――異世界。
それは名前の通り、異なる世界を指す。並行世界や、あるいは映画の中の世界も、異世界と呼べるのかもしれない。
しかし現代において、その言葉はそういった定義から外れつつある。
異世界=剣と魔法飛び交うファンタジー世界になりかけているのだ。文明レベルは中世(中世は長いらしいのだが、ここでは蒸気機関やらが発達していないぐらいのレベルを指す)で、伝承などに語られる鍛治と酒が大好きなドワーフや、肉を好まず草木と共生するエルフといった、人間以外の種族も多い。
これが、多くの人間が想像する異世界になりつつある。
原因は同ジャンルの創作物が大量に生産され、大ヒットを巻き起こした作品も多数存在するからである。
むろんそれは創作物の中の話であり、地球に住まう現代人、白川 祐也もまた異世界ファンタジーを好みながらも、現実にはナイナイ、と肩をすくめる一般人であった。
自分が異世界に召喚されるまでは。
「よくぞ異界より応え現れ出でてくれた、勇者よ。さあ、魔王を討伐し、暗雲たち困る世界に希望を与えたまえ」
高校二年生の五月。
愛校精神も芽生え、友人たちと交流を深め青春真っ最中であった彼は、人間を支配しようと目論む魔王討伐のため、命懸けの戦いに身を投じることを余儀なくされた。
最初は夢かドッキリを疑った。しかし現代にあるとは思えぬ巨大な城や、欧米人に近い人間が流暢な異世界語を喋っていることと、自分がそれら未知の言語を聞き取り、喋れること。
最後に「遠征」と称した戦いの中で目撃した人智を超えた魔法が決め手となって、現実と認識した。
次に湧き上がったのは、ふざけるな。どうしてこんな目に、という感情だった。
しかし異世界の現実を見れば、魔王の眷属たる化け物、魔物に虐げられる人々。家畜を喰われ作物を荒らされ土地を汚され、終いには人を襲い、女を犯して繁殖する種まで。
遠征で目にした現実は、直視するにはあまりに醜く残酷な世界だった。
魔物は恐ろしく、魔王直属の兵ともなれば、そこらの雑兵では敵うべくもない。勇者として召喚された彼はしかし、その力を有していた。
ゆえに勇者となった白川 祐也は、異世界で魔王討伐の旅を始めることになったのだ。
「なぜか女になって、ですけれどね」
最初は慣れなかった、白き喉から奏でられるソプラノボイス。まさに天使のような声色は、複雑な心境を載せていた。
「クラウディア様が男だったなんて信じられませんが……」
「そうそう、こんなに可愛いのにさ」
「………………うん、聖女様、きれい」
その声に、魔王を討伐すべく世界中を旅して集まった、仲間たちが答える。
黒髪を片口あたりで切り揃えた、魔法銀製の鎧を着込んだ浅黒い肌の凛々しい女騎士。
大きな唾付き帽子を深く被り、野暮ったいローブを着てへらりと力なく、胡散臭く笑う金髪耳長のエルフ。
そして感情表現に乏しい、赤褐色の髪に犬耳が特徴的な獣人。
そんな彼女たちに、「褒められた顔ではなかったのですけれど」と上品に苦笑する。
(実際、顔面偏差値50くらいだったし)
白川 祐也――現クラウディア・アルマ。
その容姿は枝毛一本ない純白の髪を背中の真ん中あたりまで伸ばした、翡翠の瞳を有する少女であった。
本来ならば他にも、長いまつ毛であるとか、雪のように白くシミ一つないきめ細やかな肌であるとか、称賛すべき点には限りがない。ともかく、言葉を尽くしても足りぬ美貌。
しかし、心の声は未だ男の子であった。
「確か、異世界から召喚される際……事故があったのでしたか」
「そうだねえ。肉体を量子レベルに切り刻んで、世界を隔てる壁を隙間風のようにすり抜ける。その中で、高位の存在の介入を得たのだろう」
「むずかしい。わからない」
「あはは、まあこれに関しては私も机上の空論さ。量子を観測できる機会はきっと、死ぬまで訪れないだろうねえ」
エルフ――フィオラはにへら、と口を歪める。
彼女は腕の良い魔法使いなのだが、目の下のクマと、長い帽子のつばが目元に影を落とすせいで五割り増しで胡散臭い。
