根本の設定や話の筋をひっくり返すということはしないつもりなのですが、この話以降も適宜修正を加えるかもしれません。
大きな修正の際には前書き等で触れますので、よろしくお願いいたします。
見事に植栽された緑鮮やかな木々や色とりどりの花に囲まれた、屋上庭園の橋の上。
人気のなさもあいまってか、まるで世界から切り取られた聖域のようになっているその空間で、お姉ちゃんとさきちゃんは楽しげに笑い合っていた。
だけど、そんなのあたしが許すわけない。
木の床をわざとらしくこんこんと踏み鳴らしながら、さきちゃんの死角からゆっくりと近づいてゆく。
あたしと目があった瞬間、お姉ちゃんの表情が変わった。太陽みたいにきらきらと輝いていた笑顔が、皆既日食みたいに急速に陰る。
「どうしましたの? 初華」
お姉ちゃんの様子を不審に思ったさきちゃんが上半身を捻ってこちらを見た。
ひらひらと小さく手を振れば、まんまるに見開かれる琥珀色。
「うい……か?」
驚愕とともに零れ落ちたのは、あたしの名前だった。
想定通りのまさにテンプレな反応で、いつもなら、初華だけど初華じゃないんです~とお決まりの文句から始めるんだけど……。
ちら、とお姉ちゃんを見る。
青ざめて、震えて、懇願するみたいな顔。
……はいはい。分かってるってば。
「どうも~。お姉ちゃんがいつもお世話になってま~す。妹の“音歌”です」
「妹さん……? はじめまして、豊川祥子と申します」
突然の自己紹介に驚きつつも、さきちゃんは、育ちの良さがにじみ出るような丁寧なお辞儀を返してくれた。
「先ほどは失礼いたしました。その……初華によく似ていて、驚いてしまいましたの」
「ううん、気にしないでよ~。あたしとしても、大好きなお姉ちゃんに似てるって言われて嬉しいしさ」
「な、なるほど……」
「でもほら、よく見ると目元とか違うでしょ」
ぐいと顔を近づける。急な接近にさきちゃんは少し面食らって上体を引いたけど、すぐに気を取り直してまじまじとあたしを見つめた。
視線があたしとお姉ちゃんの間を忙しなく行き来する。
「……たしかに。どちらかといえば、初華のほうが若干タレ目のような……」
「あったり~」
そう。あたしとお姉ちゃんは、たしかにかなり似てる。髪型もお揃いで背格好も同じくらいだから、遠目に見ればほとんど同一人物だ。
でも、あくまで似ているだけ。双子じゃない。細かなところに違いがあって、よくよく見比べれば判別は容易なのだ。双子でよくあるような、どっちがどっちだか分からない、というようなレベルではない。
子供のころはもう少し似てたんだけどね。いまやお姉ちゃんはアイドルだし、オーラとか体型とかはもう誤魔化しようがない。
間違い探しを終えて納得した様子のさきちゃんは「それにしても」とお姉ちゃんに向き直った。
「妹さんがいるなんて初耳ですわよ、初華。教えてくれてもよかったのに」
「えっ? ……その、ごめん」
「いえ。謝るようなことでは……」
ただの軽口を深刻に受け止められて、困惑するさきちゃん。
一応、“音歌”と名乗ったし、嘘に付き合うアピールはしたんだけど……まだショックから立ち直れてないっぽい。
とはいえ、そもそも昔さきちゃんに会ってたのはあたしなわけだし、今は名前を借りている関係上あたしの話はしにくいだろうし、仕方ない部分ではある。
ここはひとつ、あたしが助けてあげよう。
「それはね、教えたくても教えられなかったんだよ」
「……どういうことですの?」
「実はあたし、小さいころ病気がちでさ」
息をするように、真実に嘘を混ぜ込んでゆく。
「あたしのことを話すと、自然と病気のことも話す必要が出てくるでしょ? でも、お母さん的には、そういう話を家の外に広げないでほしくないみたいで。だからあたしの話をしないように口止めされてたんだよね?」
