◆◆◆
お母さんの秘密の金庫を初めて見たのは、たしか、小学三年生の夏休みだったと思う。
外で遊ぶには暑すぎて、かといってゲーム機やスマホもまだ自由に使えなくて。
そんな暇を持て余した日に、お姉ちゃんを誘って何か面白いものはないかと家中をひっくり返していたら、それを偶然見つけてしまったのだ。
あの頃のあたしは怖いもの知らずだった。
絶対に中を見てやるぞ、と日がな一日、0から100まであるつまみと格闘したり、お姉ちゃんが止めるのも聞かずに、パパの仕事道具──先のとがったスパイキで無理やりこじ開けようとしたり。
そして最後には、もう無理だと諦めて無邪気にお母さんを頼った。
「おかあさーん。これ、中に何入ってるのー?」
その時のことは、今でも鮮明に覚えている。
普段は優しいお母さん。悪戯好きのあたしはともかく、今までお姉ちゃんに怒鳴ったことなんてなかったお母さんが、全身を震わせてあたしたちを叱りつけた。
当然、あたしは大号泣。パパは仕事で帰ってこないから、お姉ちゃんが懸命に慰めてくれたけど、もう二度と許してくれないんじゃないかと怖くなって夜じゅう泣き続けた。
朝になってようやく寝室にやって来たお母さんと、あたしたちは二つの約束をした。
一つ、もう絶対に金庫を開けようとしないこと。
一つ、金庫について他の誰にも絶対に話さないこと。
とはいえ子どもは子ども、あたしなんかはもう次の日にはケロリとしたもので、どうすればバレないかなくらいのことは思っていたのだが。
それ以降、家のどこを探そうと、終ぞあの金庫が見つかることはなかった。
月日は流れ、そんな金庫の存在などすっかり忘れてしまった中学二年生の夏──。
パパが死んで、あたしが病気になって、お姉ちゃんが家を出て。
たぶん、お母さんはひどく疲れていたのだと思う。
だから、あたしが家にいるにも関わらずあの金庫を出してしまったのだ。
……深夜、喉の渇きで目が覚めたあたしは、台所に向かう途中で和室にうっすらと明かりが点いているのに気がついた。
こんな遅い時間に何してるんだろう? 気怠い身体を引きずりながら近づき、ずいぶん昔にあたしが破った障子の隙間からこっそり中を覗き込むと、お母さんは、お父さんが死んでしまってから設えた家庭祭壇の前に膝をかがめていた。
なんだ。お祈りをしていたのか。
祈りの時間を邪魔してはいけないな、とその場を去ろうとした次の瞬間、あたしはお母さんの膝前に置かれているものを見てぎょっとした。
それは、あの金庫だった。誰にも……パパにさえ話してはいけない。秘密の金庫。
思わず唾を飲み込むあたし。
そんなことはつゆ知らず、お母さんはつまみを回し金庫を開けた。
中から出てきたのは――1枚の写真。
光の反射で、何が写っているのかよく見えない。なんとなく人物写真のような気もするが、誰であるかまでは分からない。
写真を捧げ持ち、お母さんがそっと目を閉じる。
何とかして写真を見ようと覗き込む角度を変えようとして――
あたしは、見てしまった。
祈りに耽るお母さんの顔を、見てしまった。
背筋が凍った。目を逸らすことさえできなかった。
そして、知ってしまったのだ。
――ああ、そうだったのか。
だから、祈るときには目を閉じなきゃいけないんだ。
だから、祈りは奥まった自分の部屋でしなきゃいけないんだ。
すべては祈る者の顔を世界から隠すために。
だって──
祈る者の顔は、必ず醜くなるのだから。
……今でも時折、あの出来事を思い出すことがある。
一体、お母さんは何を祈っていたのだろう。
あの写真には何が写っていたのだろう。
あれは、誰だったのだろう。
だけど、その答えにあたしは……
───
「人は、自分の欲や悪い考えに引かれて誘惑されるのです。その欲や悪い考えが悪へと駆り立て、ついには、神から永遠に引き離される死の刑罰へと追いやるのです。」
(『ヤコブの手紙』1章14節─15節 訳は『リビングバイブル』より)
───
◇◇◇
「おおがたバス~にのってます~。きっぷをじゅん~にわたしてねっ」
五月下旬。天気は晴れ。気温は20度くらいで、湿度はそこそこ。
そんな絶好のお散歩日和の午後に、車がびゅんびゅん行き交う大通りの歩道を、あたしは元気よく歌いながら歩いていた。
「おとなりへ、はいっ! おとなりへ、はいっ!」
この曲のいちばん好きなところは、なんといっても振り付けだ。
リズムに合わせ、手をぱんぱんと叩いてから、隣の人にチケットを渡すためにくるっと回る。
「おとなりへ……あっ」
ちょうど手を差し出したところで、タイミング良く……いや、悪く? すれ違った男の人と目が合ってしまった。
まるでお化けでも見たかのようなすごい形相をして、あたしからつつつーっと遠ざかる男の人。
ちょっとびっくりさせたのは悪かったけど、ただ歌ってるだけでそんな顔することなくない?
