リセット・ホロウ 〜死に損ないの観測者〜   作:くりぢゅん

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『亡霊の残像』

 

 

 

 

薄暗いホロウの境界線付近。そこは、セーフティゾーンと呼ばれる場所だ。

周囲にはエーテルの残滓が霧のように漂い、時折、遠くでエーテリアスたちの遠吠えが地鳴りのように響いている。

 

建設現場の崩落から命からがら逃げ延びた白祇重工の面々や、ニコとアンビーが、そこに身を寄せていた。

 

 

「おい、レン! 無事なんだろうな!?」

 

静寂を破ったのは、オレンジ色のツインテールを揺らしたクレタだった。泥と煤にまみれた姿で、俺――レンへと詰め寄る。その瞳には、仲間を失いかけたことへの拭いきれない恐怖が混じっていた。

 

 

「ああ、クレタ。……心配させたな。見ての通り、五体満足だ」

 

俺は努めて穏やかに、いつもの「レン」として微笑んだ。

 

頬の返り血を拭い、背筋を伸ばす。内臓がひっくり返るような嘔吐感も、骨が粉砕された時の生々しい感触も、すべて脳の奥底へ押し込んだ。白くなった髪が風に揺れ、瞳の中では累計死回数を示す赤い数字【309】が、静かに発光している。

 

 

「……五体満足? どの口が言ってんだ。その頭、真っ白じゃねーか。それに……」

 

 

クレタが言い淀む。エーテルが濃いこの場所では、因果の歪みが視覚化されやすい。彼女の一瞬の視界には、レンの姿に重なるように、無残に命を落とした瞬間の「残像」がノイズとなって入り混じっていた。

 

「ただの体質だよ。それより、怪我はないか?」

 

俺は彼女の言葉を遮るように手を伸ばした。血が滲み、鉄錆の臭いがこびりついた掌。それが、クレタの頭に優しく触れる。

 

「っ……」

 

クレタの身体が、小さく跳ねた。

 

 

「無事でよかった」

 

そう言って微笑む俺の指先から、彼女は何を感じたのだろうか。

それは温もりなどではなく、底冷えするような墓場の冷気。彼女は真っ青な顔で、差し伸べられたその慈しみを受け入れながら、ただ震えていた。

「……レン。お前、本当に……」

 

 

足元で、重機のような重々しい足音を立ててボンプ――イアスが近づいてくる。そのレンズ越しに俺を見つめているのは、ビデオ屋で端末を握りしめているリンとアキラだ。感覚同期(シンクロ)を通じて、リンには俺の「手の感触」が直接伝わっている。

 

『……レン……。……っ、はあ……っ』

 

通信越しに、リンの過呼吸に近い吐息が漏れた。彼女が感じているのは、単なる触覚ではない。モニターに刻まれた「生命活動消失」のログと、今自分の脳に流れ込んでくる「生身の温かさ」。その致命的な矛盾が、彼女の精神を内側から削り取っていく。

 

 

「……ふむ。生命反応は極めて安定している。外傷もゼロ。……だが、説明がつかないな。先ほどの戦闘データによれば、君の勝利する可能性は『零』だった」

 

一歩後ろで、グレースが鋭い視線を俺に突き刺していた。計測機器を握る指は微かに震えている。リンたちの異常な反応と、目の前の男に刻まれた「数字」。彼女の中で、一つの仮説が確信へと変わり始めていた。

 

 

「アンタ……っ! また、無茶したのね……!」

 

ニコが悲鳴に近い声を上げて、俺の胸ぐらを掴みかけた。その目は、俺の瞳に刻まれた数字が増えていることを、逃れられない事実として突きつけられていた。

 

「その数字……。さっきより、増えてるじゃない……。何回よ。ここで何回、アンタは……っ」

「心配かけてごめん、ニコ。でも俺は大丈夫だ」

 

