、彼らは精神が歪んでしまった人間らしい。外に置いておくとそれが伝播して厄介事を招くため、壁の内側に囲っているようだ。
そういった人間は時折この町に流れ着くらしく、今ではそれなりの勢力と呼べる状態になっていると聞いている。思えば神殿に向かう最中、手入れがされた庭先を何件か見かけたが、それがこの厄介な人間の住処なのだろう。
「何故食べなくてはならない」
「名誉だからです」
「私は人間を食べない」
「あなたは人間ではないのだから、人間を食べるのは普通のことです」
「人間を食べない亜人種も異形種もいるだろう」
「そんなのはいません」
苛立ちを紛らわせるように私が口を開けば、人間は当然のようにその理由を返す。このようなやり取りは、ここ数日、もう何度も繰り返していた。始めのうちは理解できずに理由を問うたものではあったが、今では何の意味もない会話だ。
私は静かに過ごしたいのに目を閉じてじっとしていると、この人間がやってきて定型句を垂れ流す。それは南方での亜人種との問答を思い出し、酷く憂鬱な気分にさせるものだ。
スルシャーナもこの人間たちの扱いには困っているようだったし、私たちは場所を借りている身ゆえに強く言い出せるはずもなかった。現状において私が取れる手段は何もない。
「……話にならないな」
精神的な疲れを感じて私は呟いた。
「では、私を食べていただけますか?」
一体何が「では」なのだろうか。
あまりの会話の通じなさに、苛立ちを募らせていく私を咎められる者が果たしているだろうか。南方での会話のようにここで言い返しても、更なる苛立ちを重ねるだけなのだろう。
この人間が──壁の内側に隔離された人間が、どうしてそういう精神状態になってしまったのか考える必要などなかった。スルシャーナは言葉を濁していたが、亜人種と関わり、人間の扱いをこの目で見た私であれば、容易に想像がついてしまう。心を守る防衛反応であることも理解できる。スルシャーナだってそれを分かっているからこそ、放逐などせずにわざわざ隔離という手段をとっているのだ。
ここまで酷い状態のものは隔離された人間の中でも珍しいそうだが、似たような状態であることは間違いないらしい。「構わなくていい」とスルシャーナは言っていたが、彼はどうあしらっているのだろうか。
目の前にいたはずの人間がいつの間にか、居なくなっていた。
残されたのは人間の残り香と束の間の静寂。私は瞼を閉じてじっとした。
それからしばらく、あの人間はやってこなかった。
スルシャーナが対処したのだろうか。よくよく考えれば、ここは神の住まう神殿内にある。あの人間は神の居室の一つに無断で侵入していたことになるのだから、あの人間のコミュニティ内で対応されたと考えるのが妥当かもしれない。
例え精神が壊れていようと弱者側である人間たちの本能が、強者である神の機嫌を損ねるなどという身の安全を脅かす行動など取らせないはずだ。
だが、私はスルシャーナが隔離する人間たちのことを楽観的に見すぎたらしい。
仲間の意思を引き継いではいるものの、半ば惰性のようにも感じるスルシャーナの町の運営であっても、わざわざ隔離しなければならないほどの人間の壊れ方を甘く見ていたのだ。いや、壊れているというのは私が受け取り言葉を変換したに過ぎない。スルシャーナは「壊れた」ではなく「歪んでしまった」と言っていた。
その真意を考慮せず、下手に扱うとどうなるか身をもって知ることになった。
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近づいてくる血の匂いに誘われて瞼を上げると、身体の至る所に打撲痕や裂傷といった傷を抱えて、あの人間が再びよろめきながら姿を現した。
「私、を……食べて、いただけません……か」
そして変わらず同じ口上を述べた。
血の匂いをまき散らす人間をスルシャーナはどうしてここまで辿り着かせたのか、そうならばその真意はなんなのか考えたくもない。そうだ、そんなはずはない。ああ、人手が足りないと言っていたから、スルシャーナは気が付いていない可能性が高いはずだ。
荒い吐息、血に汚れ所々裂けた服。そして濡れた片手に握られた、小さな刀身が天井の淡い光を受けて煌めき、その切っ先から落ちる一滴に視線が吸い寄せられた。
私が神殿内に入るとき、周囲に警備のアンデッドはいなかった。白い壁の内側にはほとんどいないのかもしれない。本拠を守らせないなんて何を考えているのか全く理解できないが、スルシャーナなりの考えは──。
「……食べて……せんか」
体力が尽きかけているのか、崩れ落ちるようにして人間は前のめりに倒れる。
その衝撃で生まれた風が一段と濃い匂いを鼻腔に届かせた。