島に住んでいたとき、道路はあたしのカラオケルームも同然で、こんな反応を返されることはなかったから新鮮といえば新鮮だった。
でも、歌うのをやめる気なんてさらさらない。
楽しいときには明るく歌う。嬉しいときには元気に歌う。笑うように、歌う。
それがあたしのモットーで、今日みたいに特別な日ならなおさらだ。
「おおがたバス~にのってます~。いろんなとこ~が見えるのでっ」
そのまま、あたしは遠慮なく二番に突入して。
歌い終わったころには目的地となるマンションにたどり着いていた。
流石都会というような、大きくてお洒落(なんか屋根がすごい斜め!)なマンションに圧倒されつつエントランスへ。インターホンのパネルに413と部屋番号を打つと、すぐに通話が繋がった。
あたしは、精一杯の愛を込めてマイクに呼びかける。
「ただいまっ! おねーちゃん♡」
「あはは……お、おかえり……」
今日は特別な日――。そう。愛しのお姉ちゃんに会える日なのだ!
「ごめんね。少し散らかってるんだけど……」
「ぜんぜん気にしないでいーよ!」
お姉ちゃんの案内でリビングへと足を踏み入れたあたしは、思わず「おぉ……」と声をもらしてしまった。
すごい……大人な部屋だ、たぶん。
コンクリート打ち放し仕上げの壁、天井。天窓のあるロフトに、床が木のバルコニー。
置いてある家具もシンプルなものばかりで、なんというか……洗練されてるって感じ。
室内をきょろきょろと見回しているうちに、ふと、机の上の甘い香りのする箱に気がついた。
「お姉ちゃん。これは?」
「えーっと、おやつにどうかなと思ってドーナツを買って来たんだけど……好きだったよね?」
「……うんっ! 食べる!」
ドーナツが好きなのはもちろんだけど、それ以上にお姉ちゃんがあたしの“好き”を覚えていてくれたことが……感激!
「飲みものはどうしようか?」
「お姉ちゃんはいつも何飲んでるの?」
「私は……コーヒーかな」
「じゃああたしもそれで!」
「分かった。ちょっと待っててね」
そう言って、リビングに併設されたキッチンへと向かうお姉ちゃん。
コーヒーも手軽なインスタントじゃなくて、ちゃんとペーパードリップで淹れている。コーヒーミルで豆を挽いて、ちゃんと蒸らして、円を描くようにお湯を何回かに分けて注いで……。その一連の動作はいかにも自然で、あの頃からの時間の隔たりを感じずにはいられなかった。
……コーヒーを飲んでるところなんて、見たことなかったのにな。
そうして待つこと5分、お盆にカップ二つとシュガーポットを載せてお姉ちゃんが帰ってくる。
「お待たせ。砂糖は?」
「いるいるー」
あたしはスプーンをとって、砂糖をどばどばとカップの中に放り込む。溶けきらない砂糖がカップの底にたまるくらいがあたしの適量だ。
あまーいドーナツを食べ、あまーいコーヒーを飲んで。うーん大満足。
二個目に手を伸ばそうと箱を覗きこんで……あれ? 全然減ってない。
「お姉ちゃんは食べないの?」
「私は……いいよ。お昼ごはん遅かったし、初華のために買ってきたから」
一緒に食べたかったが、お腹が減ってないなら仕方ないか。
全部で三個だけだし一人でも食べられるだろう、とあたしは二個目に手を伸ばす。
そうしてしばらくの間、美味しいドーナツを堪能して。
三個目を食べ終えてあたしが一息ついたタイミングで、向かいの椅子に座っていたお姉ちゃんがおずおずと口を開いた。
「それで……その、今日は」
「うん。東京に引っ越してきたから、早速来ちゃった」
「引っ越し……たんだね」
「え? 年明けくらいには言ってたよね? 年内に引っ越しするかもって。あたし中3だし、早いほうがいいでしょ」
