ムムと呼ばれる灰色の巨狼はパートナーの居なくなった居室で目を閉じ、じっとしていた。
身じろぎ一つせず、扉の開閉もないために空気の流れは極めて遅く、静止した時間の中に取り残されているかのようだった。
その実、彼の脳内では自身が誕生してから今日までが何度も繰り返し上映され、都度最適な形で整理、保管がされ続けていた。この作業で取り分け丁寧に行われているのが、ユグドラシルからこの世界に転移してからのすべての歩みだった。
転移したそのときからムムとレーションの間にはズレが生じ始めていた。
人だった異形と人を理解する異形では物事を測る基準そのものが違う。
レーションがムムの傍を離れてしまったあの瞬間こそ、そのズレが表出する出来事だった。
レーションが残した床の破砕痕はとうに消え失せ、その残り香は自身の呼吸によって消失して久しい。だが、時間の流れに取り残された変色し固着した血だまりがあの日が幻ではないことを示し続けている。
天井から降り注ぐ柔らかな光にムムは目を細める。
自らの腕の中から離れていったあの日から十四年の時が経っているだろうか。
転移してから数えれば百七十四年。彼女が現実世界と呼ぶ時間を加えれば二百八年。人間の精神を宿したレーションには酷なことであろうとムムは理解していた。もはや時間の感覚などほとんどなく、記憶の更新ができぬ現実世界のことなど欠片ほどしか残っていないはずだと。
そして十四年前のあの日を境に、彼女は急激に異形種側の精神に偏り始めた。
レーションの人間の精神は言わば絶海に浮かぶ孤島のようなものだった。これを守るものは「私は人間でありたい。私は人間である」というメッキ加工のような意志と記憶のみ。
打ち付ける波が強ければ容易に剥がれ落ちるのは道理である。打ち付ける波が弱かろうと、波そのものがなかろうとそれは変わらない。照り続ける日差しで劣化し、吹き付ける風によって摩耗していくからだ。
そうした理不尽な自然現象によって境界を失った孤島は砕かれ大海に散っていく。
沈んで消失する残骸がほとんどの中、一部は浮き続けることになるだろう。強く思い続けたなにかが残るのだ。
例えば、彼女の場合であれば──人間の倫理観であろうか。
それはレーションが、延々と針の筵の上で苦しみ続けることを意味するに他ならない。
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その日は連日の大雨が明けた翌日のことだった。
スルシャーナは朝から壁内外の希望者を募り、新たな事業を興すための説明会を開いていた。
説明会は壁外の一角、石を埋めて整えた道端で行われている。だが町の全域に敷設できているわけではなく精度も荒いため、地面は泥濘に覆われているのと変わりない。スルシャーナを含め、皆の足元は泥だらけだった。
考えなしに町を広げ過ぎたツケである。レーションたちがこの町に来たあの日からさらに人が増えていた。使役するアンデッドと傭兵NPCだけでこの町を維持するには限界があり、遠からず破綻するのは明白だった。
人手が足りない──いや、正確には住民たちを自ら歩ませる環境を作っていなかったことが根本的な問題だった。スルシャーナという強大な力の庇護下にあることで、生存競争から切り離され醸成されるきっかけすらなかった。
文明とは課題に直面し、それを乗り越えることを繰り返した足跡そのもの。なにもかも補助していては町の発展など望むべくもない。怠惰とも呼ぶべき甘やかしがこの結果を招いたのだと理解した。
甘やかしが毒になることを痛感した彼は、二度と同じ過ちを繰り返さぬよう、あえて彼らを困難に晒す道を選んだ。
だからこそ彼は「何度失敗してもいい。けれど次はもっと上手くやるにはどうすればいいのか、それを考え続けてほしい」と町の住民に何度も言い聞かせ、事業という形で課題を作っていた。
住民に役目を与えたスルシャーナは、以前よりも少しばかり賑やかになった神殿に戻った。足が自然と進むまでになった大広間に向かい、両手で大扉を押し開く。
奥には今なお輝きを放つ、かつての仲間たちを象徴する六つの紋様が掲げられている。
この広間は彼にとっての聖域と呼ぶに足る場所だった。かけた手を扉から離し奥へ進めば、主人の邪魔はさせまいとするかのように低く軋みながら閉まっていった。
一つ一つの紋様を視線でなぞるたび、かつての仲間の姿が走馬灯のように浮かびだす。焚火のような情熱を宿す鬼。母性を湛えた朗らかな巨人。飄々としながらも誠実な彼。掴み所のないまま寿命を迎えた彼女。寡黙に正論を貫く生真面目な天使。
彼らが残したものを記憶から掘り起こしながら、「私はなにを遺せるのか?」と自身に繰り返し問い続ける。
そうして最後にスルシャーナ自身の紋様に視線を向けて気持ちと覚悟を見つめ直し、原点の炎に薪をくべるのだ。
やがて周囲の音が蘇り、精神の骨休めは終わりと、スルシャーナは山積する仕事に取り掛かろうと大広間の扉へと歩いていく。ただ、少し思うところがあって立ち止まって振り返り、掲げられた全体を俯瞰しながら、あるはずもない紋様を探していた。
あの日、異形種のスキュラであるレーション──プレイヤーが再び現れた。雨は降っていなかったが、今日のような暑い日だったのをよく覚えている。