「う、うん」
あたしのアイコンタクトを受けて、同意するように頷くお姉ちゃん。
あたしが病気がちだったのは真実。だけど時期が違う。あの頃はまだ元気だった。
さきちゃんに会うときに家族の話をするなとお母さんから釘を刺されたのも事実。だけど人物が違う。お母さんは、あたしに向けてお姉ちゃんの話をするなと言ったのだ。
初めて言われたのは……いつだっけ。
島にやって来たさきちゃんと偶然知り合って遊んで。今度はお姉ちゃんも連れて行こうと誘って、断られて、初華ももう行っちゃダメなんて妙なことを言われて──
そうだ。それで、さきちゃんのことをお母さんに話したときに言われたんだ。
もし、初華がその女の子と会うのなら、決して姉の初音のことを話してはいけないと。お互いが不幸になるだけだと。
思い返せば、お姉ちゃんがパパの子じゃないということを知ったのもあの頃だったな。
……でも、おかしいよね。
本当にお姉ちゃんとさきちゃんを会わせたくないのなら、可能性を極限まで排除したいのなら、あたしがさきちゃんに会うのを禁止すればよかったのに。なんでお母さんは、会うのは黙認するけど話すな、なんて中途半端なことを言ったのか。
当時は分からなかったけど、今なら分かるよ。
ね? お母さん。
「申し訳ありません。そのような事情があったとは知らずに……」
「あ、今は治ったからだいじょーぶ」
神妙な顔をするさきちゃんに、あたしはむんと両手をあげて健康をアピールした。
少なくとも日常生活を送るうえではもう何の問題もない。だからこそ、こうして上京してきたわけだしね。
「それは何よりですわ」と表情を和らげるさきちゃんの隣で、所在なさげにもじもじしていたお姉ちゃんが、あたしとさきちゃんの間に割り込むように前に出た。
「……どうしてここにいるの?」
「あー。プラネタリウム見てたら首が痛くなっちゃってさ。早めに切り上げて、この後の買い物の下見でもしておこうかなーって」
「それなら、屋上には──」
「休憩だよ休憩。暗くてせま~いところいると、やっぱこういうところに来たくなるっていうかさー」
訝し気に目を細めるお姉ちゃん。
これは早めにイヤホンを回収した方がいいかもな。まさかあたしの目の前でカバンをひっくり返すとは思えないし、家に帰ってからでも間に合いそうだけど。
「もしかして……初華、あなた予定がありましたの?」
「ち、違うよ! 予定っていうか……」
「さっき決めたんだよ。今日からあたしがお姉ちゃんの家に居候することになってさ。その買い出し!」
「なるほど」と、さきちゃんが頷く。
「初華が集合時間を早めた理由が分かりましたわ」
「へーえ」
やっぱりね。裏でなんかしてたんだ。
「ごめんね。さきちゃん」
「いえ。わたくしもこの後に予定があるので、こちらとしても助かりましたわ」
ふーん。だんだん分かってきたぞ。
正確な日時は分からないけど、おそらく、プラネタリウムを予約した後にさきちゃんからの誘いがあって、お姉ちゃんは上映が終わったあたりの時刻を指定したんだろう。
でも、今日になって問題が発生する。あたしが一緒に買い物に行きたいと言い出したことだ。
途中まで一緒に行くとなれば、あたしはプラネタリウムまでついていくし、そうしたら二人で見ようと言い出すのは必至。プラネタリウムを見た後に、さきちゃんとばったり、なんてこともあり得る。
もちろん、全部の予定を嘘で塗り固めるとか、あたしの同行を拒絶するって選択肢もあったんだろうけど、名前を借りている以上、あたしの反感はなるべく買いたくないと考えたんだろう。