「それは……そうだけど……」
突然引っ越すのはお姉ちゃんの精神衛生上よくないかなと思って事前に伝えてはいたんだけど、まさかこんなに早いとは思ってなかったんだろう。その表情はひどくひきつっていた。
家を出たのに、今度は家の方が追いかけてきた形で、気持ちは分かるんだけどね。
「どうして……なの?」
呻くように発されたお姉ちゃんの問いに、あたしはあっけらかんと答える。
「どうしてって……島に居場所がなくなったからだよ」
「え……?」
「だってさ、お母さんのこと考えてもみなよ。ただでさえ家庭環境が複雑なのに、娘が家出して妹の名前でアイドルやってるんだよ? 周りからの視線はキツいよねぇ~」
「そんな……私、家出だなんて誰にも」
「そりゃあ言ってないだろうけど、狭い世界だからさぁ。フェリーのスタッフだって島の人だし。お姉ちゃんが夜遅くの最終便に乗って島を出て行ったなんて、次の日には赤ちゃんでも知ってるよ」
暗くなりすぎないよう冗談めかして話してみたけど、そんなあたしの想いとは裏腹に、お姉ちゃんの顔からはみるみる血の気が引いていった。
……お姉ちゃんが家を出たのって、お母さんが
とはいえ、お姉ちゃんも別にお母さんを傷つけたかったわけじゃないんだろう。
自分の行動が原因でそうなってしまった以上、責任を感じたとしても不思議ではない。
午後の日差しが斜めに入る明るい部屋に、重苦しい沈黙が影のように落ちる。
やがてぽつりと落とされた声は、かすれて、震えていた。
「ごめん……なさい」
何かを堪えるようにぎゅっと下唇を噛むお姉ちゃん。
あたしが何か言おうとするよりも早く、痛々しい歯形のついた唇が「でも」と続けた。
「帰る気は……ないから」
固く握られた拳が、拒絶の強さを何よりも物語っていた。
「そっか」
お姉ちゃんは、まだお母さんを許してないんだね。
……いや、違うか。
お姉ちゃんは、まだ
あたし的には、二人にはさっさと仲直りしてもらって、また家族みんなで仲良く暮らしたいところなんだけど、提案する前から断られてしまった。
まぁ、初めからそんなに上手くはいかないよね。
ちょっとだけ、残念。
ただ……
ここまでは、ぜーんぶ予想通り。
「安心して。あたしも、無理にお姉ちゃんを連れ戻そうなんて考えてないよ」
あたしは味方なんだからねとアピールするように両手を広げてみせると、お姉ちゃんが長いまつ毛を上げて、ちら、あたしを見た。
「……ほんとに?」
「ほんとだってば」
「……お母さんも、納得してるの?」
「あたしが説得したから大丈夫だよ! も~っ、妹の言うことくらい信じて!」
ぷくーっと頬を膨らませるあたしを見て、くすくすと笑うお姉ちゃん。
一つ目の難所を越えて、だいぶリラックスしてきた感じだ。
となると……そろそろ潮時かな。
「ただ……ひとつだけ、条件があるの」
断られることなんて分かってたよ。
でも、こっちが譲歩したんだし、お姉ちゃんも譲歩してくれるよね?
「監視役として、あたし、ここに住むから」
そう。本命は――これ。
予想外の要求だったのか、ぽかんと口を開けて固まるお姉ちゃん。
「引っ越したのが西の方でね。こっちの方が学校まで近いし、ちょうどいいかなって」
「で、でも……」
もごもご反論しようとしたお姉ちゃんを制するように、間髪入れず畳みかける。
「お母さんを説得できたのも、あたしが責任もって見守るって言ったからだよ?」
お母さん、というワードに肩がぴくんと反応したのが見えた。
わざと一拍おいて、お姉ちゃんに考える時間をあげてみる。
ねぇ、いいの? よく考えてよ。お姉ちゃんのことが心配で、お母さん来ちゃうかもよ?
