一分でわかる古代インド:盲目覇王ドリタラーシュトラ その37(拡張版)
前回ドリタラーシュトラが命じたランカー国王族の暗殺は、マハーバーラタで彼が部下に命じた汚れ仕事の中で唯一詳細に描かれたエピソードである。敵国に対して容赦がない盲目覇王はこれまでの大遠征でもこういった手を多用したとされている。降伏勧告には大抵、敵国王家の主要人物の暗殺が伴った。女子供の凌辱以外のあらゆる計略を行ったであろうというのが有力な学説である。
暗殺の任についたアシュヴァッターマンとカルナは、深夜のランカー王宮で速やかに王族貴族を殺した。これは第三の目をもつドリタラーシュトラが詳細な情報を与えたからこそ成し得たことで、そうでなければ身なりが良いものを手当たり次第始末することになっていただろう。
寝静まる時間帯に寝台の上で仕留められた者の中には、まだ幼い王の孫たちも含まれていた。細い喉元めがけて短剣を振るう時、戦士二人が何を思っていたのかはわからない。ただ、若きバラモンの赤みがかった髪が返り血ではない色味の赤に染まっていったこと、金色の瞳が厳しさを増していったことが語られている。
三十四人の標的の最後は、すでに恩恵を使い切った第二王子と彼の幼い息子たちであった。王子が住まう別棟にやってきた戦士たちが二手に分かれて仕上げにかかろうとしたその時、王宮内がざわめき、一気に灯りが灯された。ついに死体が見つかり事態が発覚したのだ。
別棟に駆け込んできた衛兵らをすぐさま全滅させるも、警戒を呼びかける大声や侍女たちの悲鳴で第二王子の一家が起き出してしまう。夫人らが子供を抱いて逃げるのをカルナが追い、若い羅刹女から幼児を取り上げた。太陽神の子が羅刹の娘に「悪魔」「人でなし」と罵られる場面には胸を締めつけられる。なお、ルネッサンス期の万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチ作「白い羅刹」は、このシーンを描いたものだとされている。芸術史上最も悲劇的な一枚の一つと名高い名画はマハーバーラタから生まれたのである。
アシュヴァッターマンがもう一組の母子を壁際に追い詰めた時、駆けつけた第二王子がその足元に縋りつき命乞いをした。若きバラモンは標的である男を剣で刺し貫き、この子だけはと悲鳴をあげた女の髪を掴み、その胸に抱かれる乳飲子の命を断とうとしてーー
苦しげな呻きとともに剣を下ろした。
「……ああ、クソがッ」
後世のファンはアシュヴァッターマンを非情になれない心優しい人間として、彼のここでの選択を好意的に捉えがちである。しかしマハーバーラタが編集された当時、王の勅命に逆らった戦士の末路は死あるのみであったことを忘れてはいけない。
原文ではカルナが発した殺気で赤子が火がついたように泣き出したとある。アシュヴァッターマンが捕まえた羅刹女は、剣を下ろした相手に死んだ夫がしたように縋りつき、どうか我が子を目こぼししてほしいと懇願した。
「そのガキがランカー国の王位を継承しないと神に誓え」
羅刹女は躊躇なく
「死ぬぞ」(戻ったら死刑になるのに、逃してよかったのですか)
「お前が見逃してくれたのは絶対言わねぇ。俺がバカやっただけだ」
「……愚かだ、本当に愚かだ」(貴方の行動を見逃した私も同罪です。二人ともバカをしてしまいましたね)
結果としてランカー国の王位継承者を絶えさせた二人は、再び闇夜にまぎれて王宮を後にした。ランカー国王は三十三の屍を前に半狂乱で髪を掻き毟ったとされている。
一分でわかる古代インド:盲目覇王ドリタラーシュトラ その38