だからお姉ちゃんは、プラネタリウムのチケットをあたしに渡して予定を繰り上げることで、あたしを隔離した状態でさきちゃんと会うことにしたわけだ。
あたしが偽物の星空を見上げている間に、こっそり逢瀬を楽しむつもりだったんだね。
……もう。悪い子だなぁ、お姉ちゃんは。
「……では、それぞれ予定もあるということで、早速本題に入らせていただきます」
顔を引き締めたさきちゃんが、凛とした声で告げる。
「あ、あたしも聞いていいやつ、これ?」
「まだ正式に発足しているわけではないですし……同居しているご家族の方で、口外しないと約束していただけるのであれば、問題ありません」
「約束するする!」
あたしが軽快に答えると、さきちゃんは「よろしくお願いいたします」と短く微笑んでから、改めてお姉ちゃんのほうを向いた。
「初華。わたくしとバンドを組んでいただけませんか?」
「……えっ、バンド!?」
「ええ。それもプロとしてやっていく」
予想外の提案だったのか、僅かに目を見開くお姉ちゃん。
当然といえば当然だ。
だって、お姉ちゃんはもうすでにアイドルとして活動していて、バンド活動をやる余裕なんかない。事務所にだって許可を取らないといけないだろうし、一定の知名度があるんだから、わざわざ新しいプロジェクトに参加する必要だってない。
それに、そもそもお姉ちゃんはさきちゃんと会っちゃいけな──
「……分かった。いいよ」
……は?
ありえないはずの即断に、思考が一瞬だけ真っ白になった。
「本当に? まだ、何も……」
「さきちゃんの頼みだもん」
晴れ晴れとした笑みで、あっさり了承してしまうお姉ちゃんの姿に──
「ちょ、ちょっと待ってよ」
あたしはすんでのところで我に返った。
「そんな時間なんてあるの? sumimiはどうするの? スケジュールの調整は? 事務所の許可は?」
「そ、それは……これから、何とかするから」
やっぱり何も考えてなかったのか。
島を出たときもそうだったけど、お姉ちゃんって、ちょっと思い切りが良すぎるというか、無計画なところがあるんだよね。
「妹さんの懸念については重々承知しております。ですが、わたくしにも考えがありましてよ」
……さすがに、こっちは無策というわけではないらしい。
「まず事務所の件ですが、わたくしたちのバンドもsumimiと同じ事務所に所属するつもりで、すでに社長に打診済みです。スケジュールや契約に関しての問題は……もちろん、初華には負担をかけてしまうけれど……解決可能ですわ」
そこまで言ってから、さきちゃんはスマホを取り出してあたしたちに見せる。
画面に映っているのは……仮面?
「次に、既存の活動への影響ですが……こちらを。わたくしたちは、仮面バンド──正体不明のアーティストとして世に出ます。これなら当面の間、不要な騒ぎを招くことはありません。いずれ仮面を外すときが来るにしても、それはリスクではなく、両者にとって最大の“演出”となる、最高のタイミングを選んでみせますわ」
……なるほどね。
プロとしてやっていくって言っても、オーディションを受けたりインディーズレーベルに所属したりとか、学生ができる範囲での活動だと勝手に思い込んでたけど、流石お嬢様と言ったところか。
豊川の財力? コネ? まぁ、そのどちらもなんだろう。
その割には服装とバッグがくたびれてるのが気になるんだけど……お金があっても節約したい気持ちは分かるし、さきちゃんもその類なのかもしれない。
ちら、と琥珀色の瞳がこちらを向く。
これでよろしいですか? とでも言うようなまなざし。
……まずい。お姉ちゃんにバンドを断らせるための理由がない。
いっそのこと家族のことを──いや、ダメだ。
切り札をこんなところで使うわけにはいかない。完全にお手上げだ。