それとも――
「あたしと住むのが、そんなにイヤ?」
「ち、ちがうよ!」
捨て猫みたいな声を出すと、お姉ちゃんが慌てたようにわたわたと手を振った。
嬉しい、嬉しすぎる。
曇り空から一転、ぱあっと晴れ渡るあたしの心。
「じゃあじゃあ、一緒に住んでいいよね!?」
勢いよく身を乗り出すあたしに、お姉ちゃんはしばし口ごもってから――
「……うん。いいよ」
仕方ないなぁという笑みを浮かべ、こくんと頷いてくれた。
「やったぁ!」
半ば強引に押し切る形にはなってしまったが、何とか了承してもらえて一安心。
やっぱり、お姉ちゃんはすごく優しい。昔からずっとそうだった。
あたしのわがままを何でも聞いてくれて。あたしの全部を褒めてくれて……。
だけど、あたしだって分かってる。
お姉ちゃんが同居を許してくれたのは、あんなに焦って否定したのは、純粋な優しさだけじゃないって。
……そうだよね。あたしが怖いよね。
だってお姉ちゃんは、あたしに大きな大きな借りがあるんだから。
さっきからあたしの一挙手一投足に怯えているのも、大方その件だろう。
お姉ちゃんをからかうのは好きだけれど、別にイジメたいわけじゃない。
しょうがない。助け船を出してあげるか。
「お姉ちゃんも、あたしにお願いがあったら何でも言ってね。これからは一緒に住むんだから」
さぁ、今度はそっちが有利だよ。
あたしの要求を受け入れたぶん、さっきよりかは言い出しやすいよね?
お姉ちゃんは、あたしの様子を窺いながら、まるで薄氷を踏むようにおそるおそる切り出した。
「その……名前の、ことなんだけど」
「うん、お姉ちゃんと約束したよね。家を出たときに」
そう。お姉ちゃんは今、本名の初音ではなく、初華という名前を使って東京で過ごしている。流石に身分証や住民票をごまかすことは難しかったから、学校こそ本名で通っているらしいが、それ以外、特に芸能関係については初華で通しているようだ。
「それでね……。今のまま、使わせてもらえないかなって」
「うーん……」
正直なところ、名前を使われること自体は別に問題ない。
お姉ちゃんが有名になってからは初対面の人に驚かれたりもするけど、それも「お姉ちゃんがあたしを好きすぎてあたしの名前を芸名に使ってるんですよ~」と説明しちゃえばいいし。
じゃあなんで、あたしがこうして渋ってみせてるかといえば、どうしてあたしの名前で活動したいのか、その理由にいまいちピンと来ていないからだ。
そもそも、島を出たときのお姉ちゃんの言い分はこうだった。
初音という名前で東京に出てアイドルとして活動すると、それをよく思わない豊川定治に妨害される可能性がある。でも、初華という名前を使えば、妹の方だと勘違いして見過ごしてくれるかもしれない──。
一見、筋が通っているようだけど、聞いた当初からあたしはだいぶ怪しんでいた。
たしかに、初音という名前を使うより、初華と名乗った方がいくらかカモフラージュになる可能性はある。
だが、豊川定治はそこまでバカじゃない。絶対に身辺調査をするはずだし、そうなったらすぐにバレる。どんな偽名を使ったってその結末は変わらない。というか、現にそうなっているはずだ。sumimiの初華は初音なのだと、もう知っているだろう。
それくらいのことは、当然、お姉ちゃんだって分かっているはずで──。
だから、そこには恐らく、あたしには明かしてない真の狙いがあるのだ。
……あたしの名前を使うことに、どんなメリットがあるのだろう。
ずっと考えているものの、ぜんぜん思いつかない。
あたしに成り代わりたかった? だけど、あたしの名前を使ったところで何が変わる? 島にいる人すらごまかせてないわけだし……だったら狙いは島の外? 島の外であたしにだけ関係のあるものなんてあったっけ。
あるいは、そういう現実的な枠組みの話ではないのかもしれない。自分のことが嫌いで、別の人を演じたい……みたいな。心理的な話になってくると、それこそ可能性は無限で、単純な論理が通用しないケースだってある。
ぐるぐると考えた末、お決まりの袋小路に行きついたあたしは、お姉ちゃんにバレないよう小さくため息をついた。
答えを出すには、あまりにも情報が少なすぎる。
判断材料がない以上、今は泳がせておくしかない……かな。
「いいよ、使っても」
「ごめん」
そう言って、申し訳なさそうな顔で頭を下げるお姉ちゃん。
……だけど、見逃さなかったよ。
あたしが許可したとき、一瞬、すごくほっとしたでしょ。
やっぱりお姉ちゃんにとって“初華”であることは重要なんだ。
じゃなきゃ、あんな顔なんてしないよね? ね? ね?
