「うわわわわわわーーーーっ!?」
薄暗い石壁に囲まれた空間に、悲鳴がこだまする。続いて、空間が軋むような振動がその悲鳴を掻き消した。
「な、なんで、なんでここにミノタウロスがいるの!?」
悲鳴の主である少女が、一つに結んだ黒髪のポニーテールを揺らしてひた走る。大きな瞳の目尻には涙が浮かんでおり、その顔は恥も外聞もなく体液でぐちゃぐちゃに濡れていた。
そんな哀れな少女を追いかける、巨大な影が一つ。
「ブモオオオオオオオオッッッ!」
それは、一見すると牛である。しかし、その姿を見て牧場で牧草をむしゃついているような、のどかな光景を連想することは決してないだろう。
白と黒の特徴的な毛ではなく、闘牛のような煤けた茶の体毛。頭には立派な角が天高く伸びており、ひと突きで獲物を死に至らしめるだろう。身長は凡そ3mはあろうか。それが筋骨隆々な肉体を備え、さらには二本足で地を踏み締め、少女に迫る。
「くうぅっ!?」
少女は第六感を頼りに、ほぼ勘で右に飛び込むような前転。刹那、彼女の背中に強い衝撃が走り、壁に激突。
見れば、人と牛を混ぜたボディビルダーが如き巨漢は、通路の向こうへ勢いをころせず消えていった。
「っ、あ、ぶな――!」
遠ざかる地響きが如き足音を聞きながら、少女は顔を土埃にまみれた袖で拭う。
神がかったタイミングでの当て勘と行動力がなければ、今頃自分はミンチになっていただろう。そう考えただけで肝が冷える。
「はぁっ、はぁ……とりあえず、時間稼ぎは……成功」
ミノタウロス。少女のような「初心者」は、決して出会わない――出会っても見つかってはいけない、強敵に分類されるモンスターだ。
なぜ少女がいるような浅いダンジョンに出没しているのかは不明だが、とにかく逃げなければならない。
少女は意を決し、一分もない休憩を終了して元の道を引き返す。
「三日目からこんな目に遭うなんて……私、やっぱり向いてないのかな……」
半分泣きべそをかきながらも、少女は歩みを止めることはなかった。
○
少女が道を引き返したとほぼ同じ時刻。
石壁と床に囲まれた閉塞空間に、白は降臨した。
「……ここは」
美しい天女が如き調べ。殺風景な空間が、彼女がいるだけで一枚の芸術作品に昇華する。
長い睫毛に閉ざされた瞳を開くと、翡翠の宝石に困惑が反射する。
――クラウディア・アルマは、ここに帰還を果たしたのだ。
「本当にどこなんだ?」
目覚める場所は、想定とは大きく違う場所だったけれど。
(地下鉄……なわけないよな。この壁に、床……ちゃんと材質は石だ。あそこに一本道の通路?ここは開けているが……)
一番良いケースで、転移した日の自室に戻ることだったが、もちろん他の場合も想定していた。もっとも、想定していただけで対応はその場任せにするつもりだったけれど。
現代に戻されるなら、紛争地帯にでも放り出されない限り安全なはずだ。
最後、気を抜いていたことや、たかを括っていただけに、この転移場所は想定外。
(というか、体……やっぱり、クラウディアのままだ)
視線を落とすと、白い陶器のような柔肌に、触れれば折れてしまいそうなほど細い手足。もはや見慣れた、自分の体だ。
しかし、即ちそれは転移前の白川 祐也としての肉体への帰還は果たせなかったことになる。尤も、転移時に起きた事故のせいで女性の体に転じてしまったのだから、帰還時も事故が起きぬ限り男性には戻らぬだろう、と覚悟していた。
それだけに、ショックは少なく済んだ。……自分に理不尽を受け入れる癖ができてしまった、とも捉えられたが、あえて心に浮かんだその意見は無視した。
少し周囲を見ると、クラウディアのいる場所は四角形に開けた空間で、前後左右に一本道が見える。出口の目印も、標識ひとつない。
(……さて、どうしたものかな)
「………………ぁぁあああ」
「ん?」
とりあえず落ち着いて、今後の方針を決めようとした時。
クラウディアの耳が、小さな音を捉えた。
「……ぁああああああっ」
「……近づいている?」
その音は段々と近づき、少女の声だと認識する。だが、それだけではない。声のさらに背後から、大きな音が一定のテンポで、かつ素早く刻まれて聞こえる。
眉を顰め、何事かとクラウディアは声の方向に歩を向ける。果たしてその声の主は、すぐに見つかった。
「ああああああああっ、って人ぉおおおおお!!?」