獣人――ユフィは彼女の言葉の半分も理解できず、こてんと首を傾げた。
「元には戻らない、の?」
「さて、どうでしょう。事故でこうなったのなら、また事故でも起きない限りは戻らないのかも、ですが」
「なにかヒントがあるやもしれん。クラウディア様を呼び出した召喚魔法を読み解けないのか、フィオラ」
女騎士――アリア・フッレドは横で杖を弄ぶフィオラに問う。召喚魔法とは、文字通りクラウディアをこの世界に呼び出した下手人……下手魔法である。
それを解析すれば、或いは何か元の姿に戻る糸口があるのかもしれない。
頭が良くないと自負し、脳筋と謗られることもあるアリアなりに考えた妙案だった。
「ダメだね。召喚魔法自体、大元は暗黒の時代に創生され、例のごとく秘文字により編み出された古代魔法さ。魔法院のお歴々が頭を捻りなお、未だ解析できぬ遺産。それを私如き一介の魔法使いが読み解けば、印税で一生遊び呆けられるだろう」
「秘文字……ニュフィンを思い出しますね」
「ああ。なにせ、ニュフィンは秘文字の誕生した地だからね。でもあれらだって、本来あったはずの文字の意味や成り立ちといった情報は失伝している」
ニュフィン。
いまクラウディアたちのいる魔王の支配領域から大きく東に行った場所にある、端の大地に芽吹く文明だ。
そこでは「秘文字」と呼ばれる特殊な魔法を使用していた。魔力を込めて文字を描くだけで火を出したり、水を出したり、あるいは魔力により高速移動までできる代物である。
ゆえに、中世の世界観なのにそこらじゅうに文字が刻まれ、移動する床(エレベーターやエスカレーターのような役割を果たしていた)や、情報を即座に共有できる板など――どこか未来都市めいた光景を形作る独特の文明だった。
(SFっぽすぎて初めて見た時は開いた口がしばらく閉まらなかったな。……結局、秘文字も何が何だかわからなかったし)
そんな「秘文字」の由来だが、異世界に根付く魔法体系とは大きく異なり、まるで別世界から伝来したような技術であることと、その文字の意味が失伝しており、全く解明できていないこと。さらに、太古の昔から存在したことしかわかっていない。それゆえに、「秘文字」と呼称されるようになったとされる。
閑話休題。
ともかく、その「秘文字」は古き魔法の大半に使用されている、ということだ。
召喚魔法もまた、主流な魔法体系では不可能の産物であり、「秘文字」が複雑に用いられた魔法である。
クラウディアの召喚者たちも、古くから伝わる魔法陣を書き写し魔力を注いだだけであった。
「意味も成り立ちもわからぬ魔法。それに頼り切るからこうなるんだ。原因の解明も改善もできやしない。技術に対する冒涜だよ、これは」
「ふむ……まあ、危ないかもしれないものを使うのは良くないな」
「まちがいない」
こくこく、と頷く脳筋と幼女。
そして怒り浸透な魔法オタク。
凸凹パーティだがその実、うまく回っていた。
(そう、魔王を倒してしまうくらいにな)
「…………まおう、行っちゃったね」
暫しの沈黙があって。
ユフィが広くひらけた王の間、その壁にぽっかり空いた穴をぼんやりと見る。
「良かったんじゃないか?ずっと縛られているよりはよっぽど楽だ」
フィオラも、その壁の穴――から伸びる、黒い光の筋を眩しげに、かつ恍惚として見つめる。
「――しかし良かったのだろうか。魔王を野放しにするなどと」
「確かに、あの方の心には邪悪が巣食っていました。しかしそれは、ある魔物が魔王にかけた呪いゆえだった。あの呪いを解き、人を害さぬ、と制約まで課したのです。ならばもう、疑う余地はないでしょう」
唯一アリアは、「放逐した魔王」に不満げだった。正直者かつルールに厳格な彼女からすれば、魔王という悪の指標を簡単に許すことはできないのだろう。
長らく世に闇を落としてきた魔王だったが、彼が世界を虐げていた理由には、配下の裏切りがあった。