「ま、別にあたしが決めることじゃないしね。お姉ちゃんが考えなしに突っ込みそうだから忠告しただけで、最終的にはお姉ちゃんが決めることだから」
ため息を吐き捨てて当事者にパスすると、お姉ちゃんは心の中で吟味するように目を閉じて──今度はしっかりと正面からさきちゃんを見据えた。
「……バンド、やろう。私も、さきちゃんとバンドをやりたい」
「初華……」
まるで運命の相手と再会したみたいに、見つめ合う二人──。
大体、さきちゃんもさきちゃんだよね。
時間が経っているとはいえ、あたしとお姉ちゃんってだいぶ性格違うと思うんだけど、気づかなかったのかな。
「……終わった?」
冷水を浴びせるように二人に言い放つ。
二人だけの世界に耽っていたことを自覚したのか、さきちゃんはこほんと咳払いをしてから背筋を立てた。
「詳細は追って連絡いたしますわ。今日はこれにて。それでは、ごきげんよう。……音歌さんも」
「まったね~」
そのまま、すいと踵を返して橋を渡り、遠ざかってゆくさきちゃん。
「さてと」
あたしが声をあげると、お姉ちゃんはびくっと肩を震わせこちらを見上げた。
「初華、あのね……」
「なに? ほら、はやく買い物に行こうよ。もう夕方だし、帰るの遅くなっちゃうよ?」
「う、うん……」
ぴょんぴょんと跳びはねるように出口へと歩き出す。一歩、二歩。背後からお姉ちゃんの足音が、罪人のように重苦しくついてくるのが分かる。
ちょうどエレベーターの近くまでやってきたところで──あたしは唐突に足を止めた。
「あ、そうだ」
「……っ!?」
立ち止まっただけで、背後で息を呑む気配がする。過剰反応だなぁ。そんなに怯えなくても、取って食ったりしないのに。
あたしはくるりと振り返って、強張ったお姉ちゃんの顔を覗き込んだ。
「うっそ~。やっぱ、甘いものが食べたくなってきた! カフェに行こ? ね?」
ごめんねお姉ちゃん。あたし今、甘いものが無性に食べたい気分かも♡
◇◇◇
「たっだいま~」
買ってきたばかりの日用品とお菓子が詰まったビニール袋をリビングにどさりと置いて、狙うは中央に鎮座するクリーム色のソファー。
──よーい、どん!
助走をつけて勢いよくダイブすれば、ぼふんっと重く低い音がして、柔らかいソファーが私の身体を優しく受け止めた。
……うわ、なにこれ。
前の家のソファーとは反発係数がまるきり違う。身体が勝手に溶けていきそうな柔らかさだ。これが東京のトップアイドルの家具ですか。そうですか。
試しにふがふがと顔をうずめてみれば──お姉ちゃんの匂いがするような……しないような……。うん、悪くない。
「危ないよ、初華」
「ふぉめんふぉめん。でもふぁ……ふぁふがに、ほーひょーのでふぁーとはふほいへぇ」
「えぇと、そうだね」
「あふぁひ、ふぁんなふぉこはひめへいっはよぉ」
「う、うん……」
人の密度。駅の規模。コンビニの数(なんで同じコンビニが近くにあるの!?)。夜になってもちっとも落ちない人工の光。画面の向こう側にしかなかった有名なチェーン店……。
上京してからは驚くことばかりだったけど、初めてのデパートはそれ以上のカルチャーショックだった。
島暮らしとはいえ、あたしだって島外の大型商業施設くらいは行ったことがある。だから、商品の物量やフロアの広さ自体には耐性があるつもりだった。
でも、都会のデパートはなんていうか……きらきらしてた。
ブティックエリアでビカビカ輝いていた、めくるめく高級ブランドの数々。デパ地下のショーケースの二千円やら三千円やらのスイーツ。綺麗な女性スタッフさんたちが大勢待機している巨大なコスメエリア。カラーバリエーションの展示用に剥き出しの口紅が百本くらい並べてあったのは、ちょっと気持ち悪かったけど……。