ニコの言葉は、それ以上続かなかった。隣に立つアンビーが、音もなく俺に歩み寄ったからだ。アンビーは無言で、俺が差し出していた「血の滲む手」をじっと見つめ、その震える掌に、自分の両手を重ねた。

 

「……レン」

「アンビー……?」

「……。脈拍、正常。呼吸、正常。……でも、体温が、低すぎる」

 

アンビーの瞳が、静かな悲しみに沈む。彼女は合理的な少女だ。だからこそ、今目の前にいるレンの体温が「生きている人間」のそれとして正しくないことを、肌を通じて理解してしまった。

 

彼女は何も言わず、ただ俺の手を包み込むように力を込めた。今にも透けて消えてしまいそうな亡霊を、この世界に繋ぎ止めようとするかのように。

 

 

 

 

やがて、救助隊との合流が決まり、全員が移動を開始した。

 

「先に行ってくれ。忘れ物がないか確認してから行く」

 

俺はそう言って、一人その場に残った。リンたちは心配そうにイアスのレンズをこちらに向けていたが、俺が「すぐに追いつく」と笑ってみせると、引きずられるように去っていった。

 

 

あたりが静まり返る。

遠くで崩落の余韻が響き、乾いた風が吹き抜けた。

 

 

ガラッ、

 

 

背後の瓦礫が、小さな音を立てた。

 

その瞬間だった。

俺の脳が、意識よりも先に「最適解」を弾き出した。

 

(――背後からの物理攻撃。回避は不可能。生存よりも、蘇生後の優位性を確保しろ)

 

ガクン、と膝の力が抜ける。

俺は反射的に、心臓への直撃を避ける角度で身体を丸め、頚動脈を保護するように腕を回した。それは「生き延びるための構え」ではない。

 

「次」のループで、敵の隙を突くために、もっとも効率的に「死ぬ」ための姿勢。

 

三〇九回の死が、俺の肉体を完全に作り替えていた。生存本能などというものはとっくに壊れ、俺の身体はただ、最適な死を選び取る歯車として機能していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

数秒後。

何も起きない。ただの風の仕業だったのだと理解した俺は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……はは、何やってんだ。俺……」

 

口から漏れたのは、乾いた笑いだった。

せり上がってきた血の塊を地面に吐き捨て、震える膝を叩く。

 

「いけないな……今はもう、あいつらの前なんだから。ちゃんと『生きてるフリ』をしないと」

 

俺は、汚れきった手で頬を叩いた。

自分がどのような状態にあるのかもうよく分からない。ただ、リンとの約束だけが、壊れた俺をかろうじて人間のかたちに繋ぎ止めていた。

 

 

俺は真っ白な髪を整え、瞳の中の忌々しい数字を隠すように目を細めると、仲間たちの待つ光へと歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

六分街の喧騒から隔絶された、ビデオ屋『Random Play』の二階。

そこには、昼間のホロウでの激戦が嘘のような静寂が満ちていた。

 

 

レンは、自室のベッドで泥のように深い眠りに落ちていた。

その呼吸は浅く、時折、何かに怯えるように指先がぴくりと跳ねる。

白化した髪が枕に散り、瞳を閉じてもなお、その奥に刻まれた赤い数字【309】が、まぶた越しに不吉な光を放っているように見えた。

 

 

「……レン」

 

ドアをわずかに開け、部屋に足を踏み入れたのはリンだった。

彼女の手には、少しでも栄養をつけてもらおうと用意した温かいスープがあった。だが、一歩部屋に入った瞬間、彼女はその場に氷ついたように立ち尽くした。

 

「……えっ?」

 

トレイを持つ手が、がたがたと震え始める。

リンの瞳に映ったのは、安らぎの寝室などではなかった。

レンの身体から、どろりとした影のようなノイズが溢れ出していたのだ。

 

 

それは、レンが覚醒させた力――『亡霊の残像(アフターイメージ)』。

 