呪いに長けた配下が、巧妙な呪いにより魔王を狂気へ駆り立てていた。魔王自体は精神を心の奥底に封じられていた。というのが、ことのあらましだった。
大昔に隆盛を極めた我等を、だとか、恩義を忘れて、だとかほざいていたが、それらは全て魔以外の種族に深い憎しみを持つ配下の呪いが魔王を介して発現していたにすぎなかったのだ。
クラウディアの手によりその呪いが解呪されると、魔王は人が変わったように物腰柔らかく感謝を告げた。直前まで目を剥き歯を突き立てんばかりに雄々しかった姿とは別物で、全員が目を白黒させたことは記憶に新しい。
どうやら世界を見てまわりたい、とのことだったが、ただ放逐というわけにもいかず。クラウディアの手により「人を害さない」という呪縛をかけることで、彼はわずかな枷を連れて風と共に去った。
(もっとも、本当に悪事を働かないか、はわからないが。それは俺には関係のない話だ)
たとえば、魔王が手を下せずとも、他人を介せば企みの一つや二つは立てられるだろう。そうした抜け穴を埋めるために、漠然とした「人に危害を加える行動一切NG」の契約を行ったのだった。
しかし、配下の呪いに侵されていた魔王は狡猾であった。あの手この手で砦を落とし、人間界の上層部に食い込み、多くの旅路を阻まれてきた。
ゆえに、もしかしたら策を練り、いずれは人の世をまた脅かすことがあるやも……
しかしそれは、この異世界の問題であって、これから元の世界に帰還するクラウディアには介入できないことだ。
(聖女のフリも疲れた。ようやく仕事納めだ)
「――やっぱり、いっちゃうの?」
遠い目をしたクラウディアに、幼い見た目や喋り方とは裏腹に鋭いユフィの指摘。
皮切りに、その場の全員に緊張が張り詰める。滅多なことでは軽薄な態度を崩さないフィオナすら、口を引き締め顔を伏せる。
(獣人の本能、ってやつなのかもな。何度もこの勘を斥候として役立てもらったけど……)
「……参りましたね。もう少し、後になって――いえ、それも言い訳ですか。ユフィの勘の鋭さには敵いませんね」
クラウディアは苦笑する。魔物蔓延る「迷宮」や、魔王の住処であり、今彼女たちが足を踏み入れている魔王城ではユフィの斥候に大きく助けられた。
小さく、しかし俊敏な彼女は大きな存在を誇っていたが、その実一番の武器は獣人の優れた本能から来る勘の鋭さだった。それが初めて自分に牙を剥いたことで、アイナと相対していた敵たちの気持ちが分かった気がした。
「召喚魔法の契約は、どうやら果たされたようですから」
クラウディアが右腕、白磁がごとき掌をふらりと胸の辺りまで上げて見せる。細い指先が粒子となって、空気に溶けている様子がありありと見てとれた。
「……そう、か。いや、わかってはいた。しかし心のどこかで」
アリアは形の良い眉を寄せて、クラウディアの指先を見る。
「っ、転移が始まっているのか!腕を貸してくれ、すぐ見る!」
やや硬直していたフィオラが駆け出し、クラウディアの腕を奪い取るように眼前に持ってくる。そして、血走った瞳で魔法の解析を始めた。
「四肢からの消失が始まっている。おそらく先んじて情報量の少ない手足から転移することで、無理矢理情報量の大きな物質の通り道をこじ開けようとしている。ならば秘文字をーーいやダメだ、効果が重複して何らかの予期せぬ事態を引き起こしかねない。次の案はーー」
「フィオラ。いいのです」
「うるさい、静かにしたまえ。今、もう少し、あと、少しで閃くんだ……!」
誰から見ても、フィオラの解析は終わりそうにない。見かねたクラウディアが静止するが、聞く耳を持たない始末だった。アリアとユフィも、フィオラの思いが痛いほどわかるため、口を出すことができない。
「やめなさい、フィオラ。もう意味はありません」
「……黙れ、と言ったはずだ」
「黙りません。一度発動した召喚魔法は不可逆。これは決まっていることです」
「っ、でも、だとしても」
二度目の静止。しかし、それでも食い下がらない。否、食い下がれないのだ。
