平穏は砕けない
逃げなければならない。
それだけが、吉良吉影の中で揺るがない事実だった。
空気が裂けるような衝撃が、背後で弾ける。
ここまで追い詰められるのは、想定外だった。
東方仗助。
空条承太郎。
どちらも、本来なら関わるべきではない人間だ。
だが現実は、彼らがそこにいるという一点だけで、吉良の平穏を完全に破壊していた。
「……まったく」
吐き出した言葉は、ひどく冷静だった。
恐怖がないわけではない。
だが、恐怖に支配されて取り乱すほど、彼は愚かではない。
戦うべきではない。
勝つ必要もない。
生き延びること。
それだけが、目的だ。
キラークイーンが、背後に立つ。
その姿は、どこまでも静かで、どこまでも無機質だった。
ここまで来て、なお考えてしまう。
──なぜ、自分がこんな目に遭わなければならない?
吉良吉影は、ただ静かに暮らしたかっただけだ。
誰かの人生を奪うことでしか満たされない衝動を抱えながらも、それを悟られないよう、細心の注意を払い、社会に溶け込んできた。
それなのに。
「……運が悪かった、と言うべきか」
承太郎の視線が、突き刺さる。
あの男の目は、最初からこちらを“理解している”目だ。
ここに「逃げ場」はない。
だが──「切り札」はある。
吉良は、川尻浩作の身体に馴染んだ感覚のまま、静かに思考を進める。
バイツァ・ダスト。
この能力は、戦うためのものではない。
ましてや、勝利を掴むためのものでもない。
ただ、すべてを「なかったこと」にするための力だ。
自分の平穏を守るためだけに存在する、究極の逃避。
「いいや! 「限界」だッ! 押すねッ!」
視界が、歪む。
爆発音が、世界そのものを裏返すように鳴り響いた。
──そして。
◆
目を覚ましたとき、最初に感じたのは、静けさだった。
白い天井。
規則正しい換気音。
病院だと理解するまでに、数秒を要した。
吉良は、ゆっくりと瞬きをする。
「バイツァ・ダストは発現した、か」
声は、やけに若かった。
違和感に気づき、視線を落とす。
そこにあったのは、見慣れた川尻浩作の手ではない。
骨ばった、若い手。
年齢は──二十歳前後だろう。
状況を整理する。
爆発。
時間の逆行。
そして、見知らぬ身体。
だが、不思議と混乱はなかった。
吉良吉影は、こういう事態に慣れている。
想定外が起きたときほど、冷静に状況を受け入れる性質だった。
「キラークイーンは出すことが出来る…バイツァ・ダストではない、別の「能力」が発現したのか?……」
ふと、ベッド脇の椅子に掛けられた学生証が目に入る。
──初星学園・プロデューサー科。
「……初星学園、確か東京都の天川市にある学園だったはずだ」
眉をひそめる。
だが、同時に理解した。
これは、罰ではない。
平穏な生活を送るには、悪くない環境かもしれない。
医師の説明によれば、軽い事故で意識を失っていた学生が、奇跡的に目を覚ましたらしい。
名前も、戸籍も、この身体のものが用意されている。
つまり──
ここでは、川尻浩作ですらない。
完全な別人。
「フ……フハハ……フハハハハハハ!」
「やはり「運命」は私に味方をしていた」
それは、吉良にとって、ある意味で理想的だった。
◆
数日後。
初星学園の校門を前に、吉良は立ち止まっていた。
アイドルを育成する学園。
騒がしく、目立つ人間の巣窟。
本来なら、最も避けたい場所だ。
「……だが」
吉良は、静かに歩き出す。
目立たなければいい。
騒ぎを起こさなければいい。
上を目指さなければいい。
ここでの目標は、ひとつ。
無難に、卒業すること。
その途中で、生活が安定し、誰にも疑われず、危険もないならそれで十分だ。
プロデューサー科の講義は、思ったより静かだった。
数字。
分析。
計画。
感情論より、結果を重視する世界。
悪くない。
むしろ、自分に向いている。
そんな中で、ひとりの名前が耳に入る。
「……藤田、ことね?」
潜在能力は高いが、実力が伴っていない。
歌唱力に難あり。
アルバイトに追われ、練習量が足りていない。
誰かが、そう評していた。
吉良は、心の中で静かに評価する。
──潜在能力が高い、か。
それは、危険な言葉だ。
才能は、人を目立たせる。
だが同時に、
管理できる才能ほど、安全なものもない。
彼女をプロデュースすることは、
果たして平穏につながるのか、それとも──。
吉良吉影は、その答えをまだ出さない。
ただひとつ確かなのは。
「……ここで騒ぎを起こすつもりは、ない」
自分は、静かに生きる。
そのためなら、3位でいい。
常に、3位。
誰にも恨まれず、誰にも狙われず、
それでいて、無能だとは思われない位置。
初星学園の空は、やけに澄んでいた。
──平穏は、まだ壊れていない。