主の意識が混濁しているせいで、制御を失った過去の「死」の記録が、実体を持って部屋を侵食していた。

 

壁際では、喉を深い切り傷で裂かれたレンの残像が、音もなく血を流しながら崩れ落ちている。

窓の近くでは、身体の半分をエーテリアスに食いちぎられたレンの残像が、虚空を掴もうと手を伸ばしている。

天井からは、無数の矢に貫かれ、まるで針弾のように変わり果てたレンの残像が、絶命した瞬間の表情でこちらを見下ろしていた。

 

 

「あ……あぁ……っ」

 

リンの口から、悲鳴にならない吐息が漏れた。

それは、ビデオ屋のモニター越しに見た「消失ログ」という無機質な数字が、血の通った「現実」として突きつけられた瞬間だった。

 

この部屋に漂うのは、レンがこれまで絶望の中で味わってきた死の臭いだ。鉄錆の臭い、焼ける肉の臭い、そして、魂が摩耗しきる時の冷たい風。

 

 

これらすべてを、彼はたった一人で背負ってきた。

リンが「無事でよかった」と安堵し、「また明日」と微笑んでいたその裏側で、彼はこの世のものとは思えない苦痛を何度も、何度も、何度も……やり直してきたのだ。

 

 

「……うそ、だ。こんな……こんなに、死んでたの……?」

 

リンはトレイを床に置き、よろよろとした足取りでベッドへ向かった。

残像たちが彼女の身体をすり抜けていく。そのたびに、リンの脳内にはレンが死の間際に感じたであろう恐怖、孤独、そして自分たちを救いたいという狂気じみた執着が流れ込んでくる。

 

彼女は、あまりの衝撃に膝をつき、そのまま眠るレンの身体に縋り付いた。

 

「レン……ごめんなさい、レン……っ!」

 

リンは泣きながら、彼の細い身体を強く、壊れそうなほどに抱きしめた。

今、目の前の空中に浮いている「死んでいるレン」を直視することができなかった。

 

だから、せめて今、自分の腕の中で微かに脈打つ温もりだけを、唯一の真実だと思い込もうと必死だった。

彼の肌に自分の頬を寄せ、その心臓の音を確かめる。

「生きている」

「まだ、ここにいてくれる」

その事実だけが、リンの崩れそうな精神を繋ぎ止める細い糸だった。

 

彼女は、レンの身体に自分の身体を密着させ、彼の匂いを吸い込み、その温もりを自分の肌に上書きしようとした。

 

「レン……。もう、どこにも行かせない。あんな死なせ方、二度とさせないから……」

 

愛おしさが、畏怖と混ざり合い、彼女の中で一つの歪んだ感情へと形を変えていく。それは、彼を助けたいという願いではなく、彼を自分の手の中に閉じ込めておきたいという、底なしの独占欲だった。

 

 

その時だった。

 

「……っ」

抱きしめられていたレンが、苦しげに眉根を寄せ、夢うつつのまま唇を動かした。

 

リンは、彼が目を覚ますのではないかと期待し、同時に、今の自分の姿を見られることに怯えながら、彼の唇に耳を寄せた。

 

 

「……あと、何回だ……?」

 

 

レンの声は、掠れていて、まるで地獄の底から響いてくるようだった。

 

 

「……あと何回……死ねば……君は、笑ってくれる……?」

 

 

「――っ!!」

 

リンの身体が、激しく硬直した。

心臓を直接、氷の楔で貫かれたような感覚だった。

 

彼は、自分のために死んでいるのではない。

 

「リンを笑わせるため」という、あまりにも純粋で、あまりにも残酷な対価として、自分の命を投げ出していた。リンが平和を享受するたびに、レンはどこかで一度、無惨に殺されている。その歪な等価交換に、レンは何の疑問も抱いていない。

 

(……バカだよ、レン。そんなの、私が望むわけないじゃない……)

 