クラウディアの腕は、そうこうしている間に消滅が進行する。指先から、第二関節へ。
フィオラが次に声を上げたのは、指がもはや消失し、掌も半分ほどまで消えかかった時だった。
「なぜだ、なぜだどうして!わかれよわかるはずだろなぜわからない!私がこれまで積み上げてきた魔法知識は、これでは何のためにっ……!!」
「……フィオラ」
「ふざけるな、ふざけるなっ!!」
金の髪を振り乱したフィオラが、金切り声で叫ぶ。それは初めて眼にする、100%の絶叫だった。
クラウディアは思わず呆けて、固まってしまう。フィオラはクラウディアの消えかけた掌を強く、互いの掌が白むまで握った。
「だ、だって私たちの旅は続くべきだろう!?平和になった多くの地を巡るんだ。どの国の民もみな張り詰めていたが、これからは違う。少し休暇をとってから、名産品の美食を求めて、魔法に没頭して、それで――」
早口で捲し立てる声には、そのうち嗚咽が混ざる。目尻には透明な雫が浮かび、白い肌が朱に染まる。愛用する魔女の帽子が地面に落ち、はらりと、ひと房の金が滑り落ちる。
「…………なのに、誰からの称賛も、救った世界を見ることもできないまま去らねばならないなんて――こんなの、あんまりにも酷い終わりじゃないか」
「……フィオラ」
「フィオラ、様」
アリアとユフィは瞠目する。本当なら、今から帰還するクラウディアを笑顔で送り出すべきだ、と諭すべきなのだろう。
涙で彩られた別れを、きっとこの「白き聖女」は求めてはいないから。
でも、フィオラの気持ちもまた、痛いほど理解できた。
「私たちも、正直同じ気持ちだ。民草のため、先陣を切って戦うだけでなく。クラウディア様は本来必要のないはずの慰問や、教会への寄付を行った。だというのに、このような……使い捨ての救世機構のような扱いは、人徳に悖る」
「わたし、かなしい……もっと一緒に、いたい」
クラウディア・アルマの聖性は広く知れ渡っている。どんな傷をも癒やし、心の傷にも寄り添う。さらに孤児院を運営する教会などへの寄付や各地の兵への慰問、魔法研究のための技術提供――――
数えきれない善行の山。それらは魔王討伐のみが課せられた勇者には、全く必要のない行為だった。ゆえに、その容姿や戦姿も相まって「白き聖女」と呼ばれることになったのだ。
もう、クラウディアの名を聞いて勇者を連想する人間はそう多くはいない。
でも、それは――クラウディア・アルマを運営する白川祐也という少年にとっては、そのような称号は、自分勝手な都合による副産物だった。
(全く。そう思われるような言動をしていた俺も悪いんだけどさ)
その実、クラウディアにとってそれら行為は、「人としての自分」を失わないための確認行為にすぎない。クラウディア・アルマという聖女を演じることで、まるで外部からクラウディアを操作しているかのように自分を信じ込ませる。
そうしなければ、異世界という未知の土地で、誰にも頼れず信じられず、命を賭した戦いに身を投じる――そんな状況に、高校二年生の少年が正気を保てるはずがなかったからだ。
でも……
(でも、そんな聖女に、クラウディア・アルマに、みんなついてきた。いつの間にか、こんな遠くまで来ることができてしまった)
それが結果的であっても、夢を見せてしまったのなら、その夢を醒まさせる責任があるのだろうか。はたまた、そのまま微睡の中で聖女の夢を見てもらうべきなのだろうか。
彼女たちがクラウディアのために怒り、悲しんでいるのは、彼女が聖女だからだろう。なら、それら行為の原動力が実は利己的なものでした、となれば無駄に悲しむこともない。
しかし同時に、それは聖女という夢を壊すことになる。慈悲深き聖女の仲間として旅したことを皆が誇りに思っていることくらい、人心の機微に疎いクラウディアもわかっている。
クラウディア・アルマの選択は……
(あーもうめんどくせーっ!!もう聖女じゃねーっての、最後の最後くらい本音でぶちまけてやらぁ!)
