六分街の夜は、ひどく冷えていた。
「……待ちなさいよ、レン!!」
ニコの叫びを背中に受けながら、レンは路地裏の闇へと身を投じた。白く染まった髪が、街灯の光を弾いて銀色に煌めく。
背後の気配を振り切るため、彼は脳裏に刻まれた「最短の軌跡」をなぞるように地を蹴った。
無意識に発動した『亡霊の残像』が、一瞬だけ因果を歪める。ニコとアンビーの視界から、レンの姿はまるで最初からそこにいなかったかのように掻き消えた。
逃げたかった。
ビデオ屋『Random Play』で、リンとアキラにすべてを悟られたあの瞬間。自分の瞳に刻まれた【300】という数字が、誰にも知られず積み上げてきた「死」の証明だと知られた時の、二人の顔。
本当の兄ではない自分を、あんなにも純粋に慕い、待ち続けてくれた二人を、あんなにも無残な絶望に染めてしまった。
……辿り着いた『邪兎屋』のアジト。
暗い室内で、レンは膝を突き、血の通わない右目を強く押さえていた。だが、静寂はすぐに破られる。
「……逃げ切れると思った?」
扉を蹴破るようにして現れたのは、息を切らしたニコだった。その瞳には、かつて見たことがないほど大粒の涙が溜まっている。いつも強気な彼女の顔が、今は崩れそうなほどに歪んでいた。
「プロキシから、全部聞いたわよ……。あの子たちにとって、あんたがどれだけ大切な存在だったか。……それから、その右目の数字の意味も」
ニコが震える足で歩み寄り、レンの胸ぐらを掴み上げた。だが、そこに力強さはない。ただ、大切なものが指の間から零れ落ちるのを必死に止めようとするような、縋るような弱さがあった。掴んだ拳が、レンの心臓の鼓動を確かめるように激しく震えている。
「どうして……どうして一人で抱え込んだのよ。あたしたち、仲間じゃなかったの!? 何百回も死ぬなんて……そんなの、あんたの心が壊れちゃうじゃない……! あんたがそうやって平然と笑うたびに、あたしたちは何も知らずに、あんたの命を削らせてたっていうの……!?」
ニコの叫びが狭い部屋に反響する。その隣で、アンビーは暗い顔で立ち尽くしていた。彼女の指先は小刻みに震え、その視線はレンの白い髪
――死を積み重ねた代償の証――に釘付けになっている。
「……レン。私は、貴方の戦い方を『天賦の才』だと思っていた」
アンビーの声は、いつもの淡々とした響きを失い、深い悲しみに沈んでいた。言葉を紡ぐ唇が、己の無力さを呪うように強く噛み締められている。
「でも、違った。……貴方はただ、そうなるまで、何度も、何度も、殺されてきただけだった。……ごめんなさい。私、貴方に守られていることに甘えて、貴方の痛みに気づかなかった。貴方が切り刻まれる未来の先に、私の安穏な今日があったなんて……そんなの、耐えられない」
一筋の涙が、アンビーの頬を伝い、床に落ちた。感情を露わにしない彼女が流す、静かで重い絶望。
「……行きなさい、レン。あの子たちが、ビデオ屋で貴方のことを待ってる。……ちゃんと話して、これからは一人で死なないって、約束してきなさい。それが、あんたを愛してるあの子たちへの、せめてもの誠実さでしょ。……あたしたちに、これ以上こんな思いをさせないで」
ニコに背中を、突き放すような、けれど祈るような重みで押され、レンは再び『Random Play』へと向かった。
重い足取りで辿り着いたビデオ屋『Random Play』。
夜の帳が下りた新エリドゥの街角で、見慣れたはずのその扉は、今は獲物を飲み込む口のように口を開けて待っていた。
レンは震える手を伸ばし、真鍮のドアノブを掴む。
重い手応えと共に扉を引けば、
「カラン……」
静まり返った店内に、乾いたベルの音が虚しく響いた。
店内の照明は極限まで落とされ、カウンターの奥で光る無数のモニターの青白い光だけが、影を不気味に長く伸ばしている。
「……おかえり、レン。待っていたよ」
静寂を切り裂いたのは、アキラの低く、抑揚のない声だった。
彼はカウンターに肘をつき、レンをじっと見つめている。その隣では、リンが微動だにせず立っていた。彼女の瞳は赤く腫れ、頬には涙の跡が乾いて白く残っている。
レンが中に入り、扉を閉め切る。その瞬間、背後から「ガチャン」と重い金属音が響いた。
扉が閉まる音。それは、レンの自由が完全に遮断された合図でもあった。
「……逃げないよ。もう、逃げられない」
レンが力なく笑うと、リンが音もなく歩み寄ってきた。彼女はレンの震える右手を、骨が軋むほどの力で掴み取る。
「……奥へ。話があるの。……全部、全部吐いてもらうわよ」
着くやいなや、レンは逃げる間もなく兄妹に挟まれる形で、奥へと連行された。
表通りの喧騒が遠く、まるでそこだけが世界の終わりに取り残されたかのように冷え切っていた。
「……話して、レン。隠しごとはもう、お互いのために良くないと思うんだ」
