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平穏は砕けない
逃げなければならない。
それだけが、吉良吉影の中で揺るがない事実だった。
空気が裂けるような衝撃が、背後で弾ける。
ここまで追い詰められるのは、想定外だった。
東方仗助。
空条承太郎。
どちらも、本来なら関わるべきではない人間だ。
だが現実は、彼らがそこにいるという一点だけで、吉良の平穏を完全に破壊していた。
「……まったく」
吐き出した言葉は、ひどく冷静だった。
恐怖がないわけではない。
だが、恐怖に支配されて取り乱すほど、彼は愚かではない。
戦うべきではない。
勝つ必要もない。
生き延びること。
それだけが、目的だ。
キラークイーンが、背後に立つ。
その姿は、どこまでも静かで、どこまでも無機質だった。
ここまで来て、なお考えてしまう。
──なぜ、自分がこんな目に遭わなければならない?
吉良吉影は、ただ静かに暮らしたかっただけだ。
誰かの人生を奪うことでしか満たされない衝動を抱えながらも、それを悟られないよう、細心の注意を払い、社会に溶け込んできた。
それなのに。
「……運が悪かった、と言うべきか」
承太郎の視線が、突き刺さる。
あの男の目は、最初からこちらを“理解している”目だ。
ここに「逃げ場」はない。
だが──「切り札」はある。
最後の手段に意識を向ける。
誰かの秘密を抱かせ、追う者を遠ざけるための能力。自分の平穏を守るためだけに用意された、あまりにも身勝手な安全装置。
バイツァ・ダスト。
この能力は、戦うためのものではない。
ましてや、勝利を掴むためのものでもない。
ただ、すべてを「なかったこと」にするための力だ。
自分の平穏を守るためだけに存在する、究極の逃避。
「いいや! 「限界」だッ! 押すねッ!」
視界が、歪む。
爆発音が、世界そのものを裏返すように鳴り響いた。
──そして。
◆
次に目を開けたとき、最初にあったのは白い天井だった。
鼻を刺す消毒液の匂い。
一定の間隔で鳴る電子音。
半分だけ閉じたカーテンの向こうで、誰かが静かに歩く気配。
病室だ。
「……」
わたしは上体を起こしかけて、止まった。
手が違う。
指は細く、手の甲にはまだ若さが残っている。川尻浩作の手でもない。生まれ育った頃の、自分の手でもない。
左手の爪を確認する。
伸びてはいない。
それだけで、胸の奥にあった苛立ちが、わずかに遠のいた。
ベッド脇の棚には、見覚えのない学生証と端末が置かれていた。学生証に印字された校章の下には、初星学園の文字。そのさらに下に、所属だけが端的に記されている。
プロデューサー科。
「……初星学園」
東京都天川市にある、アイドルを育てる学園。
騒がしい場所だという印象しかなかった。テレビの特集で何度か見た程度だが、静かな暮らしを望む人間が近づく場所ではない。
吉良吉影は、こういう事態に慣れている。
想定外が起きたときほど、冷静に状況を受け入れる性質だった。
人の気配が途切れたのを確かめてから、わたしは右手を持ち上げた。
キラークイーン。
「……使えるのか」
能力まで失っていたなら、話はさらに厄介だった。
「キラークイーンは出すことが出来る…バイツァ・ダストではない、別の「能力」が発現したのか?……」
キラークイーンを消す。
「まずは、状況を把握することだ」
端末の画面を点ける。日付を確認し、わたしは眉をひそめた。
杜王町で最後に見た日と、大きく隔たってはいない。
未来へ飛ばされたわけではない。
杜王町も、初星学園も、同じ日本にある。同じ時代を流れている。
これは、罰ではない。
平穏な生活を送るには、悪くない環境かもしれない。
医師の説明によれば、軽い事故で意識を失っていた学生が、奇跡的に目を覚ましたらしい。
名前も、戸籍も、この身体のものが用意されている。
つまり──
ここでは、川尻浩作ですらない。
完全な別人。
「フ……フハハ……フハハハハハハ!」
「やはり「運命」は私に味方をしていた」
それは、吉良にとって、ある意味で理想的だった。
◆
数日後。
初星学園の校門を前にして、わたしは足を止めた。
朝の校内は、想像どおり騒がしい。笑い声。歌声。レッスンへ急ぐ足音。どれもが自分を見ているわけではないのに、音が多いだけで疲れる。
だが、プロデューサー科の校舎へ入ると、空気は少し変わった。
予定表。
レッスン記録。
審査の基準。
アイドルごとの成績と、今後の育成計画。
感情ではなく、数字と手順で結果を組み立てるための場所だった。
「……悪くない」
わたしに課された条件も、単純だった。
アイドルを一人担当し、プロデュースの成果を出すこと。
何もしなければ、課程を修了できない。
つまり、目立たずに卒業するためにも、誰か一人は選ばなければならない。
問題は、誰を選ぶかだ。
頂点を狙う人間は危険だ。
注目を集める。敵も味方も増える。勝った後でさえ、次の勝負を求められる。
反対に、あまりに結果を出せない人間も困る。
担当の無能さは、そのままプロデューサーの無能として記録に残る。
必要なのは、伸ばせるが、暴走しない人間。
優秀だが、主役になりすぎない人間。
資料をめくる手が、ある名前の前で止まった。
藤田ことね。
レッスン評価は中の下ほど。
生活記録には、アルバイトによる睡眠不足の可能性。
講師コメントには、基礎が整えば伸びる、とある。
「……」
まだ、選んだわけではない。
ただ、その名だけが、他の数字より長く目に残った。
自分は、静かに生きる。
そのためなら、3位でいい。
常に、3位。
誰にも恨まれず、誰にも狙われず、
それでいて、無能だとは思われない位置。
初星学園の空は、やけに澄んでいた。
──平穏は、まだ壊れていない。