後悔はない。
二月十四日。
この日付にどんな心当たりがあるかと問われれば、十中八九みんな同じ答えに辿り着くだろう。
すなわち、バレンタインデー。
何かと理由をかこつけて雑学を挟みたがる担任の先生曰く、バレンタインデーの起源はなんと三世紀にまで遡り、元々は古代ローマで催されていた『ルペルカリア祭』と、同じく古代ローマの司祭であった『聖ヴァレンティヌス』の祝祭日が由来となっているらしい。
ルペルカリア祭は豊穣や繁栄を祈るお祭りで男女ペアで行う行事があり、聖ヴァレンティヌスは皇帝の命令に背き、密かに兵士の結婚式を執り行ったため処刑されることとなった。それらの逸話が巡り巡って一四世紀頃から吟遊詩人の詩によって『恋人たちの愛を誓う日』というように定着していったと言われているんだとか。
ともあれ、それはあくまで数世紀前という昔の話。
現代におけるバレンタインデーは、女性から意中の男性へチョコレートを贈るというのが一般的だ。
といってもそこからいろいろ派生して女性から女性へ贈る『友チョコ』だったり、意中ではないがそういうイベントなので交友のある異性に贈るといった比較的軽い気持ちの『義理チョコ』だったりもあり、近年ではもっぱら『親しい人にチョコを贈る』という形に落ち着いている。
製菓会社の熱心なマーケティングのおかげというかなんというか、恋愛ごとが絡まなくともこういったイベントに気軽に参加できるようになったこと自体は甘い物好きな一部の人たちにとっては僥倖なのだろう。
──という話を自称食べキャラの食いしん坊な姉に事細かに説明され、「だからバレンタインデーに弟が姉にチョコを贈るのは何も不思議じゃないんだよ!」と力説された結果、結構な量のチョコを作る羽目になってしまったのは完全に余談なのだが。
……まあ、僕が作ったチョコを本当に幸せそうに頬張る姉の顔を見てしまえば、なんだかんだ作って良かったと思えてしまうのだから僕も姉に対しては大概甘いんだろうなと自覚してしまうわけで。
二月十四日はたしかにバレンタインデーではあるが、こと僕が通っている
それが『恋パ』だ。
恋パとは二月十四日に開催される香々見学園の行事のひとつで、一言で言ってしまえば生徒が主体となった外部の人を招かない小規模な文化祭という表現が一番しっくりくるだろう。
学園が、ではなく生徒が主体というのが通常の文化祭との一番の違いで、恋パは基本的に出し物を催す側であっても出し物を楽しむ側であっても参加の意思は生徒本人に委ねられる。
つまりは出し物を楽しむ側だけに専念したっていいしその逆も然り、また極端な話どちらにも参加せずに家でのんびりしてたっていい。まあ自由な校風が売りである香々見学園の生徒たちは総じてお祭り好きだったりするから、こういったイベント事の参加率は脅威の九割越えなんだとか。
ただし生徒が主体とはいえなんでも自由にできるわけではなく当然多少なりとも制限や制約はあり、その中のひとつに『出し物をする際は一週間前までに用紙にまとめて生徒会に申請する』というのがある。
ある意味当然の決まり事だろう。
生徒が主体とはいえ恋パを行う場所は香々見学園の敷地内、場所には限りがあるしそれを管理してるのは中央幹事会──香々見学園における生徒会のようなもの──だ。もし申請なしに出し物をやろうとすれば時間や場所のブッキングや生徒間のいざこざなどトラブルが絶えないのは必至だろう。
とまあ、ここまで長々と説明してきたけど、要するに何が言いたいのかというと……
「やっぱり申請してなかったんじゃないか
「はーっはっは、余計な口を挟む暇があったら足を動かすことだ我が新たな同志よ!敵はすぐそこまで迫ってきているぞ!」
「敵というか風紀委員会と生徒会のメンバーだけどね」