「理想を語るのに、そんな顔すんな。元々悪い顔色が死人みたくなってるぞ」
「へ?く、クラウディア?」
考えることをやめることだった。
「アリア、ユフィ。お前らも聞いとけ」
「う、うむ」
「……なんか、かっこいい」
ビシィ、と少し離れたところに立つ二人に指……は消えてしまったので、手首を突きつけたクラウディアは、皆の驚愕を映す目を見て咳払いする。
「俺がやってきた善行はな、全て自分のためだ。俺が俺であるために必要な行為だった。それなのに周りが祭り上げたせいで、今となっては白き聖女さ。笑えるだろ」
それは告解だった。白き聖女が常に聞く立場だったそれを、はじめて行う側に回った、浅ましさの告白だった。
「本音を言えばな、今は怒ってはいないさ」
「う、うそだっ!怒って然るべきだ、怒らなくてはならない!だって」
「最初は怒ったし、困惑した。でも俺の世界には、ゲームってのがあってだな。この世界にある魔法やら魔物、なんてのは創作の中の話なんだ」
フィオラに微笑む。それは聖女の仮面を外した、年頃の男子のような快活な笑顔だった。唇だけを上げるのではなく、白い歯を剥き出しにした、貴族ならば失格をもらうだろう……しかし、ゆえにこれらは全て曝け出した彼女の、彼の本音だと、フィオラは理解した。
「俺としては常に、クラウディアという目を通して遊戯の、御伽話の中で好きに振る舞ってる、そんな認識だったよ。つまり、共に旅してきたクラウディアはハリボテってワケ」
失望しただろ?
また、少年のように笑うクラウディア。
フィオラは口を開こうとして、不恰好な声が漏れて、また閉じる。
それでも、世界に与えたのは確かに希望だった。クラウディアに救われた人間は大勢いる。……そんなことを伝えたとて、意味はない。その程度のこと、わかった上で発言をしているのだろうから。
"それはいい"。その点で、彼女に怒りがないのなら自分たちが怒るのはお門違いだ。
――でも、それでも胸の怒りは収まらない。
気がつきかけている。フィオラが、自分が何を恐れているのか。
白き聖女という、クラウディアという真実が明かされた今、フィオラは自分の想いの核心に触れていた。
彼女が聖女ではない。それを理解してなお、フィオラの心の中には世界への怒りがあった。そして、怒りの中には恐れがあった。
「……あ」
その正体は……
「俺はやっと自分の世界に帰還できるってわけだ。面倒な聖女を演じることもなく、ただ一人の高校生に戻る。慰問?寄付?あんな怠い行為続けなくていいなんて、せいせいするぜ。そもそも俺子供得意じゃないし」
――違う。違う、違う。
本当は美食なんて、魔法に没頭することなんて、旅することなんて、どうでもよかった。
ただ、そう。ただ、「君」がいてくれれば――
「だから、お前たちも自分の人生に戻る時だ」
君がいない世界が――
「クラウディア様、体が」
「……いっちゃ、やー!」
フィオラの視界の端を、小さな影がよぎった。
影を追えば、クラウディアに抱きつく赤毛の獣人。そこでやっと、クラウディアを見た。
もう、下半身はすっかり消えてしまって。あとは上半身だけが残っている、そんな有様だった。
「……ごめんな。ユフィ。俺は、ハリボテだったよ」
「わかんないっ!やっ、いやなの!いっしょにいたいの!」
フィオラの瞳が揺れる。
クラウディアの翡翠の瞳は、子供が得意ではないと言いながらも、慈悲と心配に満ちていた。腕を回そうとして、消え去ったことに気がついた時の、一瞬の翳りも。
ユフィは、差別階級の生まれだった。奴隷として酷使されていたところを偶々クラウディアが助けて、旅に勝手について来るようになった。道中で斥候としての才能を開花させてからは、先陣を切る小さな背中はとても頼りになったものだ。
「……クラウディア様」
「アリア。悪いな。お前がついてきたのは、俺の振る舞いに光を見たから、だったか」
「何を謝ることがあろうか。私は未だ、あなたに光を見ている。……我が生涯における忠誠を、あなたに捧げよう」
浅黒い肌の騎士は恭しく片膝を地面につき、顔を下げる。
フィオラの心がざわつく。