奥歯をぎり、と噛みしめる。
ムカつく。ムカつく。ムカつく。
あたしの知らないお姉ちゃんがいるのが、ムカつく。
もういっそ全部バラしてやろうか。
そうすれば、また前みたいに家族みんなで仲良く暮らせるかなぁ?
……ダメだ。
心の奥底からせりあがってきた邪な思考を、あたしはかぶりを振って何とか打ち消した。
今ここでそんなことをしたってなんの意味もない。
せっかくお姉ちゃんと一緒に暮らせるようになったのに、また離れ離れになってしまう。
深呼吸をひとつ。
息を吐いて、吸って。精神を落ち着かせる。
うん。もう大丈夫かな。
思考がクリアになったおかげか「そういえば」とあたしはある問題に気がついた。
「ていうか、あたしの名前どうするの? お姉ちゃんの知り合いと会うとき、普通に自己紹介したら被っちゃうよね?」
「うん。だから、初華には別の名前を使ってほしくて……」
「じゃあ、初音って名乗っちゃおうかなあ」
「だ、ダメだよ! それだと、学校の友達からヘンに思われちゃうし……」
そっか。学校では初音なんだっけ。
名前を交換できれば面白いかなと思ったんだけど、めんどくさいなぁ。
「えー。じゃあお姉ちゃん考えてよ」
「えっと……それなら……」
「全部ダメなら、音って字だけちょうだーい」
リクエストをぽいと投げてしばらく待つこと数十秒。お姉ちゃんの顔が上がった。どうやら完成したみたい。
「私の“音”と、初華は歌が好きだった……よね? だから“歌”を組み合わせて……元の響きに近いような感じで、“おとか”はどうかな?」
音歌、ねぇ……。
試しに、何度も口の中で転がしてみる。
特に問題はなさそうだ。
「いいんじゃない? けってーい」
寝るところをどうするかとか、生活の役割分担とか、決めなければならないことはまだまだあるけど、とりあえずはこんなもんだろう。
一段落した気配を感じ取ってか、お姉ちゃんも机の上の食器を片付けはじめる。
「お疲れ、初華。詳しいことはまた後で連絡くれればいいから。……ちなみに、いつから住む予定なの?」
「え? 今日からだけど」
お姉ちゃんの手が、ぴと、と止まった。
……いつからかってのを伏せてたのは、ちょっとずるかったかもな。
「で、でも、まだ何にも準備できてないよ?」
「だいじょーぶ。一泊できるくらいの装備は持ってきたし、明日の……昼くらいかな? 段ボールがどしどし来るから」
「明日のお昼?」と、そこでお姉ちゃんが少し眉をひそめる。
「ってことは……私が断らないって、初めから分かってたんだ」
「えへ、ごめんね」
あたしは、ウインクと共に舌をぴょこと出して謝る。
「もう……」と不満も漏らしながらも、お姉ちゃんの言葉に棘はなかった。
断らないのも、こうして許してくれるのも、もちろんあたしの予想通り。
ただ、あたしだって百パーセントの完璧な自信があったわけじゃない。
お姉ちゃんが家を出てからもちょこちょこやり取りはしてたけど、こうして会って話すのは久々なわけで。
あたしが思い描いているお姉ちゃんのイメージと大きくズレている可能性だってあった。
だからこそ、こうしてあたしの知るお姉ちゃんのままなのが、何より嬉しい。
「……そうだ! このあと一緒に買い物に行こうよ。まだ足りないものもあるし」
勢い任せにうきうきで提案すると、しかし返ってきたのは微妙な笑み。
「え? あー……このあとはちょっと予定があって」
「お仕事?」
「そうじゃないんだけど……」