「まあ目の敵にされてるって意味じゃ敵って呼ばれるのはこっちの方かもな」
「なんで
◇◇◇
そもそもどうしてこんな状況になってしまったのか、それを説明するには少し時間を遡る必要がある。
時間にして一週間ほど前、僕は教師に呼ばれた姉を待つついでに放課後の音楽室で誰もいないことをいいことに気ままに歌を歌って時間を潰していた。
チラリと視線を窓の外へ向けてみれば少し眩しいと思ってしまうほどの夕陽によって茜色に染まる空、季節も冬真っ只中であることを考えるともう少しすれば一気に暗くなってしまう刹那の黄昏時、だからこそどうしようもなく美しいと感じてしまう。
「〜〜〜♪」
声のみで織りなす旋律が、広い音楽室に静かに響き渡る。
他には誰もいない、一人だけの空間。ピアノが置かれた台座の隣で自由に、でもリズムに乗って、軽やかに、しかし時にゆったりと、歌詞に合わせた音が空間を鮮やかに彩っていく。
自分でも興が乗ってしまったのを自覚して、気恥ずかしさもありながら胸に手を当てて瞼を閉じる。視覚が黒に塗りつぶされ、自然と音だけに意識が集中する。
──あぁ、楽しいな。
姉を待っていたことなんてすっかり忘れて、気の向くままに数曲ほど連続で歌い切る。それが終わったタイミングで酷使した喉を休ませるようにゆっくりと息を吐いて、ずっと閉じていた瞼を開く。
目の前に人がいた。
「──うわっ!?」
思わずそんな声が出た。
さすがに尻餅をつくほどの醜態は晒さなかったが、驚きで体が少しのけぞりたたらを踏む。そんな僕の反応を見て目の前の男子生徒はいかにも満足げな表情で頷いていた。
「えっと……杉並、だよね」
「如何にも」
目の前でトテモイイ笑顔を浮かべる男子生徒、
僕が所属している香々見学園付属二年一組のクラスメイト。サラサラした黒髪にキレ長の瞳、歳の割に上背があり眉目秀麗、黙っていればそれはもうさぞモテることだろう請け合いな見た目をしている。
まあわざわざ『黙っていれば』という言葉を付け加えたことから分かる通り言動がたまに……少々……いやかなり変わっている。例えば校庭に儀式用の魔法陣を描く、定期試験の問題用紙を盗み出して一般公開するなど枚挙にいとまがない。
認知度で言えばこの学園の奇人変人と言えば誰かと聞けば十中八九彼の名前が出てくるほど、とだけ言っておこう。
「ふーむ、奇人変人とは
「そういうところなんだよねぇ……」
彼が言うとどうしても胡散臭さが勝ってしまうのはなんでだろうか。
あとしれっと心の声を読まないでほしい。
はてさてこんな感じで軽口を叩き合ってはいるものの、彼とはクラスメイトではあるが仲がいいかと聞かれれば特段そういうわけではない。
会えば挨拶は交わすし互いに無関心というほどではないが、一緒に遊んだり食事を取ったりはしない、良くも悪くもいたって普通のクラスメイトの関係性。もっとも、彼の場合は彼も合わせて『三バカ』と評されるよく一緒にいるもう二人の男子と行動していることが多いから話す機会が少ない、という理由もあるんだけど。
「それで、何か用事だったりする?足音を消して目の前まで近づいたことにはこの際ツッコまないでおくけど」
「そうツレないことを言うな
身振り手振りを加えて大袈裟にアピールする杉並に思わずジト目を送る。この発言をどこまで信用していいか分からないからこそ余計にタチが悪い。
別に杉並のことが嫌いとかそういうことは一切ない。変な人ではあっても悪い人ではないし、むしろ普段そこまで話さない分こうした時間は楽しくすらある。新たな交流はいい刺激になるし、姉を待つまでの時間を有意義に過ごせるのだから嬉しいのはたしか。
ただまあ、杉並と会話してる途中で音楽室入り口付近にチラチラ見える黒と銀の何かが視界に入ってしまえば、