クラウディアが善行を働く時、その魂に揺らぎは見えなかったことを思い出した。
アリア・フッレド。
少数民族の生まれで、故郷の村が魔王の配下に襲われていたところを、クラウディアが助けた。しかし一族の殆どが重症を負い、あるいは命を失った。一族は潰えた、と悲嘆に暮れた彼女だが、死者を蘇らせること叶わずとも、クラウディアはどんな重篤な傷も癒してみせた。
そのことをいたく感謝した一族の長にして最強の戦士アリアは、鬼神の如き剣閃で道を切り拓いた。
そしてーー
「……フィオラ。君が最後だ」
「つたえたい、こと。いましか、いえない」
気がつけば、もうクラウディアは首から上しかこの世界に存在していない。
仲間たちにふらつく体を支えられ、クラウディアの前へ。
「わ、私は……」
「……ああ」
「私は、君といたかった。そこに、聖女とか、ハリボテとか、どうでもいい。クラウディアじゃなくても、いい」
言葉がまとまらない。いつも自分が仲間達に変わって取引や談合を取りなすのに、この場の誰よりも、漠然とした言葉しか喉を出ていかない。
「怒ってたのは、君がいない世界が怖いからだ。私は、もう置いていかれたく、ない」
フィオラ。本名フィオラルーナ・イクシマキナ・オルトゥハリアは、長命なエルフの中でもさらに長命なハイエルフである。魔法に没頭して六百年。二千年を生きるハイエルフとしては未だ若輩なれど、他の種族の多くはとっくに代替わりを果たす歳月だ。
ゆえに彼女は、刹那しか共にいられぬ友人たちとの別離に悲しみ、立ち上がり、また悲しんだ。
やがて魔法という普遍なる技術にしか興味がなくなり、森の奥に引っ込んで研究のみを行う日々。
百年以上も続くモノクロの日に、一応繋がりのあった魔法院の案内を受けて、白き聖女は現れた。魔王討伐を手伝ってくれまいか、という提案を引き連れて。
最初は断った。
世界を救う、という甘言に踊らされるような若き感性はすでに消えていた。
しかし、クラウディアは天才だった。ちらりと覗いたフィオラの研究書を元に光魔法を改造し、実用化までしてみせた。
彼女ではなく、彼女の技術に焦がれて。最初は、そうだった。
「でも、それが無理なのはわかってる。……だからせめて」
いつの間にか、やっぱり仲間と一緒にいるのは楽しく思う自分がいた。
そしていつも気丈に振る舞って、誰にも慈悲を与える彼女に興味を深めた。その理由は、フィオラが人の感情を読み取る目を持っていたから。
クラウディアの慈悲には、皆が言うような100%の善意は無かった。
けれど、確かに人らしい慈しみがあった。
そこらの兵士と同じ魂の色をしているのに、聖者として振る舞う彼女に惹かれていった。
でも、気づかぬ間にフィオラもまた、聖女というファクターを通してクラウディアを捉えていた。
だって、聖女なんて人種を見たことはないから。いかな聖職者だろうと、いや、聖職者だからこそ、腹になにかを抱えている。
だから、人並みの感情を持っていて、なお普遍的に慈悲を与える存在が聖女なのだと定義した。
そこらにいる人間と同じ感性をしていて、しかし奮起するからこそ聖女であると。
素晴らしい人間性だと、そう思った。そんな人間の仲間であることが誇らしかった。
でもそれは、彼女の言葉によって「聖女らしくない感情」だと断じられた。そんな自分が、別れを惜しまれることは許されない、とでも言うように。
しかし、聖女が自分本位なハリボテだと知ってなお、胸の怒り――怒りと言う名で覆い隠した、別離の恐怖は、消えなかった。
それはある種当たり前の感情だ。誰だって別れは怖い。現に、同じ感情を仲間たち全員が持ち合わせている。
ただ、ユフィやアリアと違った点は――
最初からフィオラは聖女も、クラウディアも見ていなかった、ということ。
であれば、誰を見ていたのか。
「せめて君の名前だけを、聞かせてはくれまいか」
そう、最初から感情が見えるハイエルフが見ていたのは――
「――――――白川祐也」
聞き馴染みのない名前の、たった一人の少年だったのだ。
めちゃくちゃシリアスですが、今後は多分そんなにシリアスにならないと思います。