アキラが静かに口を開く。その声に怒りはなかったが、ひどく掠れていて、今にも折れてしまいそうな危うさを含んでいた。
その隣で、リンは黙ってレンを凝視している。彼女の膝の上には、作業端末が開かれたまま置かれ、そこには捉えられたあり得ないはずの「因果の歪み」を示すログが羅列されていた。
レンは逃げ場を失っていた。
邪兎屋のアジトでニコに見つかり、そのまま半ば強制的に連れ戻されたこの場所。かつては温かなスープの香りが漂っていた団欒の場が、今は冷徹な尋問室のように感じられる。
「俺は……」
「『偶然』なんて言葉は聞きたくない」
リンが遮った。彼女の目は、レンの瞳の奥を射抜くように据わっている。
「その髪、その瞳の数字……。お兄ちゃんが演算したの。レン、あなたがホロウの中で『消えた』時間、そして戻ってきた瞬間のバイタル。心臓が一度止まって、また動き出すまでの不自然な空白。全部、記録に残ってる」
リンが端末をレンの方へ向けた。そこには、赤い折れ線グラフが突如として途絶え、次の瞬間には全く同じ位置から再開している異常な波形が映し出されていた。
「これ……『死んでる』よね? この瞬間のあなた」
リンの指が震え、端末の画面に爪が当たる乾いた音が響く。
レンは唇を噛み締め、拳を握りしめた。これ以上、嘘を重ねることは、自分を「お兄さん」と呼んで信じ続けてくれた二人を、これ以上に残酷な形で裏切ることになる。
「……ああ。死んだよ」
重い沈黙を破り、レンの口から真実が溢れ出した。
「一度じゃない。何度も、何度も。……君たちがホロウの中で命を落とす未来を、誰かが無残に殺される結末を、俺は全部見てきた。それを無かったことにするために、俺は自分の命を『巻き戻して』きたんだ」
自白は、堰を切ったように続いた。
首を跳ね飛ばされた時の、視界が回転する感覚。
全身の骨が重機に押し潰され、内臓が弾ける感触。
焼ける皮膚の臭いと、思考が白濁していく絶望。
レンが言葉を紡ぐたび、リンとアキラの顔から血の気が引いていく。リンはあまりの凄惨さに口元を押さえ、アキラは耐えきれないように頭を抱えた。
「その数字は……【301】。俺が、君たちのために捨ててきた命の数だ」
「……っ、うわぁぁあああ!!」
リンが叫び声を上げて、レンに飛びついた。彼女はレンの胸ぐらを掴み、涙でぐしゃぐしゃになった顔を押し付ける。
「なんで! なんでそんな勝手なことするのよ! 自分の命を、何だと思ってるの!? 安い代償だなんて思わないでよ!!」
「……リン、落ち着いて」
「落ち着けるわけないでしょ! この人は、私たちの知らないところで300回も殺されたんだよ!? 私たちが笑ってる裏で、この人の体は何度もボロボロに……!」
アキラが、震える手でリンの肩を抱き寄せた。彼の瞳にもまた、深い、底の見えない絶望の沼のような影が落ちていた。
「レン。……君の言い分は分かった。でも、僕たちはもう、それを許さない」
アキラの言葉は、冷たく、そして決定的な重みを持っていた。
「君は、自分を犠牲にすれば僕たちが救われると思っているんだろうけど、それは間違いだ。君が死ぬたびに、僕たちの心も削られていく。気づかなかった……いや、君に気づかせてもらえなかった僕たちの罪だ」
アキラは立ち上がり、カウンターにあるメインシステムへと向かった。
「今日から、ルールを変える。……いい、レン。君はもう、一人でホロウには行かせない」
アキラが提示したのは、あまりに一方的で、あまりに過保護な「契約」だった。
1.レンの外出、および依頼の受託には、プロキシ(リン・アキラ)の絶対的な許可を必要とする。
2.外出中は、イアスを介した常時映像通信と、バイタルデータのリアルタイム送信を義務付ける。
3.バイタルに「異常(死の兆候)」が見られた場合、即座に作戦を強制終了させ、二人が介入する。
「君の外出、および依頼の受託には、僕たちの絶対的な許可を必要とする。そして――」
リンが震える手で、黒い革製のチョーカーを取り出した。その中央には、脈動を検知するための鈍い銀色のセンサーが埋め込まれている。
「これを、つけて」
リンがレンの首元に指を這わせる。ひんやりとした感触が、喉元を締め付けた。カチリ、と金具が固定される音。それは、レンが二人の管理下に置かれた決定的な証だった。
「あなたの鼓動が止まったら、すぐに分かるように。……これでもう、一人で勝手に死なせない。どこへ行くにも、私たちがあなたを繋ぎ止めてあげる」
「……そんなの、自由がなくなる」
「自由なんて、もういらないでしょ」
リンが、涙を拭わずに冷たい瞳でレンを見上げた。その瞳は、もはや「妹」のものではなかった。レンを二度と失わないために、彼の全てを縛り付けようとする「管理者の瞳」だ。