黒髪の少女だ。めちゃくちゃなフォームで手足をばたつかせるように爆走している。その顔は色々な液体でめちゃくちゃで、クラウディアはあえて形容するのを避けた。
すれ違ったクラウディアをフクロウのような首の回転で追っかけて見ていたが、そのまま止まることなく薄暗がりの奥へ消えてしまった。
(……もしかして、ヤバい場所に飛ばされたのではなかろうな)
どう考えても正気ではない。
帰還したはいいが、もしかしたら現代日本には違法薬物でも蔓延しているのだろうか。
今後のことを考えて、クラウディアはちょっと憂鬱になった。
「ちょ、危険ですよ!み、ミノタウロスが!」
「……?」
ヤバい人が戻ってきた。
クラウディアは警戒を露わに後ずさる。少女は「え、私引かれてる?な、なんで?」と困惑しているが、自分のヤバさに気がついていないあたりが本当にアブナイ人だった。
「と、ともかくっ!ミノタウロスが来てるんですってば!」
「ミノタウロス?ミノタウロスって、筋骨隆々の馬と人間のキメラのような……あの?」
本当に薬キメてるんじゃないだろうな。
脳裏に、力だけ強くて頭は少し弱い筋骨隆々の魔物を想起する。RPGゲームでよく目にする手合いだが、異世界で戦った時は恐ろしくて竦み上がる思いだった。
幸い、突進攻撃を結構な割合で行ってくるので、武器を手に待ち構えていれば勝手に自滅することも多かったことを思い出す。
けれど、ここは地球。
ミノタウロスなんて存在するわけが――
「……ブモ」
「………………」
ふしゅーっ、と鼻息を漏らした、力だけは強くて頭は少し弱い筋骨隆々の魔物。
(み、ミノタウロスだぁぁあぁあ!?)
大口開けて飛び退かなかったのは、聖女をする上で鍛えた表情筋の賜物だ。
「わぁぁああぁっ!言わんこっちゃない、言わんこっちゃない!」
「わ、ちょっ」
大慌てでクラウディアの腕を取って走り始める少女。
誘われるように、停止していたミノタウロスも突進を開始。凄まじい速さとパワーだ。迫る、二対の角。
反対に、クラウディアからすれば欠伸をしてしまうくらいの鈍い速度で走る、少女。
「…………ふむ」
クラウディアはこの時点で確信した。
これは現実だ、と。ミノタウロスの獲物を刈り取らんと息巻く姿。少女の命懸けの逃走。
そして何より、この空気のピリつき。
ならばこそ、クラウディアは剣を抜いた。物理的に抜刀したわけではない。そも、クラウディアは剣の類を帯びてはいない。
(幸い、なぜかこの空間には魔力が満ちている。……原因は、今は深く考えないとしても、戦うには十分だ)
抜いたのは――
「倒してもよろしいですか?」
「えっ!?なんて!?」
「……確認の時間はありませんね。では、失礼して」
心の剣。
「星景銀糸――武装形態」
○
「…………これは一体、どういうことでしょう」
クラウディアは魔物の核たる「魔石」のみを残し、灰となったミノタウロスを前に困惑していた。
確かに魔王を討ち倒し、地球に帰還を果たしたはず。
だというのに、濃密な魔力に満ちた空間に送り出されていたのだから。こてん、と細い首を傾げる。もしや、クラウディアの肉体となり魔力を得たから、昔は気が付かなかっただけで、地球に存在していた魔力を感知できるようになったのだろうか。
だが、ミノタウロスの存在は魔力だけでは説明がつかない。二足歩行する筋骨隆々の牛。気性は荒々しく、人間や家畜を捉えれば恐ろしいパワーとスピードで襲いかかる。
そんな化け物、現実に存在していたら隠し通せるはずもない。
しかし決して幻影などではない。はたまたVRの進歩でもない。肉を断つ感覚も、吹き出した鮮血も、確かに現実のものだ。魔王の幻惑魔法すら見破ったその翡翠の瞳が、見間違えるはずがない。
これは聞くしかないか、と。完全に腰を抜かしている――恐らく10代半ばの少女に振り返る。
黒髪を頭の後ろで一本に結った――すなわちポニーテールにした彼女は、日本人らしい黒曜の目にクラウディアだけを焼き付けていた。
「な、なに今の……つ、強すぎ……」
「もし、そこのあなた」
「は、はひぃっ!わ、わたしですか!?」
「ええ。一つ尋ねますが――ここは地球ですか?」
他に誰がいると言うんだ。
一瞬そう考えたクラウディアだったが、ミノタウロス相手に殺されかけていたのだ。精神が混乱していても致し方ないだろう。気付に回復魔法をかけても良かったが、黒い少女は少しつっかえながらもきちんと返答したため、保留とする。
