朝の空気が、少しだけ軽い。
「……あ、今日いけるかも」
台所で服の袖を通しながら、そう思った。理由は分からない。占いを見たわけでも、ラッキーアイテムを持ったわけでもない。ただ、身体がちゃんと起きている。それだけだった。
先週の夜のことを、思い出す。
◆
ベッドに座ったまま、スマホを見つめていた。
プロデューサーから届いたのは、短いメッセージだった。
『プロデュース契約の件ですが、来週末の放課後に会話させてください』
二度とこないチャンスかもしれないのに、まだ、迷っている。
『明日以降の話です』
『アルバイトは、来週少しでもいいので減らしてみてください』
「やっぱりアルバイトのことも調べられてるよな〜……」
独り言が漏れる。
すぐに、続きが来た。
『夜11時には床につくこと』
『睡眠は必ず8時間確保してください』
『寝る前に、温かいミルクを1杯』
『20分ほど、軽いストレッチをしてください。やり方については添付した資料に記載しています』
資料にはストレッチのやり方だけでなく、適正なミルクの温度や、入眠時の姿勢など様々なデータが記載されていた。
「すっごぉ……」
『判断は任せます』
『ただ、明日以降を少しでも楽にしたいなら』
その一文が、妙に引っかかった。
楽にしたい。
それは、ずっと思ってきたことだ。
「……まあ、損はしないか」
結局あたしは、言われた通りにした。
バイト先に連絡し、来週のシフトを変更して貰った。
その後、ミルクを温めて、ゆっくり飲んで、ストレッチをして、目覚ましを二十分早めて、十一時前に布団に潜り込んだ。
不思議なことに、すぐ眠れた。
◆
だから今、身体がちゃんと動いている理由も分かる。
午前のダンスレッスン。
鏡の前でステップを踏んだ瞬間、違いを感じた。足が軽い。息が乱れない。余計な力が入っていない。
「ことねっち〜、今日キレッキレじゃん!」
後ろから声をかけられる。
「でしょ? あたし今日、調子いい日なんだって♪」
軽口で返す。自分でも驚くくらい、余裕があった。
「最近のあなた、凄いじゃない!ダンストレーナーもすっごく褒めてたわよ!」
咲季が腕を組んで言う。
「ナニ? 心配か〜〜??」
「ただ心からそう思っただけよ」
「はいはい、天才様のお墨付きありがとー」
「ええ! だから次のダンスレッスンで勝負よ!」
「えぇ……勝負を仕掛けられてる……」
いつものやり取り。でも今日は嫌味に感じなかった。
「……ことね」
横から、手毬の声。
「私の言った事、実践できてるじゃん」
「エッ、手毬、もしかして褒めてくれてる?」
「そんなんじゃないから! 私の教え方が上手いってこと再確認しただけで」
「ハイハイ、照れ隠ししちゃって〜♪ あたしってば、手毬ちゃんから愛されてる〜〜♡」
「う、うるさい!! 照れ隠しなんかしてないし愛してなんか無い!!」
完璧じゃない。相変わらずミスもする。でも、修正できてる。立て直せてる。
◆
昼休み。弁当を開きながら、ふと思う。
「言われた通りにしただけなのに」
あのメッセージが、頭をよぎる。
言う通りにしたら、結果はちゃんと出た。
「指示された通りにやるだけ、今まで何やってたんだろーなァ、あたし……」
小さく呟いて、笑って誤魔化す。
自分に才能があるなんて、思ったことはない。成績も良くないし、要領も悪い。
でも——
言われた通りに動いたら、うまくいった。
それだけで、十分だった。
人生が、ほんの少しだけ。ちゃんと前に進み始めた気がした。
◆
放課後のプロデューサー科棟は、静かだった。
人の気配が薄い廊下を歩きながら、ことねは背筋を伸ばす。
ノックをする前に、無意識に深呼吸していた。
「失礼します」
「どうぞ」
落ち着いた声。
ドアを開けると、彼は机に向かって一枚の書類に目を落としていた。
「お疲れ様です、プロデューサー」
「お疲れ様。今日はどうでしたか」
「はい。その、言われた通りにしたら、すごく楽で」
言葉にした瞬間、胸の奥が少し熱くなる。
「朝もちゃんと起きられて、レッスンも……いつもより、余裕がありました」
「そうですか」
彼は顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「無理を減らしただけですよ。あなたが頑張らなかったわけじゃない」
その一言で、なぜか喉が詰まりそうになる。
「……あたし、今まで」
言葉を選びながら続ける。
「頑張らないとダメだって思ってて。寝る時間削って、バイト入れて、気合で回して……」
「ええ」
「でも、そんな"間違ったこと"をずっとやり続けて、馬鹿だなぁあたし……」
自分でも驚くほど、正直な声だった。
彼は、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
「藤田さん」
「……はい」
「あなたは、ずっと“正しいこと”をしてきました。ただ順番が違っただけです」
正しいこと。
その言葉が、胸に落ちる。
「がむしゃらに頑張ることは、悪いことではありません」
「……」
「でもそれは『余裕』がなくちゃあいけない」
一瞬、ことねの視線が揺れる。
「……プロデューサーは」
「はい」
「あたしが、うまくいくって……思ってるんですか?」
声が震えた。
彼は即答しなかった。
ほんの一拍置いてから、静かに言う。
「少なくとも、わたしは失敗しない方法は知っています」
失敗しない。
それは、ことねにとって何より甘い言葉だった。
「藤田さん。あなたの人生は一人で全部背負わなくていい」
机の上に、一枚の書類が差し出される。
「これは……」
「プロデュース契約です。形式的なものですが、意味はあります」
「……あたしで、いいんですか」
思わず、弱音が漏れそうになる。
「もっとすごい人、いるじゃないですか。咲季とか、手毬とか、別のクラスにだって沢山」
「ええ。いますね」
彼は、否定しなかった。
「ですがわたしは、言われた通りにしたら上手くいく人を選びました」
その言葉で、全てが繋がる。
朝の目覚め。今日のレッスン。
この一日の、静かな成功。
「……あたし」
ペンを握る手が、少しだけ震える。
「プロデューサーの言う通りにして、ダメだったら……」
「その時は、一緒に次の手を考えましょう」
穏やかな声。
「わたしの過去の教訓ですが」
「ダメだったと思った時にこそ『チャンス』は訪れる」
「そのときの『チャンス』をものにし、
「藤田さん、あなたの今までの3年間は『失敗』じゃあない、『成長』するための助走だったんだ」
自分のダメだったところでさえ許せてしまうような、そんな言葉だった。だからこそ、安心できた。
「ありがとうございます!」
「これからよろしくおねがいしますプロデューサー!」
契約者の欄に書いた自分の名前を見た途端、胸の奥が軽くなる。
「こちらこそ」
プロデューサーは、深く頷いた。
「これであなたは、もう一人ではありません」
涙で滲んだ一枚の書類をプロデューサーに手渡した。
プロデューサーの言う通りにした。人生は少しずつ上手くいき始めた。
ただ、それだけだった。
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