冬の季節のためか、生き物の気配は酷く薄く、静まり返った夕暮れ時の沼地の中を私とムムは進んでいた。葉肉の厚い灰色の浮草や、沼底から伸びる背の高い枯れ草をかき分けながら、沼地の端で捉えていた島を目指している。
この沼地は平坦な針葉樹の森奥の開けた土地の中にあった。
おそらく、元々は周囲の森と同じような環境だったのだろう。というのも時折、固い何かを踏みつけ、興味を惹かれて沼底から引き上げてみれば、泥の中に埋もれる朽ち果てた倒木がその姿を晒したからだ。
それから改めて周囲を眺めてみると、沼の端は根腐れでもしたのか、色のない樹々がいくつも立ち並んでいた。今にも倒れそうなそれらの樹々は近い将来、沼底から引き上げた倒木と同じ運命を辿るのだろう。
山が崩れ、道を失った川が流れ込んだのか。湧き出る地下水の流量が変わり、この森の許容量を超えてしまったのか。記憶の中にある山間の小さな湿原とは違い、ここは自然の均衡が崩れてしまった場所なのかもしれない。
以前に見た、幾重にも枝分かれた清流が流れる湿原は、散策しながらでも一周するのに半日とかからないほどの小さな湿原だった。
当初はただの通過地点と思っていたが、様々な生き物の声と多種多様な匂いが満ちていて、私の興味を刺激し、つい足を止めてしまうほど魅力に満ちた場所だった。自然が豊かな場所はよく見るけれど、それに加えて賑わいが途切れない空気を宿す場所というのは、私の心を満たしていく特別なものに感じたのかもしれない。
それから予定を変更し、最終的には数年ものあいだ探索を続け、あの場所の空気に浸っていたことを思い出した。
前回と同様に今回もしばらく滞在するのはどうだろうか。寿命のない私たちに急いた行動は不要なのだから。例えば期間を決めずに満足行くまで、とか。
「どうかな? ムムはどう思う?」
「レーションの好きなようにするといい」
「もう、ムムはそればっかり! なにその目……いや分かるよ? 私が何でもかんでもムムに聞くから、少しは自分で考えろってことくらいはさ」
現時点で興味を惹かれるものはこれといってない沼ではあるけど、流入する水の量次第では広がる沼を眺め、ゆっくりとした変化を楽しむのも乙かもしれない。
──気がつけば、周囲は暗闇に包まれ始めていた。
空では一等星がその存在を輝きで示し、二等星以下も後に続いている。沼の端で島を見つけたとき、太陽は茜色に染まりかけで、時間には余裕があると思っていたのだが、ずいぶんと時間の進みが早い。
島の方向へ目を向ければ、まだ距離がある。思った以上に沼は広かったようだ、あるいは時間を忘れて考え込んでいたか。このまま進んでも島へ着く頃には、陽は完全に沈み切っているだろう。
いっそのこと、この場に立ち止まるのはどうだろうか。空の移り変わりに舌鼓を打ちながら、星々を数え眺めるのも悪くない。私たちにとって暗闇は味方であり、完全な暗闇に覆われたとしても支障は一切なく、島までの道のりを急ぐ必要はないのだから。
「あぁでも、ムムをずっと水に浸らせておくのは悪いかな」
そう思えば、当初の予定通りに私は島への道のりを優先し、三十分ほど歩いて島へ到着した。
それからいつものように、定位置に移動し──ムムのお腹に背と頭をあずけ──薄氷の張る水面で触腕をゆらゆらと揺らしながら空を見上げる。
見上げた理由は特にない。ここしばらく、天候に関係なく夜の間はこうして、ただただ空を見上げて過ごしていて、今日もそれに倣い行動しただけだ。
強いて言うならば、必ず手の届く地平線を見据える私よりも、決して手の届かない星の光を眺めている私のほうが、どこか親近感を覚えるからかもしれない。
「今日は怖いくらいに星空が綺麗だね」
距離感が狂い、手に届きそうだと錯覚するほどの、曇りなき満天の星空を見つめて呟く。