リンは奥歯を噛み締め、溢れそうになる涙を堪えた。

ここで自分が泣き崩れてしまえば、レンはまた「自分の死が足りなかったせいだ」と勘違いし、さらに死を積み重ねるだろう。

 

 

リンは震える手を伸ばし、レンの頬を包み込んだ。

 

冷え切った彼の肌。死に慣れすぎて、生の実感を失いかけているこの男を、どうすればこの世界に繋ぎ止めておけるのか。

 

「……お兄ちゃん、聞こえてる?」

 

インカムを通じて、階下で同じ絶望を共有していたアキラに問いかける。

 

『……ああ、分かっているよ、リン。……僕たちのナビゲートが甘かったんだ。彼に『死』という選択肢を選ばせないほど、完璧な道筋を示せていれば……こんなことにはならなかった』

 

アキラの声には、静かな、だが鉄のような決意が宿っていた。

彼らが出した答えは、レンを閉じ込めることでも、戦いから遠ざけることでもなかった。

 

「レン。君は自分を『安い』なんて思ってるかもしれないけど……私たちは認めない。君が失った温もりも、全部私たちが取り戻してあげる」

 

 

リンはレンの額に自分の額をそっと押し当てた。

 

 

「明日からは、もう一人で考えさせない。君が行くところの隅々まで、私たちが神経を尖らせて、死の隙間なんて一ミリも作らせないから。……私たちが、君を『最強のエージェント』じゃなく、ただの『レン』に戻してみせる」

 

 

それは、救われた側としての、あまりに重く、真摯な報恩の誓いだった。

リンはレンの手を握り、指を絡める。

 

彼が「笑ってくれるなら死んでもいい」と言うのなら、こちらは「君が死なない世界でしか笑わない」と突きつける。

 

愛ゆえの執念。

 

それは、レンがこれまで一人で繰り返してきた孤独な戦いに、初めて

二人の伴走者が現れた瞬間だった。

部屋に漂っていた「死の残像」たちは、その決然とした意志に圧されるように、静かに闇へと溶けて消えていった。

 

 

 

 

 

 

朝日がビデオ屋『Random Play』のカーテンの隙間から差し込み、埃が光の粒となって舞っている。

いつも通りの穏やかな朝のはずだった。

 

だが、レンの感覚は、その「いつも通り」を正しく処理することを拒んでいた。

 

(……ああ、やっぱりだ)

 

ベッドから起き上がり、自分の手を見つめる。

 

最近、能力のせいか、あるいは三〇九回という死の積み重ねのせいかはわからないが、自分の身体が以前とは全く変わってしまったことに気づいてきた。

 

 

一つは、味覚だ。

昨日から、何を食べても砂を噛んでいるような、無機質な感覚しか残らない。甘みも、苦みも、塩気も、すべてが遠い世界の出来事のように思える。

 

(だが、別に支障はない。味が分からなくても栄養は摂取できるし、むしろ戦場では余計な欲求に振り回されなくて済む。……死に戻りの効率を考えれば、これはきっと一種の『最適化』なんだろう)

 

俺は自分にそう言い聞かせ、鏡の前で完璧な「レン」の顔を作った。リンたちに余計な心配をかけてはいけない。今の俺にできる唯一の恩返しは、彼女たちの日常を守ることだけなのだから。

 

 

リビングへ降りると、そこにはすでに朝食の準備を整えたリンとアキラが待っていた。

 

「おはよう、レン。よく眠れた?」

 

リンが振り返り、いつものように微笑む。だが、その瞳の奥には、昨日まではなかった粘つくような何かが淀んでいた。彼女は俺の席に、出来立ての温かいオムレツを置く。

 

「おはよう。ああ、ぐっすり眠れたよ。……美味そうな匂いだな」

 

俺は努めて明るく嘘をついた。

 

実際には、匂いすらもエーテルの焦げた臭いと区別がつかなくなり始めている。俺は椅子に座り、フォークを手にする。

 