「あ、ぜんぜん気にしなくていいからね。一人で買ってくればいいし。でも、あたしまだ東京の電車に慣れてなくてさ~。どこ行くの? もしかしてタクシー? 途中まで一緒に行こうよ!」
「う、うん……」
なんだろう。妙に歯切れが悪いな。
さっきの交渉ターンと違って、そんなに困らせるようなことは言ってないつもりだけど。
まだ駆け引きの感覚が残っちゃってるのかな。
どうしようとばかりに視線をそらしていたお姉ちゃんが、何かに気がついたのか「あ」と小さくこぼしてあたしを見た。
「そうだ! 初華にプラネタリウムのチケットあげるよ」
「……? どうしたの急に」
「実は、今日のチケットを予約してたんだけど、予定と被っちゃって……。キャンセルできない仕様だから、どうしようかなって思ってたんだ」
「まぁ、捨てちゃうくらいならもらってもいいけど……」
「私も入口まで案内するし。それに、プラネタリウムが終わるころには予定も終わるから、その後に買い物もできると思う」
「それなら……行こうかな」
あたしが返事をすると、お姉ちゃんの表情が眩しいくらいに明るんだ。
今日一番の反応に、あたしのお姉ちゃんセンサーがぴこぴこと警告を発する。
……明らかにおかしい。
外出の準備のためにぱたぱたと廊下の奥へ遠のくお姉ちゃんの背中を、あたしはじとーっと睨んだ。
◇◇◇
「大変長らくお待たせいたしました。本日は当プラネタリウムへお越しいただき、誠にありがとうございます」
アナウンスが流れるとともに、頭上に表示されていた天ノ川がぱっと消えた。カップルの雑談が止まり、お母さんが子供に静かにのジェスチャーをする。席を立っていた人がそろそろと戻る。
静寂に包まれたドーム内に滔々と流れるのは上映前の注意事項だ。
出口の説明、明かりを持っている係員の場所、非常時の対応、迷惑行為……。
「最後に、上映中はたいへん暗くなりますので、危険防止のため特にご用がなければ──」
そっか、ここから足元のランプも消えてもっと暗くなるのか。
じゃあもう……いいかな。
まだ通路が見分けられるうちに席を立って緑色のランプを目印に出口へ向かう。
ちょっともったいない気はするけど、元から星に興味なんてないし、今回はそれ以上に大事なミッションがあるから仕方ないよね。
「あー、暗かったぁー」
外に出て、凝り固まった身体をほぐすようにうーんと伸びをする。
空はもうすっかり黄ばみ始めていて、本物の夜の足音がすぐそこまで迫っていた。それでもなお、暗さに慣れた眼に輝く太陽は痛々しいほど眩しくて、ぱちぱちと瞬きをする。
さて、お姉ちゃんは……と。
アプリを起動し、スマホの画面に目を落とす。
池袋周辺の地図に表示されているのはイヤホンの位置情報。イヤホンケースのマークが、数秒おきの更新のたびに徐々にあたしから遠ざかって駅の方面に動いていた。
もちろんイヤホンはあたしのもの。
道中、お姉ちゃんのバッグにこっそり入れておいたのだ。GPSなんかだとバレたときの言い訳が大変だけど、イヤホンケースならどうとでも誤魔化すことができる。
こまめに位置情報を確認しながら、あたしもイヤホンを追うように歩き始めた。
……正直、さっきのお姉ちゃんの提案はかなり胡散臭かった。
ただ善意でプラネタリウムのチケットを渡したというよりも、まるであたしをプラネタリウムに押し込めたかったみたいな……。流石に、プラネタリウムを予約していたところからぜんぶ嘘だとは思わないけど、少なくともお姉ちゃんの中で何らかの予定変更が行われたのは確実だ。
そこまでしてあたしに隠したい予定って、なに?