ランカー島から帰還したアシュヴァッターマンは、王命に背いたことを自ら報告し、王の前に跪いた。その隣に倣おうとしたカルナの肩をドリタラーシュトラが掴んで制し、しばしの沈黙が三人だけの天幕内を満たしたという。なお、ドリタラーシュトラはこの場に他の誰の立ち合いも許さなかった。
「申し開きはあるか」
「いいえ、ございません」
潔すぎる若き戦士にドリタラーシュトラは深いため息を一つ溢し、こう言った。
「では、うぬの命の次に価値があるものを貰い受けよう」
アシュヴァッターマンは彼の父ドローナが苦行と祈りの末に授かった子供である。神々に祝福された生まれ故に、彼は生まれつき額にあらゆる病や厄災を遠ざける魔尼の宝珠を授かっていた。この宝珠はカルナの黄金の鎧同様、体の一部であった。
覇王の力強い指が伸ばされ、以前よりずっと赤が濃くなった前髪の合間の宝石を摘んだ。アシュヴァッターマンは何をされるのか悟っても身じろぎ一つしなかったという。
ランカー国に次代の王がいなくなり、ついにクル王国軍は最後の戦いへと出航する。本来であれば王族が指揮するはずのランカー側の残存戦力は無惨に打ち砕かれ、盲目覇王率いる戦士たちは瞬く間に王都に入り、王宮へと迫った。羅刹の戦士たちが次々と倒れるのを目の当たりにした人間の国民たちは恐怖に震えて一切抵抗をしなかったという。
ドリタラーシュトラは王都の占領をパーンドゥとビーシュマに任せ、自身は精鋭部隊と百王子、カルナとアシュヴァッターマンを連れて王宮に足を踏み入れた。
額に包帯を巻いて戦闘に参加したアシュヴァッターマン。玉座の間でランカー国王を追い詰めた時、彼は己の目を疑った。
玉座の前に立つ大柄な羅刹の足元に見覚えがある羅刹女が骸となって転がっており、羅刹が片手にぶら下げているのは中途半端に赤子の形を残した肉片であったのだ。
「あッ、あ“あ“あ“ああああ!!」
憤怒の化身。アシュヴァッターマンを指す最も有名な二つ名は、この局面以降についたものである。獣のような叫び声をあげた若きバラモンは、その髪までも怒りの色に染め、赤い怒気をまとって飛び出した。シヴァ神の一撃のような苛烈さでランカー国王に切り掛かり、しかしその首ではなく小さな死体をもつ腕を切り落とした。
「よく堪えた」
続く盲目覇王の冷えた怒りが刃となって敵国王の首を刎ねる。かくして古代インドの最後の独立国家が落とされ、統一戦争は終幕した。
近代以降の学説では、アシュヴァッターマンはある種のPTSDを発症したとされている。しかし彼は戦場に立てなくなったわけではなく、それどころかこの先、治安維持部隊の長として反抗勢力の鎮圧に生涯を捧げた。ドリタラーシュトラのもと平定された世界のあらゆる火種を踏み潰し、怒りと返り血で赤く染まり続けたのだ。
理不尽な世界に異を唱え、平和と共存を尊ぶすべての命を愛する戦士。そのアシュヴァッターマンの咆哮とドリタラーシュトラの止めの一撃により、マハーバーラタの戦争の記録は終わる。続く十章はクル王国による統治とクル王族たちのその後、沈黙を保ち続けた神々からの祝福のエピローグである。
とある転生者のモノローグ
アシュヴァッターマンが病んでしまった。
大遠征の前はキラキラお目目のワンコみたいな子だったのに、ランカーを落とした後はずっと怒ってますオーラが出てるうえに髪がヤンキーレッドになってしまった。やんちゃな好青年がオラオラ系に変身したというわけだ。といっても俺に忠実なのは変わらないしドゥリーヨダナやカルナとも仲良しなんだけど、なんというか精神状態がおかしなことになってる。
俺の千里眼は相手の心を覗けるわけじゃない。アカシック何ちゃらも客観的な事実と、そこから推測できる合理的な予測しか得られない。エスパーじゃない俺にはアシュヴァッターマンがどうしてこうなっちゃったのかわからないんだ。