「ダメだよ、レン。また傷つくつもりでしょ? ひとりで地獄に行くなんて、もうさせない。……ねえ、約束して。これを守らないなら、私たちは今ここで、ビデオ屋を畳んで、一生あなたをこの地下室に閉じ込めるよ」
彼女の言葉は本気だった。もしレンが首を振れば、二人は本当に彼を物理的に拘束してでも守るだろう。
「……分かった。約束するよ」
レンの答えを聞くと、リンは安堵したように、しかしどこか壊れたような笑みを浮かべて、レンの服の裾をぎゅっと掴んだ。
数日後。
ビデオ屋の日常は、表面上は元に戻ったかのように見えた。
しかし、その空気は以前とは決定的に異なっていた。レンが二階から降りてくるたび、リンとアキラの視線が、彼を捉える。
「レン、おはよう。……うん、血圧も心拍も正常だね。今日は邪兎屋のニコさんたちが来る予定だから、勝手に出歩いちゃダメだよ?」
アキラの言葉に、レンは力なく頷く。その首には、最新型のウェアラブルデバイスが装着されていた。それはレンの鼓動を、秒単位でアキラたちの端末へと送り続けている。
カランコロン、と店のドアが開いた。
「おっはよー! 監禁生活の調子はどうかしら、レン?」
派手な格好のニコが、アンビーとビリーを連れて入ってきた。ニコはレンの現状をリンたちから聞いていたが、彼女なりに気を利かせて、重苦しい空気を吹き飛ばすように明るく振る舞った。
「ニコさん。……依頼の話ですか?」
リンがカウンター越しに、ジト目でニコを牽制する。
「そうよ。白祇重工からよ。外環の建設予定地の先行調査。なんでも、最近原因不明の機械トラブルが続いてるらしくてね。グレースって技師長から指名で依頼が来たの」
「白祇重工……」
レンの脳裏に、嫌な
あそこは、後に大規模なホロウ災害に見舞われる場所だ。本来の歴史では、多くの作業員が犠牲になり、白祇重工は莫大な負債を抱えることになるはず。
「……リン。この依頼、受けさせてほしい」
「ダメ」
即答だった。リンの瞳が冷たく凍りつく。
「大丈夫だ。邪兎屋の2人も一緒だし、調査だけなら……」
「レン。君はまた、自分で行こうとしてる」
アキラがモニターから目を離さずに言った。
「……でも、これを受けないと、彼らは……」
「……分かった」
リンが深いため息をつき、渋々と端末を操作した。
「ただし、条件。ニコさん、レンの隣には常にアンビーさんを置いて。それと、イアスのカメラは常にオン。少しでも危ないと思ったら、私が強制的に介入する。いいわね?」
「はいはい、わかったわよ。過保護な妹さんねぇ」
ニコは苦笑いしたが、リンの瞳が全く笑っていないのを見て、それ以上は何も言わなかった。
建設現場。
巨大な重機が立ち並び、鉄の匂いと油の香りが漂うその場所で、レンたちは「彼女」と出会った。
「あら。あなたがプロキシが推薦してくれたエージェント? ……ふうん」
白衣を羽織り、工具袋を腰に下げた女性――グレース・ハワードが、興味深そうにレンを覗き込んだ。
「珍しいね。その白髪……遺伝子変異かな?それともエーテル照射による白化? それに、その右目……瞳の中に数字が刻まれているなんて、どんな光学デバイスを使っているの?」
グレースは初対面の挨拶もそこそこに、レンの顔に顔を近づけ、穴があくほど観察し始めた。彼女にとって、レンの身体的特徴は「知的好奇心」を刺激する最高級のパーツに見えたのだ。
「……いえ、これはただの体質です」
「ふーん。いや全く構わないよ。仕事をしてくれるなら、背景は問わない。私はグレース。この子たち(重機)のお母さんだよ」
彼女は誇らしげに笑顔で背後の巨大な削岩機を指差した。
その横では、小柄な少女――クレタ・ベロボーグが、巨大なハンマーを肩に担いで不機嫌そうに立っていた。
「おい、グレース! お喋りはそのくらいにしろ。さっさとホロウの予兆を片付けるぞ。うちの現場が止まってちゃ、飯の食い上げだ!」
「わかってるよ、社長。……じゃあ、行こうかレン。君がどんな『性能』を見せてくれるのか、楽しみにしてるよ」
グレースが、レンの肩を軽く叩く。
その瞬間、レンの耳元で通信機がノイズを上げた。
『……レン、今の女の人、誰? ……あんまりベタベタしないで。バイタルが少し上がってる。……なんかムカつく』
リンの、冷たく淀んだ声。
レンは冷や汗を流しながら、これから始まる「地獄の救済」へと一歩を踏み出した
誰とのストーリーを書いたらいいでふかね(選択肢にないキャラは私の妄想が乏しいために入っておりません。ご要望あれば教えてください)
-
イヴリン&アストラ
-
朱鳶さん
-
儀玄師匠
-
福福先輩
-
ルーシー
-
シード
-
雅課長
-
柳
-
エレン
-
邪兎屋
-
カリュドーンの子
-
ヴィクトリア家政
-
対ホロウ特別行動部第六課
-
雲嶽山