そのまま吸い込まれて、何もかも忘却してしまいそうな畏れを感じさせる底のない深さ。強い波長が放たれているいうべきか、あるいは昏い魔力の翳りがあるというべきか、異様なほど澄み切った月のない夜空だった。
滞在している地域の特性ゆえか、分厚い雲に覆われた暗い夜が多く雨が降っていることも少なくない。森の端から沼に辿り着くまでに一週間ほどの期間があったが、星を見たのは一回だけ。
雲の少ない地域でさえ、薄絹を敷いたような雲や月光のヴェールに遮られてしまえば、地表に届くのは穏やかな揺らぎだけになるのだ。
こうした事情を踏まえれば、今夜のように多くの条件がカチリと嵌った状態が本物の夜であり、稀有な自然現象と呼ぶに相応しいのだろう。
冬の時期で良かったとつくづく実感する。きっと、この魔力に充てられた生物たちが騒ぎ立てて、しばらくは落ち着いて過ごすことなどできなかったに違いない。
「ねえ、ムム。こんな星空いつぶりだったかな? たぶん……十年以上は見てないと思うんだよね」
「二十六年前の砂漠を彷徨っていた頃に一度。お前は子供のようにはしゃいでいたな」
「……そうだっけ? でもまあ、分かる気がする。だって本当に綺麗だから、あの頃の私にとっては劇物だっただんだろうね……何もかもが新鮮で美しく見えてた時期で、この光景は刺激が強すぎたんだ」
ムムの言葉によって褪せていた記憶が色味を帯びていく。
この世界へ降り立った──地球ではサバンナと呼ばれるような地域から、最初に目指した雪山の頂上で、この世界を旅することに決めたのだ。
「今もそうではないのか?」
「今は……いや、今もそうかな。ただあの頃と違って、今は外からの刺激に慣れちゃったから……年齢を忘れてはしゃがないだけ」
思い返せばこの世界で活動を始めてから、すでに六十年近い歳月が流れていた。
いつの間にか人間として生きた時間よりもだいぶ長く、この世界で生きていたことになる。そして人間の頃の記憶はぼやけて歯抜け状態になって久しい。
例えばある日のことだ。自分の本当の名前を思い出せないことに気がついてしまった。その瞬間、もう人間には戻れないのだと突きつけられたように感じた。
その数日後には、毎日鏡で見ていたはずの自分の顔すら思い浮かべることができなくなっていた。
慌てて他の欠落がないか思い返してみると、親も友人も上司も、何もかも忘れていた。
それを自覚してしまったからだろうか。連鎖的に経験したはずのエピソードが日に日に薄れて消えていくのだ。思い出そうとすればするほど、記憶が混ざり合って実際にあったことなのか判別がつかなくなった。下手に直そうとして余計に壊してしまっているかのように。
そうして記憶をなくすことに対して、私はどこか他人事のように感じていると気がついたのはいつからだろう。
私は悲しみで満たされたが、悲嘆に暮れるほどではなかった。
寂寥感を覚えてはいたが、心を苛むほどではなかった。
絶望はなく、来るべき時が来たと達観していた。
(あの時、素直に狂ってしまえたら、どれだけ楽になれたのだろう)
思うに私は、狂う代わりに、人間の私である
「心を改めて整理した」と言い換えてもいい。私の中にいる
それから私は、空を眺めることが多くなったように思う。特に夜は、欠かさず行っていた睡眠を積極的に取らず、代わりに空を見上げて過ごすようになった。
眠ると悪夢を見てしまって気分が悪くなるからだ。
沸き立つ感情の限りに叫び、周囲の物に当たって破壊の限りを尽くす夢。
自傷行為に走り、触腕を毟り取り、自らのはらわたを引きずり出して千切っていく夢。
目にした生き物を手あたり次第に貪る夢。
完全異形形態に変態して世界を終わらせていく夢。
他にも様々な怪物としての自分の姿を夢に見た。
そうした夢を見て、嫌な気分になるだけならまだ良かった。