「父上が気に病まれることではありません。ちょっとばかり極端ですが、あやつが戦士として一皮剥けたと思ってくだされば」
「愚か者を気にすることはない」(アシュヴァッターマンは少しナイーヴなところがありましたが、今回の遠征で危うさを脱ぎ捨て成長しました。気にしなくても大丈夫です)
「そうか……」
ドローナの息子でめちゃくちゃ将来有望なので側において戦ってもらったんだけど、暗殺の任務はハードルが高かったかもしれない。予知した未来では五十パターンのうち四十三の分岐で問題なく終わってたんだけどな。よりによって一番本人に影響があるパターンに流れてしまうとは。
アシュヴァッターマンがランカー王家の赤ちゃんを見逃すのは二つのルートで起きたことで、うち一つは若い母親が継承権を手放したくないとごねて親子揃って殺すハメになった。その場合は髪が真っ赤になることなく、任務を完遂したから罰則も必要なかった。今回実現してしまったルートでは、標的を見逃した責任を取らせるため額の宝石を取り上げることになったし(そうじゃなきゃ死刑だった)、結局、あの赤ちゃんはお母さんともどもランカー国王に殺されてしまった。ハイハイもできないような子に王位継承させて恩恵を発動させようとしたら、神々への誓いのせいでできなくてキレたとか、あいつ本当に国王かよ。アダルマの件といい、救いようのないクソ野郎が!
俺をコケにしたランカー国王は、みんなの前で俺が殺さないといけなかった。あの局面でその判断ができたアシュヴァッターマンはとても偉い。激怒してても頭は冷静だったんだなぁ。
とにかく常に怒り状態になってしまったのも宝石を取り上げたのもドローナに申し訳なくって、俺はこっそり謝罪した。さすがバラモンというべきか、ドローナは終始穏やかに話を聞いてくれて、謝罪は必要ないとまで言ってくれた。全ては息子の甘さを見抜けなかった己の責任であると菩薩のように告げられて、俺は最後に深く頭を下げることしかできなかった。
……ここまで長かった。古代インド統一は二十五年以上かかった。もっとかかっても、生きてる間にできなくてもおかしくないような偉業と言われたら確かにそうかもしれないけど、本当に長かったんだ。七回の大遠征と何度もあった防衛戦。死者の数は数えきれない。勝つためにはなんでもやったし、多くの人を踏み躙った。
その全てを、俺は微塵も後悔していない。
カウラヴァとパーンダヴァが敵対する未来は砕かれた。クル王家が割れることも、長老たちが俺の息子たちの死を望むことも今やあり得ない。息子たちは戦場以外で死ぬだろう。愛するガーンダーリーが呪いを吐くことも、可愛いドゥフシャラーが未亡人になることもない。クル王国は古代インドの覇者として人類史に刻まれ、この先百年以上の平和な時代に栄華を誇るんだ。
まだまだやることは山積みだ。百年以上の平和は簡単に手に入らないんだからな。帰ったらヴィドゥラを交えて大会議だ。パーフェクト統治を目指して頑張るぞ!
……少しだけ、本当にちょっとだけ疲れた。ガーンダーリー、今帰るよ。
後書き
この世界線のアシュヴァッターマンは額の宝玉を罰として取られ、その後の展開で憤怒の化身(原典よりだいぶマイルド)になりましたが、追放や放浪はなく、生涯現役で統一国家の平和維持のため元気に戦いました。
なお、そもそも主人公が戦争起こしたのが悪いとは微塵も思っていません(思いつきもしない)
あと1話で完結します。その後は番外編があります。
もう少しお付き合いいただけたら嬉しいです!
コメント、ブクマ等大変嬉しいです!ありがとうございます!
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