ただやっぱり、憧れの東京は想像以上に想像以上だった。
「初華、その……」
「あ、寝るところ? とりあえず今日はこのソファーでいいよ」
「初華」
「明日からはどうしよっかなぁ。ちょくちょくあっちにも帰るし……」
「初華ッ!」
わお。珍しく大きな声。
ソファーから見上げると、お姉ちゃんがこわーい顔であたしを睨んでいる。
「お願い。さきちゃんのこと、説明……させて」
まぁそうなるよねえ。避けては通れない話だ。
あたしは身体を起こし、乱れた髪を軽く撫でつけてから椅子を手で示す。
「座って?」
そのまま、テーブルを挟んで向かい合うお姉ちゃんとあたし。
お姉ちゃんが視線を逸らさないのは、せめてもの意地か、それとも潔白を証明したい必死さか。
いずれにせよ、すぐに分かる。
「……初華のものを取るつもりは……なくて。ただ、今は私が初華だから、さきちゃんとも……」
「御託はいいよ。あたしは事実が知りたいの」
おためごかしをばっさり断ち切って、会話の主導権を握る。
「まず、さきちゃんとどうやって知り合ったわけ? ……一応言っておくけど、偶然ってのはナシだからね」
「……それは、デビューしたころに、連絡を取るようになって……」
「どっちから?」
あたしの質問に、お姉ちゃんの細い喉が小さく動いた。
「どっちからって?」
「分かんないフリしなくていいよ。要はどっちが先に連絡したのかってこと」
「初めは……その」
言いよどむ。視線が泳ぐ。
めんどくさいなぁ。
「もういいや。スマホ出して」
「えっ?」
「履歴残ってるでしょ。見せて」
とんとんとテーブルを叩いて催促すると、お姉ちゃんはスマホを取り出し──手元が狂ったのかテーブルの下に落としてしまった。慌ててテーブルに潜り込んで拾おうとしたところに、ドンっと鈍い衝撃音。
「痛っ!」と情けない声が足元から聞こえて、どれどれとテーブルの下を覗き込んでみれば、お姉ちゃんはダンゴムシみたいに丸まって悶絶していた。どうやら頭をぶつけたらしい。このどんくささでよくアイドルできるなぁ……。
しばらくしてから、涙目で頭をさすってのそのそ這い出てくる。
「ほら、今ロック解除したよ」
「ありがと。で、どこ?」
「ほら、この下の……ショートメッセージのところ」
「お姉ちゃんは触らないで。……他は?」
「他はまだ連絡先交換してないよ」
ショートメッセージの緑のアイコンをタップする。二段階認証とか配送の通知に埋もれて、“さきちゃん”という名前。詳細を開くと履歴が出てきた。スクロールして、最初の会話へと遡ってゆく。
“デビューって本当ですの!?”
“おめでとう”
“憧れのプロになれたのですわね。
どんな時も前向きで、
“やっていけるか不安なところもあるけど”
“わたくしは何も心配しておりませんわよ”
“ありがとう。
さきちゃんがそう言ってくれるなら、頑張れる”
日付と文面を見る限りでは、お姉ちゃんのデビューを知ったさきちゃんが連絡してきて、お姉ちゃんが返信して交流が始まったように……見える。
さきちゃんは事務所の社長とも繋がりがあるって言ってたし、連絡先を知るくらい簡単なんだろう。
「ふーん。じゃあ最初に連絡したのは、さきちゃんなんだね」
「……」
お姉ちゃんは答えない。
ギロチンの刃を待つように、ただ黙ってじっと俯いている。
……無理もないか。後ろめたさだってあるはず。
もちろん、デジタルな記録なんていくらでも改ざん可能だから、自分のメッセージだけを消して、あたかも相手から連絡してきたように見せかけることだってできる。ただ、そんな余裕があるようには見えなかったし、さきちゃん側に確認すればすぐにバレてしまうような嘘をつくとも思えない。
いや、念のために確認したほうがいいのか?