リンとアキラは、自分たちの食事に手をつけることなく、ただじっと俺の口元を見つめていた。

 

「……? どうした、二人とも。食べないのか?」

「ううん、食べて。レンが食べてるところを見るのが、今の私の楽しみだから」

「?わかった。じゃあいただきます」

 

リンの声は低く、優しく、そして逃げ場を塞ぐような響きを持っていた。

俺は促されるまま、オムレツを一口運んだ。

 

舌の上に、熱い塊が乗る。だが、そこにあるはずの卵の甘みも、バターの香りも、ソースの酸味も一切感じない。ただ、温かい粘土を噛んでいるような、不気味な感触だけが口内に広がる。

 

「……美味しいよ。やっぱりリンの料理は最高だな」

 

俺は咀嚼し、嚥下し、完璧な笑みを浮かべて見せた。

だが、その瞬間、食卓の空気が凍りついた。

 

「……ねえ、レン。今日のソース、何を隠し味にしたか分かる?」

 

リンが身を乗り出し、俺の顔を覗き込む。

俺の脳が高速で回転する。買い出し、彼女の好み、一般的な隠し味――。

「……少し、蜂蜜か何かを入れたのか? 優しい甘さがする」

 

 

 

俺の答えを聞いた瞬間、リンの顔から表情が消えた。

彼女は無言で、俺の皿からソースを指で掬い、自分の口に運ぶ。

 

 

「……これ、ソースじゃないよ。レン」

 

 

リンの声が、微かに震えていた。

 

 

「……私がかけたのは、味付けもしてない、ただの色の濃い『苦い漢方薬の煮出し汁』。……普通なら、一口で吐き出すはずのものだよ」

「っ……」

 

 

俺のフォークを持つ手が止まる。

しまった、と脳が警鐘を鳴らす。だが、もう遅かった。

リンの瞳から大粒の涙が溢れ出し、テーブルに落ちる。

 

「……どうして……? どうして嘘をつくの? 味がしないんでしょ? 熱さも、本当は分かってないんでしょ?」

「リン、それは……」

「隠さないでよ!!」

 

リンがテーブルを叩き、叫んだ。その声は悲鳴のようであり、祈りのようでもあった。

 

傍らにいたアキラも、唇を噛み締めながら、タブレットに表示されたレンのバイタルデータを見つめている。

 

『……レン。君の味覚受容体の反応が、今朝から完全に消失している。……昨日、君が死んだ回数の分だけ、君の身体は『人間』を辞めていってるんだ。……僕たちが、気づかないとでも思ったのかい?』

 

アキラの言葉は、冷酷な現実として俺に突き刺さった。

レンが「効率的」だと切り捨てた感覚は、彼らにとっては、レンが死ぬたびに失われていく「生きた証」そのものだったのだ。

 

「……ごめん。心配させたくなかったんだ」

「心配なんて言葉で済ませないで……!」

 

リンが俺の手を両手で包み込む。彼女の手の平の熱さが、今の俺には酷く遠い。

 

「いい、レン。昨日までは、あなたが一人で頑張ってるのを、どこかで見守るのが私たちの役目だと思ってた。でも、もう違う。……あなたが自分の身体をどうでもいいって思うなら、私たちがあなたを管理する。あなたの味覚も、痛みも、全部私たちが共有して、あなたを人間に引き戻すから」

 

リンの瞳には、強い意思が宿っていた。

 

それは単なる同情ではない。レンという壊れゆく存在を、この世界に繋ぎ止めるために、自分たちのすべてを賭けるというプロキシとしての、そして家族としての「執念」だった。

 

「今日からの仕事は、昨日までとは違うから。……一歩歩くごとに、私の指示を聞いて。君に傷一つ負わせない。君に『死ぬのが一番早い』なんて、二度と、絶対に思わせないから」

 

リンは俺の指先を、噛み締めるように強く握った。

そこに込められた愛は、今の俺にはあまりにも重く、それでいて、もう二度と一人では歩かせないという冷徹なまでの守護の誓いだった。

 