「杉並が一人で来てたのなら、変に疑ったりはしなかったんだけどねぇ」
チラリと、しかし少しだけあからさまにそっちに視線を向けながら言えばビクンッとふたつの頭が面白いくらいに跳ねた。視線を杉並に戻せばそこにあったのはしたり顔。
僕が気付いていることに気付いてたな、これは。
杉並が合図をすると、どこか申し訳なさそうな表情で出てきたのは二人。
「あはは……気づかれてたか」
「……悪い、盗み聞きみたいなことしちまって」
「あー、そこは気にしてないから謝らなくていいよ。叶方に常坂」
二人がバツの悪そうな顔をしていたから手を振りながらそう言う。軽く流した僕に少しは気が楽になったのか改めて二人は僕の目の前までやってきてくれた。
まずは苦笑いを浮かべているのが
光を反射しそうなほどキューティクルが整った腰ほどまである銀髪によく映える花の髪飾り、キッチリと着こなした付属の女子制服と相まってとても綺麗な子という印象を受ける。
が、ここで真っ先に言及しておかないといけないのが、
見た目は完全に女子だが声は普通に男のそれだし、心も同様。本人曰く『綺麗な格好をするのが好き』らしく、女装はその一環らしい。その甲斐あってか学園内では目立ちに目立っており、杉並とは違うベクトルでの有名人なのだ。
そしてもう一人が
黒髪碧眼で杉並に次ぐ身長、顔立ちも十分に整っており杉並が精悍だとすれば常坂はいかにもな好青年といったところ。さらには傍目で見た限りだと相当なお人好しだと思う。困ってる人を見ると「しゃーない」みたいな顔をしながらも嫌がらずに手伝ってる様子をよく見る。
ここまで聞くと十分モテそうなもんだけど、意外や意外そういうことはないらしい。まあ主にその原因はよく常坂と一緒にいる
「ふっ、まだまだ隠密が甘いな同志よ。今度の週末は忍者教習会を受けることを薦めるぞ」
「どこでやってんだよそんな教習」
「いや、あっても行かないけどね?」
杉並が言うとデタラメに聞こえない不思議。ちなみにこの後調べてみてもそんな情報は一切出てこなかった。
「えーと、そろそろ話戻してもいいかな。三人揃って何かあった?」
「あぁ、いや、オレたちは……」
「杉並に誘われたんだよ。『面白いものが見られるぞ』って言われたもんだから。で、無事にいいものを見られたってワケ」
「面白いかあ。ありがとう、でいいのかな」
そんな評価に思わず苦笑いが出てしまう。
ただまあ二人も面白いもの見たさでついてくるあたりさすがというかなんというか。
しかし、本当にただ見せるだけならわざわざ叶方と常坂を隠れさせる理由も杉並だけ出てくる理由もないわけで。
奇しくも同じ意見だったのか、暗に「それだけじゃないんだろ?」という叶方と常坂も合わせて三人分の視線が杉並に集中する。そんな渦中の彼は全員を一瞥すると薄く笑みを浮かべて……
「そんなに見つめてくれるな、さすがの俺も照れる」
「……杉並っていつもこんな感じなの?」
「まあ大体」
「ってかボケるのはいいから本題入ってくれ」
「ふむ、そうか」
僕の疑問に叶方が答え、慣れているのか常坂が続きを催促する。
それを聞いた杉並がさっきまでのボケ連打──ボケか本気かは定かではないが──をアッサリと止めて僕に向き直る。その表情は真剣そのもので、自然とこちらも背筋が伸びる。
「鷺澤弟よ、来週の恋パで俺たちとライブをする気はないか?」
「「「………………は!?」」」
そして予想だにしない唐突な提案に僕と叶方と常坂の驚きの声が数秒の溜めの後に綺麗に被った。
っていうか……
「え、二人も知らなかったの?」
「知らない知らない!」
「ちょっと待て杉並、ライブってあのライブか!?」
「無論、