「は、はい。地球、です」
「西暦何年の何月何日か……わかりますか」
「なんでそんなことを……?」
「事情があるのです。どうか、お答えを」
「う、うん……いや、はい……えーっと……たしか、202○年の4月10日……かな」
西暦が通じないのか、と一瞬焦りを覚えたが、その概念が存在していたことに安堵する。
その日付は、クラウディアが白川 祐也として生きていた日から、ちょうど3年後であった。
ただ、暦が地球と酷似しているだけに、余計に魔力の満ちた空間の謎が深まった。
この時点でクラウディアの脳内に浮かんだ選択肢は二つ。
一つ、地球に限りなく類似した別世界であること。
二つ、白川祐也の生きていた世界であること。
それを確定させるべく、クラウディアは続けて質問を行う。
「この空間は、なんですか」
「え?ダンジョンですけど……探索者の方ですよね?」
「ダンジョン……?探索者?」
耳馴染みのない言葉だ。クラウディアはオウム返しに聞き返す。その反応が予想外だったようで、少女は手を空中にばたつかせながらも短くダンジョンと探索者について概要を語る。
「えっと……このダンジョンを攻略する人のことです。……あ、ダンジョンって言うのは……なんて言うんだろう、えっと」
「魔力の澱みにより生まれる地下空間。中には魔物がひしめいている魔の巣窟……ですか?」
「え、やっぱり知ってるじゃないですか」
知っている。
そう、知ってしまっているのだ。
現代日本にはあるはずのない、あってもそれは空想の産物であるはずのダンジョンを。知識として、ではない。幾度も幾度も潜入し、攻略すらした異世界にしかないはずの「迷宮」。
久しく英語は使っていなかったので、ダンジョン=迷宮という構図がうまく頭に結び付かなかった。だが、知り得る情報を簡潔に伝えると、少女の言う「ダンジョン」は、やはりイコールで異世界で言う「迷宮」のようだった。
――迷宮についてはもう良い。
今、地を踏み、こうして息をしている空間は確かに存在する。「ある」ものをいくら「ない」と定義しようとしても、それが証明されることは永遠にない。
ただ、クラウディアは何重にも質問を重ねに重ねた。
この世界が、自分のいた世界か、限りなく類似した世界なのか、それだけを確かめるために。
結論は――
「ここはやはり、私のいた世界……」
くらり、眩暈がした。
異世界での旅で精神的に強くなったと自負していたクラウディアであるが、こればかりは気の持ちようだ。
しかし、初めて仲間を死なせた時、信頼していた人間に裏切られた時、魔族に堕ちかけた時――人生でこれ以上なく強く抱いた歴代の怒りや憎しみを、驚愕という刹那的感情が凌駕した。
「は、はは……ここが地球……嘘だろ……」
「あ、あの、大丈夫です、か?」
「っ……平気、です。それより出口は?」
しかし、流石に歴戦の聖女。ざわつく心の騒音を、冷や水をかけて静粛に律する。
少女はやや心配そうにクラウディアを見つめていたが、逆にクラウディアは少女が心配でならなかった。
「出口なら、階段を登ればあると思います」
「道筋はわかるのですね。ならば早く出るべきです。ここは危険すぎる」
「なっ……あ、あれは偶々Cランクのミノタウロスがいたからで、ここは本来Dランクの狩場です!私のランクなら遅れを取ることは――」
少女はクラウディアの進言に噛み付く。クラウディアには知る由もないが、少女はこう見えて「ダンジョン探索者」であることにプライド――あるいは、強い感情を抱いているようだった。
「……ブモ?」
「………………」
しかし、眉を吊り上げた少女の瞳に再度、牛と人間を混ぜ合わせた生物が二回目の登場を果たした。
完全に目が合う二人。
短音が少女の口から小さく漏れる。
「ひ」
「ひ?」
「ひぃいいいいいぃいっ!お助けぇええええっ!!」
その音の先は、悲鳴につながっていた。
「だから言ったじゃないですか。危ないから脱出した方が良い、と。アレがざっとこの階層に十体はいます。死にますよ」
「それを早く言ってよおおおおおお!!」
涙を浮かべクラウディアの腕に抱きついた少女は、口には出さぬもののとても情けなかった。
対するミノタウロスは戦意万全。理性の宿らぬ瞳には獣の闘争本能のみが揺らめく。
「ブモァァアァア!!」
「……いけない、確かに私としたことが説明を怠っていました」
