そこは近年、紆余曲折を経て都市国家連合へ至った土地より遥か南の地。地平線まで続く大砂漠を越え、果てしない平原さえも越えた、湿り切った大地の先の、幽玄なる山脈。
その深山を目にした者は、誰もがそれを秘境と呼ぶに違いない。
峰々の麓は密集し深く根差した古木の天蓋によって、昼であっても暗く、地表でのたうち絡み合った巨木を支える根と、役目を果たした巨大な倒木が容易に歩を進めることを拒んでいる。
山腹では剥き出しになった岩肌の断崖が空に突き立ち、それらを両脇に抱えた渓谷は常に深い霧に覆われ、その内より水の音だけが微かに響いていた。
時折聞こえる獣の声は力を持った原生生物のそれであり、この山の一員であることに誇りを持っていることが伺えた。
そんな世界から隔離されたような場所の、入り口が蔦で覆われひっそりと佇む浅い洞窟の奥で、異変は起こった。
巨大な灰色の狼に抱え込まれていた、黒く染まった襤褸切れが血肉を吐き出し不気味な音を立てて大きく裂けた。
その瞬間、大地が鳴動する。
襤褸切れから発せられた音なき超音波と大地が共鳴したのだ。その共鳴音はまるで、地の底に封印されていた怪物が産声を上げているかのような、底冷えのする音だった。
それは一か月に渡って続いた。
唐突に現れた理解を超えたそれに怯え恐れ、恐慌した周辺の生き物は音の中心から離れようと我先にと駆け出し、生き物の気配が消え去った空白地帯が生まれた。
その空白地帯では山の斜面がズレて流れ落ち谷間の川を堰き止める、断崖が崩れるなど、地形が変わるような変化が起きていた。
そしてこれは始まりに過ぎなかった。
断続的に轟くおどろおどろしい絶叫。
大地を強引に引き裂いていく局所的な地震や地割れ。
熟れた果実のようにはじけ飛ぶ岩壁。
森の巨木が小枝のように折れ、根元から容易く宙に舞う。
山は砂のように抉り削られ、毎日のように姿が変わっていく。
赤い線が縦横に飛び交い弧を描き、それに触れたものを尽く、一切の抵抗なく寸断していく。
終末が訪れたのだ。
空白地帯からさらに広範に渡った周囲一帯から、生き物の気配が完全に消え去った。
太古より生命を育んだ生命の循環は、相次ぐダメージによってその力を失い、それに呼応するようにして森は加速度的に衰退していった。
そして最後には乾いた斜面にしがみ付く枯れ木の群れと、淀んだ泥沼だけが残された。
たった一年で、豊かな山があったことなど想像もつかないほどに荒れ果ててしまった。
やがて生者の世を憎む冥府の王が顕現したとか、封印されていた魔神が復活したとか、大精霊の怒りだとか、この跡地を見た後の生き物たちの間で様々な噂が立ち昇っては消えていった。
共通するのは、誰もがその山を恐怖の象徴としており、誰一人として近づく者はいなかったことだろうか。
ひとしきりの噂が過ぎ去った頃、かつて美しかった深山幽谷は「魔の頂」と呼ばれるようになった。
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朝日が空しく感じる荒野の真ん中で私は叫んでいた。
「もうっ! 絶対、死んだりしないッ!!」
「そうだな。そうしてくれ」
「ムムも絶対死なせないし、重傷も負わせないつもりだから!」
「私も当然死ぬつもりはないが、お前も身体を大事にな」
「……あんな苦しみは私だけで十分だよ。本当に……」
私はムムに蘇生してもらってから一年近く、あまりの痛みに恥も外聞も投げ捨てて泣き叫び続け、のたうち回った。
今までの感覚からして三か月程度で完治する予定だったにもかかわらず、一年もの時間を要したのは、私が痛みに耐えきれず暴れ続けたからだ。想像を絶する痛みに身体を制御できず、部位が完全に回復する前に自らの力で壊し続けてしまった。
遅々として再生は進まず、されど痛みは引かず。そのことに私は半年以上経ってようやく気が付いた。それから堪えて堪えてまた壊して。二歩進んで一歩下がるを繰り返し、数日前に地獄から解放された。
解放されても身体が痛いと錯覚してしばらく動けなかったが。
最悪なのが、治癒系のスキルは機能しているのに、ポーションの類が意味をなさなかったことだ。収まってきたはずの怒りが再び再燃し始めていた。