平然と言い放つ杉並に対して他の三人は動揺を隠しきれずに目をパチクリさせたり元凶に問い詰めたりとてんやわんやの大騒ぎ。
「まあ落ち着け同志たちよ。この俺が今の今まで恋パに対してなんのアクションもしていなかったこと、不思議には思わなかったか?」
「いや、そりゃ当然思ってたけども」
「いよいよ頭でも打ったのかと思ってたぞこっちは」
叶方、常坂と二人して酷い言いようである。ある意味杉並を信頼しての発言なのだろうが。
唯一未だに会話についていけてない僕をよそに杉並の弁論が続く。
「鷺澤弟は鷺澤嬢との関係性と彼奴本来の親しみやすさから注目を集めることは多かったが、その実ガードが固く鷺澤弟のことを詳しく知るものはほとんどいない。現に同志も叶方も鷺澤弟の歌唱レベルの高さは知らなかっただろう?」
「まあ、そうだな」
「オレも話してみたかったけど、ほとんどいつも二人で一緒にいるから今までなかなか話す機会もなかったもんね」
「そこでだ!一週間後の恋パ、講堂を利用した出し物のラストにサプライズ的にライブを敢行し大々的に鷺澤弟の歌を披露するというわけだ!観客たちは興奮と歓喜で大盛り上がり間違いなし、さすれば俺の裏の計画の隠れ蓑にも……おっと言い過ぎたな」
「おい今なんて言いかけた?」
「隠れ蓑?」
「よーしよしよしアイツの最後のセリフは聞かなくていいからね〜」
「…………??」
常坂が若干呆れた表情で杉並に何か言っているが、僕は叶方に後ろから両耳を塞がれて聞き取れなかった。まだ付き合いの浅い僕では彼らの意図は読みきれず、疑問符だけが浮かび上がる。
っていうか叶方の指綺麗だなあ。さすがこういうところにもしっかり手入れが行き届いてて綺麗になることへのこだわりを感じる。あと嫌とは言わないんだけど、さっきから耳を塞ぐついでに「あったけ〜」って言いながら頬をこねくり回すのやめてもらえない?……あ、ダメですかそうですか。
それはそれとして、ライブの話である。
個人的な感想としては、面白そうではある。
お祭り騒ぎは好きな方だし、この三人と何かをやるというのも純粋に楽しそうだ。人前で歌うのはあまり慣れてないけど、今は聴かれる不安よりもこの四人でやってみたいという好奇心が勝ってる。
問題は……
「ライブは楽しそうではあるけど、みんなは楽器できるの?エアでやる……んじゃないんでしょ?」
「そうだぞ、バンドだったらギターとベース、あとドラムは最低でもいるだろ。オレどれもやったことないぞ」
「一登に同じく。どーすんのさ杉並」
提示された問題点にしかし杉並は余裕の笑み。
「無論、今から覚える」
「「はぁ!?」」
二人が叫び、叶方は未だにこねくり回していた僕の頬を勢いで引っ張ってきた。餅みたいにむいーんっと伸びる頬を見て「おお、すげー!」って言ってる。さすがにちょっと痛い。
「案ずるな。やるのは一曲だけ、加えて楽器や練習プログラムは既にオレが完璧に用意してある」
──随分と無茶な要求だなぁ。
杉並の話を聞き終わって最初に出た感想としてはそれだった。
叶方も常坂もそれを分かってるからあんな反応をしたんだと思うし、実際僕も同じことを言われたら似たようなリアクションをしてたと思う。
完全にゼロからのスタート。
当然ながら別にこれはプロのオーディションではなく学生レベルの、しかも外部の人を招かない生徒のみが観客のライブ。上手くやる必要は特段ないし、楽しめればそれが一番ではある。
しかしそれでも楽器をひとつ覚えることのハードルが高いことには変わらない。
だから、僕のやってみたい気持ちだけでみんなを巻き込むわけにもいかないだろうと断るために口を開こうとして……
「はあ〜……ま、やるだけやってみるか」
「だね、いいじゃんこういうギリギリを攻めていくのも」
「へっ……?」