「怠ってはいけないレベルの情報だよ!過失致死だよ!Cランクになんて勝ち目もないよ!」
Cランク。涙目で、というかほぼ泣いている少女が口にしたその言葉は、ミノタウロスの区分される脅威度のようなものだろう。
(等級を設定するまではまだしも、ここまで同じとは……)
「……Cランク、ですか。どうやら魔物を等級に分けているようですね」
威嚇するミノタウロス。首を垂れ、頭の角を、剣先を向けるようにして二人に突き出す。ずさ、ずさ、と足を踏み突進の体制を整えているが、クラウディアは天気を聞くような態度で少女に目を向ける。
「そ、そうですけどぉおっ!?」
「私の世界も、魔物は同じような形で脅威度が区分されていまして。翻訳の都合なのか、そちらもアルファベットを採用していました」
私の世界だとか、翻訳だとか。
この場面で頭がイカれたのか、と失礼な感想が少女の頭に現れては「やばい」「怖い」「死ぬ」という感情に洗い流され消えていく。もはや完全パニック状態だ。
「そして魔物を討伐する冒険者もまた、アルファベットで等級が分かれていました。A級にはA級を、B級にはB級を、と、適正ランクの魔物を狩り、無意味な人員配置をしないようにしていたわけです」
そうこうしている間に、足場を固めて体勢を整えたミノタウロスが、二人の細躯を貫き、へし折らんと迫る。その時速は計測器に通すならば凡そ30km。巨体とプレッシャーのせいで、今にもぶつかりそうと錯覚するほどだった。
「ちょっ、死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!またあの力で早くやっつけてよーーーっ!」
「では、私のランクは?それはですね――」
白は微笑む。
慈愛に満ちた聖母か。或いは、受胎を告げる大天使か。
しかし不思議と少女には、その笑みが凄惨なる殺意を滲ませた故に生まれた、残酷な死刑宣告に映った。
雪を固めたような白く、汚れを知らぬ指が突き出される。刑事ドラマなんかでよく見る、「犯人はあなただ」のポーズだった。
何をしているんだ、早くなんとかしてくれ。
一連の口上に痺れを切らせかけた少女だが、クラウディアの自信満々な横顔に口を挟めない。
そして遂に衝突するか、否か、と言ったところで――ミノタウロスの時が止まった。それはもう、ぴたり、と。
少女は世界が丸ごと停止したのか、ときょろきょろと辺りを見渡し――クラウディアが突きつけていた腕を下ろしたため、正常に世界が動いていると確認した。
しかし、ミノタウロスだけはいつまで経っても世界の時間から置いて行かれたままだった。
まるで時間など関係ない、別世界に行ってしまったように。
「……え?な、なにが起きたの?」
「さ、もう問題ありません。先を急ぎましょう」
「無理無理無理!だって、ミノタウロスが」
「もう無力化しましたよ?」
不可解な現象だが、クラウディアだけは物知りげに笑うと、少女を置いてゆっくりと歩みを進めた。
地面に蹄を刻みつけた荒々しい歩みとは真逆。靴底が優雅に規則的に、ダンジョンの硬い地面を踏み鳴らす。
未だ停止しているミノタウロスに向けて、危機感のかけらも感じさせず優雅に歩む彼女。しかし、危ない、止めなきゃといった感情も声も、抱くことすらなかった。
「では、行きましょうか」
振り向いたクラウディアは、正しく現代の見返り美人のようで。しゃらりと揺れた絹が如き白髪、雪色の肌に翡翠の瞳。雪――というよりは、純白が形を成した奇跡と言うべきか。
淡い桃色の唇が穏やかな笑みを作れば、幻想とも呼べる美を前に少女は目を奪われ、同性であるのに心臓が大きく跳ねた。
二人が去り、ようやく倒れたミノタウロス。その額には、蛇が張ったような紋様が刻まれていた。アルファベットで形容するのなら「S」だろうか。
そして間も無く、紋様からヒビが走る。そのヒビは無常にもミノタウロス全身を蝕んで、やがて光る粒子となってダンジョンに還ることとなった。
暫くして、魔石とドロップアイテム回収のため引き返すこととなった時、クラウディアの白き肌は若干、赤く染まっていたと言う。
拙作をご閲覧いただきありがとうございます。
投稿歴浅いのと機械に疎いため、UA?といった数値などはあまり理解できていませんが、評価などいただけたようでありがたき幸せです。
……あと二、三話で地上にいける、はず。
2026/1/6、ちょっと修正しました。