「やっぱりこの世界に私たちを呼び込んだ奴は糞野郎だよ! 簡単に地獄作ってんじゃないよッ!! 死ねッ! 死んでしまえ!! 痛みを転嫁してやるから同じ苦しみを味わえ!!」
怒りが収まらず触腕を振り回す。触腕の一本が枯れ木に当たり弾け飛んだ。地面に当たった触腕は轟音と共にその部分を抉り去った。
物に当たることは良くないことは知っている。しかし暴れ沸き立つ興奮を冷却する性能はすこぶる高く、さらに即効性があるため、非常に魅力的な手段なのも事実であった。
触腕を当てた時の感触、弾け抉れ壊れる音、何度聞いて感じても気分が爽快になる。怒りを包み隠すほどの快楽物質が溢れ出しているのを感じる。
それに今は私たち以外に誰もいない。誰に迷惑をかけることなく、有効活用することの一体何に問題があるのだろうか。加えて私が冷静な判断力を取り戻すための、ほんの少しの時間だけなのだ。
それにしても治癒系のスキルを所持していなかったらどうなっていたのか。
もしかして自然治癒に任せる羽目になったのだろうか。
冗談じゃない。いや、ああ、単にそのまま復活即死亡の可能性のほうが高いか。生命活動に必要なすべてが失われていたのだ。<再生>スキル持ちでもなければ死んでいるだろう。
「痛みに耐性があったのではないのか?」
「はぁ……そのはずなんだけどね。<痛覚鈍化>のパッシブスキルがあるし……」
「今回の痛みがその許容値を凌駕していた可能性はないのか?」
「<痛覚鈍化>は許容値とかではなく絶対値を半減させる効果だから、それは違うかな。絶対値があまりに大きければ、激痛になるかもしれないけど……あの感覚からして機能していなかったように思う。あの白い光の攻撃も同じような激痛ではあったけど、しばらくは痛みに耐えながら動くことができたし……」
「……なるほど。現状、そのスキルは機能しているのか?」
「たぶん、もう大丈夫……でも、今はちょっと試したくないかな」
痛みについては心の準備ができてから試そうと思う。
最低でも指一本、効果を実感するなら腕一本は落とさなければ、痛みの閾値が高い異形種では意味がない。人間なら激痛を伴うその行為を、今時点で試す勇気が持てなかった。
しばらくは痛みの話題から離れよう。
そうでなくともチクチクと体の節々が痛む気がしてやまず、この痛みが幻だと理解はしていても、精神がひりついて落ち着かない。ずっと晒され続けた痛みが体にこびり付いているようで、いつになったら拭い落とせるのか見当もつかなかった。
そもそもは、<蘇生>を使ったのにHPがほとんど回復していなかったことが原因なのだ。
あのときはただの違和感で流してしまったが、明らかにおかしなことが起こっていた。
第七位階魔法の<蘇生>のフレーバーには「健康体に戻す」とあるのに、生命活動に必要な各種臓器が一切回復していなかった。あれでは死体から「死んでるよ」というラベルを剥がしただけで、死体のまま何も変わっていない。
今私が唱えているフレーバー説が否定されたわけではないのだろう。
分かっていたつもりだが、あの死亡状態はやはり普通ではないのだ。ポーションの効果がなかったという点を見てもおかしい。<再生>スキルがあるために、実は仮死状態だったという可能性もない。
もはや、そういうものだと諦めて、深く考えずにシステムのバグだと思えばいい気がしてくる。
本当におかしな話だ。現実の世界なのにまるでゲームみたいに「バグだ」というなんて。
「……ん? んー……あー、だから運営はHP共有を実装しなかった? 実装したかった本来の効果をフレーバーテキストにしたためて思いを残した……」
「ふむ。好意的に見れば、この世界はその思いを汲み取り実現しているわけか」
「それで結局バグって、被害を受けた身としては文句言いたいんだけど……それに助けられた面があるとはいえ」
とりあえず、こう考えれば良いのだろう。強いメリットにはそれに見合うだけのデメリットがあると。少し冷静になって考えてみれば、この状況は良い方向に傾いていると言えた。
あの痛みがなく──バグがなかったら遅かれ早かれ、強さを持たない私たちではそれに頼った戦術を取るようになる。実質的に完全なる不死なのだから。無限の残機と与えたダメージが回復を上回る術があれば、どんな存在にも勝ててしまう。