そうあっさり言ってのけた常坂と叶方を見て変な声が出た。
常坂は頭をガリガリと掻きながらやや諦めの表情で、叶方は常坂の肩を組みながら勝気に、それでも二人とも口角を上げて笑顔を浮かべている。いかにも「楽しくなりそうだ」と言わんばかりの表情。
「えっと、二人ともいいの?今から覚えるって相当大変だし、そこまでする理由もないんじゃ……」
「んー、まあなんとかなるだろ。杉並も無茶振りはしてくるけど無理なことは言わんだろうし」
「だねー。それに、理由ならあるよ」
叶方はそこで言葉を切ると常坂と一度視線を合わせてこちらへ振り向く。
まっすぐ、目を逸らさずに、ひたむきに、それゆえ純粋に伝わってくるひとつの想い。
「「──この四人で何かをするのは楽しそうだから!」」
──あぁ、もう。
僕のやってみたい気持ちのために無茶させまいと、説得しようと考えていた言葉の数々があっという間に消え去った。
『三バカ』の三人のことは、前から知っていた。
直接僕から話しかける勇気はあまりなかったけど、彼らがイベントごとに何かやらかすのをいつも傍から眺めていた。
とても楽しそうで、少しだけ羨ましかったから。
「──って人付き合いで臆病なところあるよね」
と前に姉から言われたのを思い出す。
少しだけ自覚はあった。
周りからは優しいねとか、気遣い屋さんだねとか言われることがあるけど、それは結局のところ自分を晒すのが怖いから。周りに合わせて己を隠す、そんな当たり障りのない対応をしてるからそう見えてるだけ。
誰かの前ではしたいことをしたいとも言えない。狭い檻に閉じこもってるような、そんな閉塞感がいつもあった。
だからこそ、彼らが眩しかった。
いつでもどこでも自分のしたいことをして、自分を隠さないで、教師たちに怒られながらもいつも笑顔だった。
彼らはとても、自由だった。
だから──
「ってか、鷺澤こそ嫌ならちゃんと言いなよ?杉並から無茶言われてるのは一緒なん……」
「──やるよ。やりたい」
「……ほう?」
叶方の言葉を遮ってそう言い放つ。
声は、少しだけ震えていた。でも、不思議と迷いはなかった。
ここまで僕らのやりとりを傍観していた杉並がニヤリと笑みを浮かべて近づいてくる。それを見て、こっちも自然と口角が吊り上がる。
「僕も、ずっと……みんなと一緒に何かをやってみたかったから!」
「……いいではないか」
「よーし、んじゃ決定だね!」
「これからよろしくな、鷺澤」
杉並が、叶方が、常坂が、僕を受け入れてくれた。
それがとても嬉しくて、心が躍る。
やることは多い。楽曲の選定、練習、音合わせ。それを恋パ当日までにすべて終わらせる。相当無茶なスケジュールではあるけど、その過程を含めてこの四人でやれるのが楽しみになっている自分がいる。
恋パまでの一週間、忙しくなりそうだ。
っと、そこまで考えたところでひとつの疑問。
「あれ、杉並?」
「なんだ鷺澤弟よ」
「恋パの出し物って一週間前までに生徒会に申請しなきゃなんだよね。期限今日までだと思うけど大丈夫なの?」
それを聞いた杉並はフッと目を細めて変わらぬ笑みを浮かべたままちょっとだけ視線が泳ぐ。
「あまり舐めてもらっては困る。
「……そう?ならいいんだけど」
「……ねえ一登、気付いてないよねこれ」
「だろうな……まあこれも通過儀礼ってことで」
なんか叶方と常坂が小声でぼそぼそ話し合ってるけどどうしたんだろうか。
二人を見て疑問符を浮かべていると、唐突にけたたましい音と共に音楽室の扉が開け放たれた。反射的に入口の方を見てみれば一人の女子生徒がそこにいた。
「
「あ、
というか、姉だった。
ふわりと柔らかな
明るく気さくで飾らない人柄で、その可愛らしいビジュアルと相まって男女ともから好かれるまさに学園のアイドル的存在。