でも、そうなるとシロだったときが大変だ。
あたしがメッセージの詳細を確かめたことがさきちゃん経由でお姉ちゃんに伝わって冤罪だったら、お姉ちゃんとの信頼関係が壊れてしまう。そんなリスクは気軽には踏めない。
あたしだってお姉ちゃんを信じたいし……今はこれで納得するしかないかな。
「まあ、連絡が来たら無視するわけにもいかないよね~」
スマホを返してあげると、お姉ちゃんはまるで時限爆弾の処理を終えたみたいに、ほぅと深く長い息を吐きだした。
なんでもう終わったみたいな顔してるの?
本題はここからだよ?
「でも、ずいぶん仲良しだったねぇ。バンドも一緒にするんでしょ?」
「う、うん。ごめ……」
「あのさー」
声を張り上げる。
テーブルの上に組んでいたお姉ちゃんの指先が、ぴたりと止まる。
「そもそも、さきちゃんはあたしの友達なの。最初は分かるよ、急に拒絶するのもヘンだしね。でも、仲良くなろうとするのは違くない?」
「あ」とそこであたしは一呼吸おいて、わざと声色を明るくした。
「そうだ! さきちゃんにだけ、あたしとお姉ちゃんの名前のことを説明するのはどう? そうすれば全部解決じゃ~ん」
「それはダメだよ! 豊川に、私のことが……バレちゃう」
ここだけ妙に頑固だなあ。
まさかとは思うけど、未だにバレていないと思ってる? もしくは、どうしてもアイドルを続けたくて、どんな些細な可能性でも潰しておきたいのかな。
お姉ちゃんが顔を上げる。
懇願するような、祈るような、悲痛な顔に──
あたしは思わず視線を外してしまう。
「ちゃんと、返すから。いつか……必ず、初華に返すから。今だけは……」
そうだね。いつかはそうなるはずだよね。
でもさ──
「返して、どうするの? さきちゃんと交流しているのはお姉ちゃんで、バンドに入ったのもお姉ちゃんで、種明かしをしても立場が入れ替わるわけじゃないでしょ」
どう転んだとしても、お姉ちゃんとさきちゃんの交流した時間が消えることはない。
そしてその間、あたしが初華としてさきちゃんと再会することもできない。
「ねえ、ずるいよ。あたしだってさ、さきちゃんと仲良くなりたかった。可愛くて、なんでも知ってて、何でも出来て、もっともっと遊びたかった」
無機質な灰色の壁を睨みつけながら、言葉を叩きつける。
「でも、豊川の家と関係を持つと家族が壊れちゃうと思って、真実を知ってから会うのやめたんだよ? お姉ちゃんのためにやめたんだよ? それなのにお姉ちゃんばっか仲良くなっちゃってさ、友達作っちゃってさ、不公平じゃない?」
あたしの糾弾がしんと静まり返ったリビングに反響する。
沈黙。
お姉ちゃんからの反論はない。
久々の大声に息が浅くなる。自分の心臓の鼓動だけが、耳の奥でうるさいくらいに鳴っている。
「……羨ましかったんだ」
ぽつりと、雫が滴るようにお姉ちゃんの口から言葉が落ちた。
「初華の話してくれたさきちゃんとの日々は、いつも楽しそうで、きらきらしてて。どんな子なんだろうって」
次々と溢れ出してくる言葉は、綺麗な水なんかじゃない。もっとドロドロしたヘドロみたいな本音。
「もちろん、分かってた。会っちゃダメって。お母さんと家族を守るためにはそうしなきゃいけないって。でも、私はずっと、ひとりぼっちで……。だから……ごめんね」
息が詰まる。
違う。違う。違う。
お姉ちゃんに、こんな顔をさせたいわけじゃなかった。
お姉ちゃんに苦しんでほしいわけじゃなかった。
ふと、思い出す。
どうしてあたしは、さきちゃんと初めて会ったときお姉ちゃんのことを話さなかったんだろう。
どうしてあたしはお姉ちゃんにさきちゃんのことを話したんだろう。
