朝の台所は、静かだ。フライパンの上で卵がじゅっと音を立てる、その音だけが響いている。
「……よし」
焼き色は上々。卵焼きをくるっと巻いて、火を止める。今日のお弁当は、卵焼きにウィンナー、ほうれん草のおひたし……後は冷凍食品を少々。地味だけど、栄養バランスはいい。コスパも悪くない。
「お金持ちアイドルへの第一歩は、節約から……」
誰に聞かせるでもなく呟いて、弁当箱の蓋を閉める。
よし。今日も抜かりなし。
◆
昼休み。教室の窓際。弁当箱を開いた瞬間、向かいから無言の圧を感じた。
「ことね! 友達なんだから一緒に昼食をとりましょう!!」
声の主を見て、少しだけ背筋が伸びる。
花海咲季。同じ1年で、入学試験首席。ダンスも歌も成績も、全部が高水準で揃っている。
天才、って言葉が一番近いんだと思う。
机の上には、今日も例の“それ”。
無機質なパウチに入った、様々な色のペースト。そして、ラベルに「SSD」とだけ書かれた虹色に光るボトル。
「今日の配合、少しタンパク質多めよ!」
「そのペースト毎日変わってんの!?」
「ええ! 当たり前じゃないレッスンによって必要な栄養素が変わるもの!!」
胸を張る咲季。もう食事というより、補給だ。
「相変わらずディストピア飯だナ〜……」
「結果が出るなら、見た目は問わないわ!」
即答。咲季らしい。
「ことねも、いつもちゃんとしてるわね」
「そのお弁当、ちゃんと栄養バランスを考えられてる」
「え、褒められた?」
「事実だからよ」
さらっと言われて、少しだけ照れる。
──と。
「……ことね」
よく通る声。
月村手毬。同じクラスで、歌の成績は学年トップクラス。口が悪くて、近寄りがたいって評判だけど──
歌のことになると、こいつは誰よりも真剣で、嘘をつかない。
それを知ってるから、私は息を飲んだ。
「なんだ〜? 手毬チャンも一緒に食べたいのカナ〜?」
「うるさい。それよりも今日のボーカルレッスン」
「初のBメロ後半、自覚ないんだ?」
「う゛っ゛」
図星だった。
「音程は合ってた。けど最後、声が逃げた。やっぱり自覚ないんだ?劣等生だから」
「……あります、自覚……」
昨日のバイト。終電。疲労が抜けきってない。そんな言い訳が頭の中をぐるぐると駆け回る。
「昨日、バイト入ってたでしょ」
「……はい」
「だったら仕方ない、とはならないよ」
「この世界じゃ生きていけない」
きつい言葉。
でも、突き放してはいない。
「喉の使い方じゃない。身体の支え方」
「そこ、意識してないから変な歌い方になってるんじゃない?」
少しだけ間を置いて、
「……ビジュアルレッスンの後、私、自習室予約してるんだけど」
「え」
「変な癖つく前に、直した方がいいんじゃない? 嫌ならいいけど」
ぷい、と視線を逸らす。
「……お願いします」
そう言うと、手毬は一瞬だけ目を丸くしてから、
「最初からそう言えばいいのに、ことねは素直じゃないね」
「ふふ」
咲季が、楽しそうに笑う。
「いいじゃない。こういうの、嫌いじゃないわ!」
「この花海咲季も参加させてもらうわ!」
「咲季は黙ってSSD飲んでて」
「なによそれ!!」
「あははは!!」
なんだかんだ、いい友人達に支えられている。
◆
放課後。指定された部屋の前で、深呼吸を一つ。
「……よしっ」
ドアをノックすると、すぐに返事があった。
「どうぞ」
中にいたのは、あの人だった。
昨日会った、プロデューサー。
あの時と同じ穏やかな笑顔で、椅子を勧めてくる。
「あの……私、あんまり期待してもらってるようなタイプじゃないと思います」
気づいたら、そう言っていた。
「成績も良くないし」
「正直、自分に才能があるとも思ってないです。
私をプロデュースしたいと思う理由はなんですか?」
彼は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、怖い。
「藤田さん」
やがて、穏やかな声。
「そう思っていながら、ここまで中等部から3年間、続けてきたのはなぜですか?」
「……辞めたら、何も残らないからです」
自分で言って、少し苦しくなる。
「なるほど」
彼は、静かに頷いた。
「少なくとも」
「簡単に投げ出す人ではない、ということですから」
胸の奥が、少しだけ揺れる。
「才能があるかどうかは」
「正直、今の時点では重要ではありません」
「……そうなんですか」
「ええ」
プロデューサーは、ことねの目を見て言った。
「努力が“習慣”になっている人間は」
「環境さえ整えば、結果を出します」
──環境。
その言葉に、心が引っかかる。
「藤田さん」
「……」
「大きく人生が『変化』するのは怖いですか?」
「それは……」
一瞬、言葉に詰まる。
「……正直、怖いです」
「そうでしょうね」
否定しない。
その言い方が、妙に優しい。
「私は、今より少しだけ楽に」
「今より少しだけ前に、進める環境を用意するだけです」
それは、派手な約束じゃない。
でも──今の自分には、ちょうどいい。
「……私で、いいんですか?」
「ええ、貴方がいいんです」
即答だった。
その言葉が、胸に残る。
才能があるとも『
それなのに。
「……考えさせてください」
「もちろん」
自分が、認められたような気がした。
「あなたが選ぶことですから」
◆
部屋を出たあと、ことねは廊下を歩きながら思った。
褒められた気がした。
理解された気もした。
でも──
何か、肝心な部分だけが触れられていない。
「……ズルい人だな〜」
誰に向けた言葉でもなく、呟く。
──私が、選ばれた理由。
それは、やっぱり分からないまま。