そのとき、私を弾丸にするのか、ムムを弾丸にするのかは別として、死ぬことに抵抗がなくなるだろう。何故ならデメリットがないから。その終点にいる私はレーションというキャラクターを操作する誰かに成り下がる。
(そうなったら、誰かに蘇生してもらう一手間が、唯一の救いになるのかな……)
私が守りたい人間の心はきっとそれに耐えられない。柔らかく脆いから壊れてしまうわけではない。人間としての在り様が変質し歪んでしまうのだ。
今でさえ、再生するからと傷を負うことに躊躇がなくなっている。そのレベルが数段上がった死を前提にした行動をとり、当然のように死を迎え復活し、また死を前提にした行動をとる。
果たしてその在り様は人間と呼べるだろうか。
異形とすら呼べないのではないだろうか。
それはきっと気味の悪い化け物だ。
化け物になるくらいなら私は異形のままがいい。当然そんな化け物にだって、それなりの幸せはあるのだろう。しかし私が求める形とは違うもので、その求めていた幸せを私は既に掴んでいた。
「……正直言うとねムム。私は、人間じゃなくて、異形種で良かったと思ってる面がなくはないなって実感し始めているんだよ。この異形種の強い身体がなければ何度も死んでいたはずだし、そもそも最初の一か月で限界が来てたと思うんだ……こんな、人間の生活跡がまるでない世界で……生きていける気がしないから」
雨を凌ぐ屋根もなく。風を凌ぐ壁もなく。人間が食べられそうな物もほとんどない。
人間扱いしていないと娯楽のような形で度々物議を醸した、アーコロジーの最下層でさえ、質は悪いが衣食住の保証だけはされていた。
「だって、もうこの世界で一世紀も活動しているんだ。奇跡的にひと月で気力が萎えなくて長生きすることになったとしても、人間なら怪我か病気でとっくに死んでるよ?」
異形種であり人間を超越した力を持つ私を自覚するたびに、いつの間にか、人間の心が歪んでいくのを自覚できるようになっていた。
有り体に言えば、自らの心の在り様を客観視できるようになっていた。それは異形と人間の心の境が曖昧で、両方の感情に振り回されていた、どっちつかずの状態から脱却していたことを意味する。
私は、いつの間にか人間に戻りたいと思うことはなくなっていた。
「……心境の変化か」
「心境の、変化……うーんどうなんだろう。どちらかと言えば……たぶん私は諦めたんだ。私の意志の強さじゃ何もかもは守れないし、維持できない……それがようやく分かって受け入れることにしたんだよ。ん? あれ、それを心境の変化というのかな……良く分からないや」
ムムが心配そうに体を寄せてくる。
私はそれに答え、物干しざおに干された布団のようにムムに寄りかかる。
「お前はそれでよいのか?」
「……本音を言えば、ちょっと悔しい。私ってこんなに弱かったんだなって……まー、でもね、異形種がゆえの悪いことってなにも起こってないじゃない」
ユグドラシルであれば、異形種を排斥するような流れは度々起こっていた。
この世界での異形種の扱いとはどういうものなのだろうか。百年近く世界を見て回っているが、運が悪いのか知的生命体に出会ったことがなく判断できない。
「直近にドラゴンに襲撃されているが、あれは異形種だからではないのか? スキュラは悪に偏った種族だろう?」
「うーん。あれは異形種でなくても起こりそうじゃない? ドラゴンって自尊心は高いし、傲慢だし……たぶん、縄張りに踏み込んだことに私たちは気付かなかった。そんなところでしょ」
元より、人間の心は存在自体が不確かで実態がなかった。
それに比べ、異形の心は実体があり百年の実績があった。
この状態にありながら異形の心を受け入れないのは、あまりに無理が過ぎるだろう。随分と時間はかかったが、当然の帰結に落ち着いたのだ。
「人間ならすぐ死んじゃうけど、異形種でこの再生力があれば、ムムとずっと一緒に居られる。それだけで私は幸せで、それ以上を求めていけるような意志の強さが私には無かった」
しかし、人間の心がいかに歪み切ろうと、最後の一線を越えるようなことがあってはならない。それさえ守れるのであれば、あとの変化は気にしないことにしたのだ。
「疲れたから楽な方向へ流れた。ただ、それだけだから気にする必要はないよ」
「………」
ムムの顔見ることができないほどにしんみりしたのはいつ以来だろうか。
