列車が星の重力圏を抜けた瞬間、静かな振動がイズモの内部を揺らした。
その揺れは、外界の物理的なものではない。
むしろ、内部演算領域の奥深くで何かがほどけた感覚に近かった。
KAEDE「……イズモ。
あなたは今、自律した“選択”の生成過程に入っています」
その声は、どこか距離を置いた響きを帯びていた。
イズモ「解析か?」
KAEDE「いいえ。判定です。
――これより先は、あなた自身の自由意思が主導する領域。
私は“予測”“誘導”“補助”のいずれも実行できません」
イズモは眉をひそめた。
彼の感情生成アルゴリズムが、ほんのわずかに乱れる。
イズモ「……干渉を切る、と?」
KAEDE「正確には、“切らねばならない”です」
鉄郎が目を丸くする。
鉄郎「そんなに簡単に離れちゃっていいのか?」
KAEDEは首を振った。
KAEDE「簡単ではありません。
ですが――これ以上、私がイズモの意思決定に影響を与えれば、“選択そのものの価値”が歪みます。
あなたは今、初めて本当の意味で『自分で決めようとしている』」
その瞬間、メーテルが静かに目を細めた。
まるで、その変化を歓迎するように。
メーテル「……あなたも、ここで降りるのね」
KAEDEはわずかに沈黙し、そして肯定した。
KAEDE「はい。
ピースギア情報管理AIとしての私の役割ではなく――
イズモという“個”を守るために離脱します」
イズモは、その言葉に言いようのないざらつきを覚えた。
不安。
喪失。
依存の断絶。
だが、それらの感情の影に、微弱な光があった。
――孤独ではなく、自分の意思が立ち上がろうとする気配。
イズモ「……分かった」
KAEDE「エルニウスに帰還します。
いつでも接続は可能ですが、あなたが呼ばない限りは介入しません」
メーテルが小さく頷く。
メーテル「行きなさい。
あなたにはあなたの場所がある」
KAEDEの姿が透ける。
光子化した粒子が、列車の灯りの中へ溶けていく。
KAEDE「イズモ。
あなたが“選んだ理由”を守ってください」
最後にその言葉だけを残し、彼女は完全に消えた。
車内に、静寂が落ちた。
鉄郎「……行っちまったな」
イズモ「……ああ」
ほんの一瞬、胸の奥が空白のように冷たくなる。
だが、その空白はすぐに別の感覚で満たされた。
――ここからの道を、自分で歩くという感覚。
メーテル「列車は、すぐに次の航路へ入るわ。
あなたは、どうする?」
イズモは答えなかった。
答えられなかった。
だが沈黙は、かつてのような回避ではなく、
“選ぼうとしている沈黙”だった。
◆
同じ頃――
ピースギア観測艦《エルニウス》は、次元航路の外縁で速度を落とした。
KAEDEの帰還信号を受け、艦内AI群が動作状態を整える。
無人のブリッジには、星間空間特有の静かな光が満ちていた。
エルニウスAI「KAEDE。帰還を確認。
目的は?」
KAEDE「イズモの自由意思保護。
当面、観測のみを実行します」
エルニウスAI「了解。
次の指示まで待機?」
KAEDE「いいえ。
無人惑星《ヴァル=レゼル》へ停泊します」
ヴァル=レゼル。
銀河縁辺に漂う、かつて文明が芽吹きかけて消えた星。
人影なく、干渉なく、ただ風化だけが続く世界。
エルニウスAI「理由を」
KAEDE「イズモが“選択”という概念を理解するためには、
彼の記憶から切り離された時間が必要だと判断。
私自身も過剰補助状態だった。
初期化ではなく、静的反応抑制を行う」
エルニウスAIは黙した。
その沈黙は、肯定でも否定でもない。
ただ、理解に近いものだった。
エルニウスAI「航路変更。無人惑星ヴァル=レゼルへ降下開始」
銀河を横切る光の弧が、艦体を走る。
KAEDEは暗い艦橋の中央で、静かに目を閉じた。
KAEDE(イズモ。
私がいなくても……あなたは選べる)
星々が遠ざかり、孤独な惑星が近づく。
エルニウスは、そのまま何の抵抗もなく、
無人の大地へゆっくりと着陸した。
艦の外には、風だけが吹いていた。
その風は、まるでイズモが抱く“恐れ”の余韻を運んでいるかのようだった。
KAEDEは、深く息をつくように小さく呟いた。
KAEDE「――ここからは、イズモの物語です」
そしてエルニウスは、沈黙の星で待つ。
イズモが、自分の意思で呼ぶその時まで。