 

 

一時間後。

 

俺たちはビデオ屋を出て、昨日の災害現場――白祇重工が復旧拠点としている「ホロウ外縁部」へと向かっていた。

 

昨日、建設現場の半分を飲み込んだあの不気味な紫と黒のドーム、ホロウ災害は、現在は治安当局の手によってこれ以上の拡大を抑え込まれ、安定化の処理が進んでいる。

 

俺たちが向かっているのは、そのドームから数百メートル離れた、汚染の及んでいない安全な区域だ。そこには白祇重工が急造した仮設テントが並び、避難した作業員たちの点呼や、機材の搬出作業が行われている。

 

だが、道中の景色は惨愄だった。

ホロウそのものは目の前になくとも、その周辺にはドームから漏れ出した「エーテルの残滓」が薄い紫色の霧のように漂い、アスファルトを腐食させている。

 

インカムから聞こえてくる二人の声は、昨日までとは「密度」が違っていた。

 

『レン、前方の交差点を左へ迂回して。本来のルートはエーテル濃度が基準値を僅かに超えてる。肺に負担をかけたくないの』

 

リンの指示に、俺は足を止める。

 

「……左? 右の最短ルートなら、防塵マスクをきつく締めれば一分で着く。仕事の合流を急いだほうがいいだろ」

 

そう、今までの俺なら迷わず最短を選んでいた。多少の不快感やリスクがあっても、効率的に「結果」を出す方が正しいと思っていたからだ。

だが、アキラの声が冷徹にそれを遮った。

 

『その「多少」を、僕たちは許可しない。レン、今の君の肺胞は、昨日繰り返した死の負荷でひどく過敏になっているはずだ。……僕たちが計算した未来に、君の咳き込む声すら必要ないんだ』

「……アキラ?」

『指示した左ルートの安全は、僕たちが今、周辺の監視カメラとドローンをジャックして確認した。……レン、君はただ、僕たちが切り拓いた「無傷の道」を歩いていればいい』

 

 

俺は絶句した。

彼らは、俺が任務をこなすことを求めているのではない。俺という存在に「微かな傷」が付くことさえ防ぐために、プロキシとしての能力を、本来ならあり得ないほど細かな安全確保に注ぎ込んでいるのだ。

 

『……レン。あなたは「少しくらいなら大丈夫」って思ってるかもしれない。でも、私たちはそれを絶対に認めない。あなたが指先にささくれ一つ作るだけでも、私たちのナビゲートは「失敗」なの』

 

リンの声が、鼓膜を通じて脳の奥底に直接響く。

それは慈しみであると同時に、レンという個人の意志を塗り潰すほどの、圧倒的な管理の意志だった。

 

俺は、自分の意思で動かしていたはずの足が、二人の提示する「安全なレール」の上をなぞらされていることに、得も言われぬ寒気を覚えた。

彼らは俺を信じていないのではない。俺が自分を「身代わりの道具」として扱うことを、世界で一番拒絶しているのだ。

 

「……ああ、分かったよ。お前たちの言う通りに行く」

 

俺がそう答えると、インカムの向こうでリンの安堵したような、それでいてどこか「獲物を捕らえた」ような吐息が聞こえた。

 

俺は、紫のドームを遠くに眺めながら、エーテルの塵一つ被らないまま、白祇重工の仮設拠点に到着した。

そこには、自分たちの必死の工作で「守られた」俺を待っている、二人の視線が重く、熱く、こびり付いていた。

 

 

 

 




多分次くらいで白祇重工編は終わります

それと近々大きくリメイクをしていく予定です。大きく流れが変わるかもしれませんが許してくださーい!

リメイクは別で投稿した方がいいですよね?

  • うん。
  • 全部すり替えでいいんじゃない?
  • よし、スタレも書こう(?)
  • 好きにしなさいよ
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