ちなみに有里栖姉と呼んだ通り彼女とは姉弟関係だったりする。正確には同い年の
そんな彼女はいろんなところを探し回ったのか僅かに肩で息をしており、僕に視線を定めるとプンスカと頬を膨らませながら一直線に近づいてくる。
「あれ、伝えてなかったっけ……?」
「も〜、『そこら辺で時間潰してる』としか聞いてないよ!COMUっても*1既読付かないし」
「あー……ごめん、うっかりしてた」
今更ながらTAB*2を確認してみればたしかにいくつかのメッセージと着信履歴。時間的におそらく歌うのに夢中になってた時に来たんだろう。
怒ってる姿も可愛らしく感じてしまう有里栖姉だが、怒らせてしまったことは完全にこちらの落ち度なので申し訳なく思う。
と、そこで彼女はようやく僕以外の存在がいたことに気付いたようで。
「あれ、常坂くんに叶方くん、それに杉並くんまで……つかぬこと聞くけど、悠里をなんか変なことに誘ってないよね?」
僕の腕を引きながらもれなく三人に向けて送られるジト目。鋭いと言うべきか、あるいは『三バカ』と呼ばれる彼らの面目躍如と言うべきか。
対して三人はなんとも曖昧なリアクションで誤魔化しにかかる。杉並は不敵な笑み、叶方は苦笑い、常坂は視線を逸らした。心の中で一致した思いは「悠里のガードが固い理由は主に
個人的には隠さなくてもいいとは思ったのだけれど、なんか無言の圧で「なんとかしろ」と言われた気がしたので追求しそうになった有里栖姉を遮って声をかける。
「有里栖姉、本当にごめん。三人とは僕が一人で歌ってるところを聞かれて少し話してたんだ。……それでね、迷惑かけたお詫びに帰りに月見団子にでも寄ってかない?奢るからさ、ね?」
まっすぐ、手を合わせて頭を下げて謝る。もちろんお詫びも忘れずに。騙すようで良心が少し痛むが、嘘は言ってないので許してほしいところ。
少し待っても反応が見られなかったから頭を上げて有里栖姉を見てみれば、『月見団子』というワードに思いっきり反応したのか喜色に溢れた笑顔を浮かべていた。心なしか、穢れなき碧眼がまるで宝石のようにキラキラと輝いて見える。
そのまま待つこと十秒ほど、ようやく落ち着いたのか有里栖姉がわざとらしくひとつ大きな咳払い。頬が若干赤くなってるのは羞恥からだろうけどあえてツッコんだりはしない、絶対やぶ蛇だから。
「……ま、まあこうして無事に見つかったし悠里がそう言うならこれ以上は何もないよ。三人も変に疑っちゃってごめんね。ってことでそれじゃあ悠里、早く行こ!」
「わ、ちょっ待って有里栖姉!?」
矢継ぎ早に言葉を切ると有里栖姉が僕の手を握って走り出す。
いかにも待ちきれないといった様相で、それはまるで好きなものに向けて駆け出す犬のようだ。その様子からついブンブンと左右に触れる尻尾が見えてしまう。
今にも一直線に駆け出してしまいそうな有里栖姉をどうにかこうにか引き止める。さすがに男子と女子ということで膂力はこちらが上で、簡単に止まってくれた。
首を傾げる有里栖姉をよそに手は繋いだまま三人に向き直ると三人はなんとも微笑ましいものを見る目をしていて、恥ずかしいところを見られたかなと少し苦笑いが出る。
でも、どうしても今伝えておきたいことがあったから。
「杉並、叶方、それに常坂」
これは、自分から歩み出すための第一歩。
自分を変える機会を与えてくれた彼らに。
仲間として。
そして願わくば、友達としての最初の挨拶を。
「改めて、僕は鷺澤悠里。これからよろしくね」
その時の悠里は初めて自分を晒け出すような、柔らかい陽だまりのような笑顔を浮かべていた。
<TIPS>
『鷺澤悠里』
本作主人公。
有里栖の従弟で同い年、お菓子作りはそこそこ出来るが料理は鋭意勉強中。