イヤホンマークが、駅に直結している百貨店が入っているビルの中で止まる。
位置精度はかなりいいんだけど、階層が分からないのが難点だ。都心のビルだと階層ごとに探し回る必要があって、かなり時間がかかる。
ただ今回に関してだけは何も問題なかった。
あたしが探しているのはイヤホンじゃなくてお姉ちゃん。
お姉ちゃんの行きそうなところなら、大体の想像はつく。
そもそも、前提からしておかしいのだ。
購入ページを見せてもらったけど、チケット購入日は3日前のお昼。そんな短期間で急に個人的な予定が被ることなんてある? 普通は……ない。百貨店のイベントに参加したいとか、限定品を購入したいとかはあるかもしれないけど、こんな大手でやるイベントは、もっと前から告知をするはず。もしも告知に気づかないほどの商品なんだったら、プラネタリウムより優先することはないはずだ。
となると、予定が被った理由は突発的な外部からの干渉。
つまり、お姉ちゃん以外の人の都合で被ったケースしか考えられない。
これから、誰かに会うんでしょ? 友達? 島に友達なんていなかったのに。東京に来てからできたんだね。プラネタリウムより優先する友達が。
検索してみると、このビルには有名な屋上庭園があるらしい。
少し会うだけならわざわざ喫茶店に入ることもないだろうし……ここかな。
エレベーターでばったり、なんてことにならないよう殺風景な階段から屋上に上がる。
扉を開ければそこは別世界……とまではいかないが、都会の喧騒を忘れさせてくれるような広々とした静かな空間だった。
スマホをしまって、周囲を警戒しながら慎重に足を進める。
ベンチとイスが立ち並ぶ飲食スペースを抜け、モネの絵画を模したという睡蓮の庭の橋を見回して──いた、お姉ちゃんだ。
そして、その隣にもう一人。
あたしの目が水色のロングヘアーを捉える。リボンで結ばれたツーサイドアップとどこか気品を感じるその後ろ姿に既視感があって……。
息がひゅっと止まった。
古い家の妙に固いスイッチをバチンと切り替えたときみたいに、幼いころの光景がフラッシュバックする。
……さきちゃんだ。
昔、ひと夏だけ一緒に遊んだ女の子。ずいぶん髪が長くなっているけど間違いない。
記憶が、ジグソーパズルみたいに外側からどんどん埋まっていく。
豊川という言葉はあたしたちの家では禁句で、あれ以来連絡を取ることもなくすっかり存在を忘れていたけど、どうやら想像以上に記憶にこびりついていたらしい。
まぁ、あの頃のあたしにとって、憧れの東京からやって来た年が近い女の子っていうのは、それだけで強烈だったしね。
不意に見えた、口を抑えて笑う横顔でさらに確信が深まる。
……でも、おかしいよ。
お姉ちゃんとさきちゃんは、知り合いじゃないでしょ? お母さんに会うのを禁止されてたはずでしょ?
もしかして、東京に来てから知り合ったのかな……? ううん、そんなはずない。そんな偶然起こりえるはずが──。
そこでやっと気がついた。
そうだ。
あそこにいるのはあたしなんだ。初華なんだ。
東京でアイドルをやっているお姉ちゃんに、何らかの方法でさきちゃんが連絡する。そして、あたしの名前を借りているお姉ちゃんが、あたしとして接する。
これは、あり得る。さきちゃんから連絡が来て、無視することもできなくて、みたいな。
でもさ──
橋の欄干に寄りかかりながら、空に向かって目を細めるお姉ちゃん。
それは今までに見たことがないくらい穏やかで、満ち足りた表情で。
あたしに向けてくれる優しさとも違う。もっと対等で、もっと心の奥底から湧き上がるような……幸福な顔。
どくん、と心臓が悲鳴をあげる。
このままじゃ、ダメだ。
このままじゃ、さきちゃんにお姉ちゃんを取られちゃう。
沸き上がる感情を仮面に隠して、植え込みの影から飛び出す。足音を響かせ、二人の世界に侵入する。
──お姉ちゃんはあたしのものだ!
プロフィール
名前:三角初華(音歌)
学年:中学3年生
誕生日:3月15日
好きなもの:歌うこと(すてきなうたごえ)・昆虫・お金
好きなうた:『ドレミのうた』