それから苦し気な呼吸を繰り返す姿を前に、私は動くことができなかった。
呼吸音すらも小さくなった床に伏せる人間を見つめて、どれだけの時間が経ったのだろうか。そう思った矢先、息を吹き返したように人間の身体が揺れ、気力を振り絞るような声を上げ、四つん這いになった。
そして手放さなかった刃を自らの指に当て、苦悶の声を上げながら体重をかける。
思わず私は触腕を使い人間を掬い上げてしまった。
私の目の前には決して理解できない感情で歪んだ顔と、落ちかけた二つの指がぶら下がっていた。
指が私に徐々に近づきつつあることに遅れて気付く。震えながら差し出される腕に揺られた指が躍り、視線をくぎ付けにしていく。
私の鼻先に指の一本が触れ、反射的にそれを口に含んだ。
衝動的に拘束していた人間を放り出し、強く床に打たれた人間は咳き込んでいる。
指は、まだ口の中に残っている。
吐き出せばいいのか、飲み込めばいいのか、嚙み砕けばいいのか。味わえばいいのか。
人間を襲ってしまったプレイヤーの話がふと浮かんだ。
きっとそのプレイヤーも今の私と同じだったんじゃないだろうか。
怪我をした人間に近づいたとき、抗いきれず動いてしまったのだ。
口の中に表現してはいけない香りが広がっていく。
私は私がその感想を思いつく前に、口に残る物を無理やり飲み込んだ。
倒れ伏せていたはず人間が、いつの間にか手に持った短刀で千切れかけていた残りの指を落とし、手のひらに乗せて私に捧げるように近づいているのが視界に入った。
「やめろ!!」
唸りを上げる触腕が人間の目の前の床を打ち付け砕いた。
人間は打ち付けた衝撃に煽られ部屋の扉前まで転がっていく。
「二度と来るな! 次来たら殺す! 私が飽きるまで殺し続けてやるッ!!」
怒声が効果を示したのか定かではないが、人間はよろめきながらも扉を開け、消えていった。
再び静寂が訪れ舞い上がった塵が落ち着いたころ、砕けた床の破片と残された小さな指が目に留まる。
私の心は酷く冷めていた。
「ねぇ……ムム」
私はムムに問いかけていた。
「どうして、止めてくれなかったの」
「………」
「私、ムムに言ったよね……言ったはずだよね」
ムムからの、返事はなかった。
「本能に飲まれることを恐れてるって、言ったの覚えてるよね……どうして止めてくれなかったの。あれは、私が恐れていることそのものじゃないの? ……答えてよ……」
ムムはこの世界で一番身近な存在なのに。
誰よりも私を分かっているはずのムムなのに。
「私がもし、言葉にしていなくても、ムムなら私の心が、私の感情が手に取るように分かるって……それなら、分かったはずだよ……なら、どうして……止めてくれなかったの」
私は人間のことを同族として見れない。それをはっきりと理解したのは南方での亜人とのやり取りの時だった。虐げられる人間を見ても何とも思わなかったのだ。
時間が経ち、異形の心へと寄ってしまったからと理屈を捏ねて考えることもあったが、おそらく転移してから私はずっとそうだったのだろうと今は思っている。何故なら私自身を人間だと思えたことは一度もなかったから。
「……ねぇ、他の何を答えなくても良いから、これだけは答えて──私は人間なの?」
ムムは答えない。
「……異形なのは一体いつからなの?」
ムムからの返答はない。
「ムムは、私が本能に突き動かされても……それで良いっていうの?」
ほんの一瞬だが、ムムの感情が揺れたことを感じ取ってしまった。
ドラゴンに襲撃された時もそうだったが、強い感情を抱けば、私にもムムと同じように感じ取ることは可能らしい。
つまり、そういうことなのだ。
私が今どんな気持ちでいるか、ムムにははっきりと伝わっているのだろう。
そうであるにもかかわらず、ムムは私に何も答えないでいる。
「ムム……それは答えを言っているようなものだよ……」
私にそう言われてもムムは、なんの言い訳すらしなかった。
嘘でもいいから、違うって否定してほしかった。
ムムなら、噓を言われても別にかまわなかった。
嘘を後から知ったとき、その瞬間は悲しいかもしれない。
でもムムの嘘は私のためを思ってのことだと理解できるから、嬉しいとさえ思うはずだ。
ムムは誠実で私の良くない部分があれば指摘し、常に寄り添ってくれる理想のパートナー。
しかし、人間と同じ心は持っていないのだろう。
私は、転移してから片時も離れなかったムムの傍を離れた。
ムムから与えられていた体温が薄れていく。
「……ムム、少し、二人とも感情の整理が必要だと思うから……しばらく離れたほうがいいと思う」
元の冷たい身体となった私はムムの答えを待たず、部屋を出ていった。