しかしムムから聞いた話では、うなされながら、現実でも同じことをしようと暴れたことが何度もあったらしい。幸いにも、ムムが押さえつけてくれたおかげで、夢がそのまま現実になることはなかった。
ただし、上位の種族レベルを持った異形種の身体だ。人間とは違って素の力の桁が違うのだから無理もないのだが、ムムも私のことを完全には抑え込めないようだった。
眠る前は緑の天蓋に覆われた光が届かない深い森だったのに、目覚めてみれば、無残な姿を晒した数本の巨木に光が差し込んでいたり。せせらぎに耳を傾けていたはずが、気づけば静かに水をたたえた小さい池に様変わりしていたり。
一番酷かったのは、両腕の肘から先が失われていたときだ。ムムが私を押さえ込むために噛み千切ったらしいが、私の腕は正直どうでもよかった。トロール程に特化した再生速度はないにせよ、放っておいてもいずれ完治するからだ。
良くないのは、最悪なのは、ムムも怪我を負っていたことだった。
ムムは体高三メートルの巨体も相まって、素の耐久力も私以上にある。私の攻撃程度で死に至ることは決してない。あのときも人間として換算すれば、打ち身程度だったのだろう。
それでも、運悪く、目に当たって失明してしまうことだってあるだろう。身体の末端に当たって、耳や尻尾が欠けることだってあるかもしれない。
ユグドラシルの頃であれば、特殊な攻撃による一定のダメージがあって初めて欠損状態となるため、あまり考慮する必要がなかった。
しかし今は違う。位階魔法が使えず、部位再生のポーションも所持していない今、こうした怪我を負った場合にムムを癒す手段がない。
この世界では一部の法則がユグドラシルのような動作を見せながらも、現実の世界を限りなく模倣している。実際、ムムに部位欠損を効果に持つスキルなんてないが、嚙み千切るという現実的な手段で私の腕を欠損させた。こうすればこうなる、当たり前の現実として考慮する必要がでてきたのだ。
ならば、私の鞭のようにしなる触腕の一撃が欠損を引き起こさないなんて考えるのは、希望的観測が過ぎるだろう。
そもそもムムを攻撃するなんて、私自身も、
だからあの日、私は眠ることをやめた。眠ることで悪夢が呼び起されるのであれば、眠らなければいいだけだと考えたから。
もともと、私もムムと同じように、人間のような睡眠は必要としていなかった。
瞼を閉じて、じっとする──ただそれだけで、睡眠の代わりになる。眠るという行為は、人間だった頃の習慣を真似ていただけなのだから。
人間だった頃の習慣を手放すのは、これが初めてではない。もう何度か捨ててしまっていた。その事実が心理的な障壁を下げているのかもしれない。あるいは単に慣れてしまったか、麻痺してしまったのか。
それに加えて、ムムの安全と天秤にかければ取るに足らないものだと思えたからこそ、今回も人間の習慣は想像していた以上にあっさり捨てられたのだ。
(ムムを出汁にして、正当化してるだけかもね)
──大きな水音が静寂を破る。視界の端でムムの耳がピクリと跳ねるの見やりつつ、森の一部が沼にまた少し、浸食されたことを察した。
「ああ、なるほど……この森と沼の関係は、差し詰め私の心模様そのものなんだね」
特別な場所でもないこの沼に、なぜか滞まりたいと思ったのは、その行く末を見届けたいという思いが、心のどこかにあったからだと気がついた。
「離れるか?」
「んーん。しばらくは離れないよ。そうだなぁ……今いる島が沼に沈んだらまた出発しようか」
「……大丈夫か?」
「ムムは最期まで一緒にいてくれるでしょう?」
「当然だ」
「なら、私は大丈夫」
「そうか……」
だから、そんなにつらそうな顔をしないでほしい。ムムが居るだけで私は救われている。そのまま言葉にして伝えたこともあるし、常にそう思っている気持ちは、ムムにも伝わっているはずだけど。