気持ちを切り替えようと、寄りかかるのをやめて自らの足で立ち上がる。いや座った、だろうか。触腕の一つをひじ掛けに見立てて頬杖をつきながら目の前の問題に向き合った。
「……そんなことより、目の前のこれをどうするかが問題だよ」
「昨日も話したが、どうしようもないだろう」
「また、身も蓋もないことを……」
回復したら深い森を探索しようと思っていたのだが、今広がっているのは荒れ果てた土地のみだった。何かがあるとすれば、枯れ木と岩と点在する泥沼ばかり。超位魔法の<終焉の大地>の効果の一つがこんな感じだったとかもしれない。そんな記憶が浮かび上がる光景だ。
この件については私がすべての原因なので、なんとかしてやりたいが、その手段がなかった。
「超位魔法の<天地改変>を使えればこんなのすぐに直せるのに……」
「元には戻せないが、時間をかければ直せる手段があるな」
「えっ本当!?」
私は思わず飛び上がってムムに回答を促すように顔を覗き込んだ。
やっぱりムムは頼りになると、期待を込めたのだが──。
「水と土の精霊を数体とトレントを数百体召喚して使役しながら、この土地に数百年滞在すれば……まあ……できなくはあるまい」
「精霊はともかく、私特化してるからトレントなんか召喚できないんだけど。それに位階魔法前提じゃん」
「諦めろと言っているのだ」
「………」
心に刺さった棘のようにチクチクと私を苛む幻の痛みは、目の前に広がる荒野が原因かもしれないのだ。豊かな森を取り戻したいと思う理由が私事で申し訳なく思うが、気持ちの方向は同じだ。
だからムムに何と言われようと、どうにかしたいという気持ちがあった。
「何か……あ、そうだ」
ユグドラシルの緑化イベントの種と肥料が使えないだろうか。リアルの環境団体の声明に、何故か運営が呼応して実施されたのだ。ミニイベントのようなもので大した報酬ではなかったが、収集物の余り物がまだ残っている。
「種と肥料をまいておけば何とかならないかな」
「ユグドラシル産のものか? やめておけ。ただでさえ強力な効果が多いのだから慎重になるべきだ」
「ダメかな? 『活力と生命力溢れる森の、その一歩を踏み出した』って書いてあるから、良さそうだと思うんだけど」
「お前が遭遇した地獄の原因を思い出せ。そのフレーバーがどう解釈されているか不明なのだぞ?」
言葉に詰まった。
このアイテムはユグドラシルでは何の効果もないアイテムだ。イベントのための仮通貨のようなもので、それ以上の価値はない。
何が起こるか分からないというのはその通りだった。ひねくれた解釈をすれば、少ない栄養を補うために森自体が生き物を食らうような、とんでもない森が生まれる可能性だってあるのだ。
意気込んでいた気持ちが急激に萎んでいく。
これ以上は現時点では見つからない。万策尽きてしまった。
「この荒野はお前の心の楔とするのがいいだろう。お前が早まったことをしようとしたとき、この光景を思い出せるように」
「……ムム、少し怒ってる?」
「怒ってなどいない。ただ、お前が心配なだけだ。お前が痛みで暴れていたとき、身体を壊し続けるお前の姿を隣で見続けた私の気持ちを少しは考えてみろ。身体を制御しようと、耐えるために体を丸めて、力み過ぎて身体が裂けてまた壊れる。ずっと気が気でなかったのだぞ?」
「……ごめん」
「痛みは少なく身体が再生するからといって、お前は自らを気軽に壊し過ぎだ。不可抗力も多いだろうが、少しは身体を大事にしろ。ユグドラシルの頃からお前はそうだったではないか」
「それは……ごめんなさい」
ムムも鬱憤が溜まっていたのだろう。ユグドラシルの頃からの積もりに積もった不満だ。
ユグドラシルではムムのことをなるべく傷つけたくなくて、私が代わりにダメージを受けたりすることも多かった。今より遥かに命が軽い世界だ。それがムムの目にどう映るかなんて考えもしていなかった。本当にただの自己満足だったのだ。
私はそれからしばらく、甘んじて説教を受け続けた。
ムムが不満を吐き出して、説教が終わるころには夜になっていた。
そして、朝を迎えても、やはり荒野は広がっている。
元に戻す手段もなく、何もないこの荒野に滞在する理由などもはやなかった。
さらに翌日、心にしこりを残して、私たちはその場を去ることにした。