彼女はこの町を去っていくまでの間、疲れ果てた様子を見せながらも内心を探らせず、最後まで警戒を解かなかった。それはプレイヤーであれば、当然の心構えと言えた。赤の他人のギルド拠点に入るのだ、そうしないならばどうかしている。しかし──。
「難しい、な……ユグドラシルなら……ああ、現実というものが時折、嫌になるよ……」
スルシャーナは重い吐息と一緒に呟いた。
全知全能の神ではないゆえに、歩んだ道のりを引き返すことはもはやできない。
それでも──もし今のような行動ができたなら、あの時行動していればと後悔が過ることは避けられない。スルシャーナにとって、最優先は自らの仲間だったのだから。
──大広間の閉じられた扉の奥から視線を感じ、思考を中断する。
扉を開け放ち、滞った空気を入れ替える。その先には体高三メートルを超えるだろう灰色の狼がこちらをじっと見つめていた。しかし焦点はどこか遠くにあった。スルシャーナを見ているはずの目は、別の何かを追っているようでもあった。
「スルシャーナ。貴様の覚悟を使わせてもらう時が来た」
「……それは、これから、僕とムムさんでレーションさんと戦う……ということでいいんだよね?」
ムムの表情は動かないが、神殿内の冷えた空気が騒めいたように感じた。
「分かっていたか。そうであれば話は早いな……あまりこの町に近づけたくはない。歩きながら話そう」
ムムはそう言って、先導するように神殿の出口へと向かっていく。
神殿の外は大雨の残り香とも言える、土と植物の匂いを多分に含んだ息が詰まるように重い空気に満たされていた。
「かつての仲間の最後、抱いている覚悟、僕の理想……それらの点を繋げたら自然と……。ムムさん。本当に、彼女と戦わなければならないのかな……」
レーションとムムがギルドのメンバーとなってくれれば、この町が飛躍することは間違いない。人を食らう衝動も、罪を犯した人間だけとすれば問題ないのではと思うこともあった。
しかしながら、仲間の最期を思い出せば、身勝手な自身の思いを口にだすことは憚られた。
ムムの返答はなかった。こちらの問いは届いているのだろうが、一顧だにしない静かな歩みから答えを推し量ることができるとは思えない。
ムムについていくスルシャーナの歩みだけがそこにはあった。
壁の門を抜けた先の光景は住民たちの自ら歩んだ成果が広がっている。
無秩序で場当たり的だった町はたった十年で見違えるようになった。スルシャーナ主導の元で区画整理が行われている真っ最中で、門から町の端まで続く大通りとでも呼ぶべき道は、変容する町並みと合わせて活気に溢れているのが常であった。
しかしこの時ばかりは普段と様相が違っていた。昼を少し過ぎた今時分であれば出歩く人々も多いのだがそれも疎らだ。虫の知らせでも受け取ったのか、あるいは無言で歩く二者からただならぬ雰囲気を感じ取ってしまったのか、驚くほど静かで異世界に紛れ込んでしまったかのようだった。
そんな異様な状態の町を抜け、背後の白の壁が霞でぼやけた地点でムムは西の空を見据えたまま足を止めた。
「レーションは今……急な斜面を下り続ける最中にある」
唐突にムムが妙な比喩を口に出した。
「下りきった先は深く静かな湖ではなく、ひりつくような痛みを伴う泥沼……これ以上苦しむ必要はないはずだ」
「………」
「……貴様の町にも多大な影響が出る可能性が高かった。ゆえにあのような言葉を使った……巻き込むことを大変申し訳なく思う。改めて謝罪と感謝を送らせてほしい」
ムムはこちらに向き直り、目を伏せ頭を下げた。
「別に良いって。この町を導くものとして、危機が迫っているのであれば当然のこと。それに……何度も経験してるからさ」
アンデッドであることを言い訳にするつもりはなく、善悪の線引きが壊れたわけでもない。この世界の在り様がどうあれ、いずれにせよスルシャーナの行動は変わらない。優先順位を違えることはもうしないと決めたのだから。
スルシャーナは淡々と歩みを止めず、首を垂れるムムの横を通り過ぎる。顔を上げたムムの視線に答えることはしなかった。
「……レーションの姿はもう少しすれば見えるだろう……貴様には最後だけを任せる」
後方から言葉が投げかけられ、少しの間をおいて膝高の草を踏みしめる音が聞こえた。
やがてスルシャーナとムムは並んで進み、いくつかの会話を交えながら、レーションとの邂逅に備えた。
町は視界から消え去り、スルシャーナとムムの足元にあった影が後ろに向かって伸び始めていた。不意に一陣の風が二つの影の間を後方へ向けて駆けていく。同時にムムの視線が鋭くなり、歩幅が広くなった。自ずと会話は途絶え、列は縦に組み替わる。
進行方向の先に、ぼやけた影が浮き上がっていることにスルシャーナは気が付いた。
朧げな輪郭は次第に精密さを増し、やがてスルシャーナたちの前に見覚えある姿として現れた。
「スルシャーナさんとムムじゃん、どうしたの?」
レーションから想定よりも軽い、砕けたトーンで問いが投げかけられた。
その異形は両腕と触手を大きく広げ、頭上で交差させながら振り子のように、ゆっくりと弧を描いていた。