(本当に、ムムは優しいな……ムムがいなかったら私は──)
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いくつかの冬を迎えたある日、凪いだ水面を眺めていて、沼の浸食を告げる音が久しく耳に届いていないことに気づいた。それは沼に周囲の森とは異なる、新たな均衡が生まれていたことを意味しているのだろう。
いや、そうではない。均衡は初めから崩れてなどいなかったのだ。正確には
では、私の内にある沼には、どのような均衡があるのだろうか。
人間の習慣を捨てて、あるいは抜け落ちて、混ざり合って一つになって。そうして生まれた空白を埋めるようにして満たされたこれは、一体何なのだろうか。
(……
人間の身体から異形の身体へと、その内にある意識はおそらく、連続している。そうでなければ私がこの異形の肉体と精神に対して疑問を抱くことなどないからだ。
おそらく、と推量してしまうのは「かつて人間だったのかもしれない」という薄い輪郭でしか、私は人間の頃の私を認識できていない。乱暴な言い方をすれば単なる付属物、あるいは読み物の認識が強いために、私は人間だったという実感が極めて薄いのだ。
この世界に来たばかりの頃は強烈な違和感に苛まれもしたが、半年くらいだろうか、すぐに異形であることに慣れてしまった。
想像するに、ユグドラシルという虚構の世界で仮の身体とはいえ十年間、慣れ親しんだ身体だからこそだと思う。なにせ特殊なステップ歩行を会得するために、八本の触腕を自力で動かす程度には愛着を持って真剣に向き合い続けたのだから。
(肉体は……異形であることは疑いようがない。疑うなんて間違ってる。なら内面……私の心、精神はどちらなのだろう……)
私は人間か、異形か。
正直、自分がどちらの側にあるのか、分からなくなってきていた。
この世界に落ちてきたとき、私自身で解決しなければいけない問題だと、ムムに言われたことがあった。本当にその通りなのだろう。
(私が一番いいと思うことを。正しいと思えることを……)
今、残虐な行為はできるかと聞かれれば、間違いなくできると言えてしまう。けれど、人間だった頃も同じことができるかと聞かれたとき、できないと即答できる自信はまったくない。
人間の記憶が薄れているからとか、そういった理由からではない。それが仕事であれば、できてしまうと思うからだ。できないと思うのは自制心や法律に縛られていたはずだと言えるため。そもそも明確な目的がなければ、残虐な行為に及ぶことはない。
そして、意味もなく残虐なことをしないのは、異形となった今も同じ考えだった。
そもそも正しいことってなんだろう。
私が維持したいと思っている人間だって残虐ではないか。
ほとんどのアーコロジーでは貧困層を守る法はない。あっても形だけで、長く生かしておくための最低限のもの。私はその牙が向かう先にはいなかったが、目を付けられたくないから声を上げることはなかった。
そんな現状から目を背けた私だって、貧困層から見れば、残虐といえるじゃないか。
かつてムムは私のことを残虐だといっていたが、本当にその通りだ。
(私が手放したくない人間の心ってなんなんだろう?)
もしかすると、そんなものは元より存在しないのかもしれない。異形の心に人間の心が付加され混ぜ込まれた。そうして一度手にしたものが失われていくのが嫌だと思う、ただの独占欲。その執着が私の抱える問題の本質かもしれない。
ムムの怪訝な視線に気づいた私はかぶりを振って、再び空を見上げる。
夜空に浮かぶ星々の輝きは変わらずいつもと同じようにそこにあった。
私たちが沼を離れたのは、その日から十二回目の春を迎えてからのことだった。