今となっては遠い彼方にあるけれど、きっとそこには、幼いあたしの子供じみた優越感があって──
そうか、あのときの欲望の報いを、いま受けているのか。
「……あたしの方こそ、ごめん」
あたしは、テーブルの上で震えるお姉ちゃんの手を、両手でそっと包み込んだ。
「お姉ちゃんの気持ちに、全然気づいてあげられなくて、ごめん。……そうだよね。東京で、一人ぼっちで、つらかったよね。もしかすると、お姉ちゃんがさきちゃんに会いたくなったのも、仕方ないのかもしれない。欲をなかったことにして忘れるなんて、人間にはできないから」
でも……それでも、ダメなんだ。あたしたち家族にとって、さきちゃんだけは。
お母さんが豊川の人間と関わろうとしない以上、お姉ちゃんがさきちゃんへ傾倒しすぎてしまえば──例えば、さきちゃんと一生一緒にいたいなんて言い出せば──あたしたち家族が昔みたいに仲良く暮らせる日は永遠に来ない。
あたしはお姉ちゃんを束縛したいわけじゃない。独占したいわけじゃない。
ただ、家族を大切にしてくれれば、あたしと一緒にいてくれれば。
昔みたいに戻ってくれればいいだけ。
そのゴールに、さきちゃんはいちゃいけないんだ。
お姉ちゃんが顔を上げる。
その顔は醜くもなんともない綺麗な顔で──
少しだけ、揺らいでしまった。
……さきちゃんを許容することは、正直……できる。
友達として付き合うぶんには、何とかなる部分も多い。
できるのかな。
たとえ欲望を忘れられなかったとしても、バランスをとって制御することが、
欲望の天秤を水平に保つことが、
お姉ちゃんになら、できるのかな。
「……分かった。いーよ。さきちゃんとバンドやっても」
ぼそりとそう呟くと、お姉ちゃんがぽかんと口を開けた間抜けな顔になる。
まあこれ以上、お姉ちゃんに嫌われたくもないしね。
ただし、守るべきものは守ってもらうから。
あたしは、お姉ちゃんの鼻先にびしっと人差し指を突きつけた。
「その代わり、約束して。家族……あたしとお母さんともちゃんと向き合うって」
お姉ちゃんの瞳から、迷いが消える。
「約束する。今すぐには無理だけど……必ず」
真っ直ぐにあたしを見つめ返してきたその顔は、ただ縋るだけの弱々しいものではなく、覚悟の色をしていた。
これでもう以前のようには戻れない。
あたしが描こうとしていた理想の家族の絵図に、さきちゃんという異物が消せないインクで書き足されてしまった。
……ただ、そこまで悲観はしていない。
理由は単純で、お姉ちゃんにはさきちゃんを好きになる要素が──確固たる根拠が全然足りてないからだ。
たしかに、今のバランスとしては、若干さきちゃん側に傾いていることは否めない。
でも、今のお姉ちゃんが見ているのは、いわばさきちゃんの肥大化した虚像。
嫉妬と、羨望と、孤独のレンズを通して魅力的に見えてしまっているだけだ。
冷静に考えてみれば、お姉ちゃんとさきちゃんの関係性の実態は、友人の友人で、勘違いして連絡してきた人でしかない。
そもそも、そこまでさきちゃんに対する想いが強いのなら、お姉ちゃんが自分から連絡を取るはずで。
そうしていない以上、東京で孤独だったお姉ちゃんに差し伸べられた手が、偶然さきちゃんだったというだけだろう。
そうなると、早晩魔法が解けたとしてもおかしくはない。
あたしがお姉ちゃんの孤独を癒してあげて、少し天秤に重りをのせれば、さきちゃんへの想いなんか簡単に覆せるはずだ。
ほっと胸をなでおろしているお姉ちゃんを見ながら、次の一手を考える。
お姉ちゃんとさきちゃんを繋ぐものは、間違いなくこれから始まるだろうバンド活動だろう。
だったら──
あたしが入らないわけにはいかないよね、おねーちゃん♡