自分が一番驚いてます。()
「……少し、懐かしい夢だったな」
ピピピッ、とTABから規則的に鳴り響く電子音が意識を覚醒させていく。微睡みで見た夢を思い返して思わず声が出た。
──あれからもう一年か。
三人との少し奇妙な邂逅、そして自分から一歩を踏み出した日。あの時のことは今でも鮮明に思い出せる。と言っても、あの日から一週間後の恋パ当日はある意味では散々たる結果だったわけなんだけども。
ライブ自体は大成功だった。杉並監修のスケジューリングで行われた練習はかなりの密度で、四人で毎日のように音楽室に集まる日々。その甲斐あってかバンドも素人目線では十分な仕上がりになったし、サプライズで登場したおかげか観客のボルテージも他の出し物の比ではなかった気がする。
だったら何が散々だったのかというとそれは単純な話で、
ちなみにゲリラだって知らなかったのは僕だけだった。杉並は当然として二人も言われずとも分かってたみたいで、なんかやたら冷静だと思ったが真相はそういうわけらしい。ちゃっかり逃走ルートを用意してたあたりさすがというかなんというか。
まあ、結果として当日は逃げ遂せたが後日仲良く教師陣に詰められてしまったわけなんだけども。本当に良くも悪くも忘れられない刺激的な一日になったわけだ。
思い出してつい出た苦笑とともに温かい布団の中から右手を天に伸ばす。冬ということもあって少し開けられた窓から来た肌寒さが肌を刺激し、わずかに身震いしてしまう。
「……さて、今日もいこうかな」
毛布をどかして畳んでベッドから降りる。そのまま「んぃー」っと体を一直線に伸ばして戻すと同時に肺に溜まった空気を一息に吐き出した。
窓に近づいてカーテンを開けてみれば映る景色は薄暗く日の出の少し前、時間帯で言えば六時前後といったところ。まあこれはアラームをかけてる時点で分かっていることなので今更ではあるのだけど。
手早く着替えを済ませて動きやすいジャージ姿に。男にしては少々長めのうなじほどまである
「おはようございます。悠里お坊っちゃま」
「
リビングを通りがかると利発的な女性の声が聞こえてきた。
見ればそこには予想通りの人物が柔らかな笑顔を浮かべて恭しくお辞儀をしており、僕も合わせて挨拶を返して頭を下げる。もはや慣例のようになっているいつもの流れだ。
鷺澤家で使用人として住み込みで働いている女性で、食事をはじめとした家事全般をたった一人で担ってくれている。歳は聞いたことがないから憶測ではあるけど見た目は二十代半ばといったところでまだまだ若々しい印象がある。
可純さんが鷺澤家に来てからかれこれ数年近くの付き合いになり、公私共にお世話になった僕たちとしては使用人というより親戚のお姉さんのようなイメージ。最近では可純さんも当初よりも砕けて接してくれるようになった気がする。まあそれでも仕事ではあるからこうして年下の僕にも丁寧でいてくれてるんだけど。
そんな可純さんは面を上げるとパタパタとキッチンまで早歩きで向かい、あるものを取ってくるとそれをそのまま僕に渡してきた。
「こちら、本日の分です。中身は鮭とおかかになっております」
渡されたのはラップに包まれたおにぎりとスポーツドリンク。僕が日課でやっているランニングの際に用意してくれているもので、おにぎりのてっぺんに少しだけ具が見えており一目で分かりやすい、心遣いを感じる一品だ。
「本当に、ありがとうございます。……あの、作っておいてもらってなんですけど、毎日用意しなくてもいいんですよ?お仕事とはいえこんな時間に起こしてしまうのも申し訳ないですし」
現在の時刻は午前六時過ぎ、諸々の準備なんかも加味すると住み込みとはいえ十分早朝出勤と言って差し支えないレベルだ。
可純さんは僕の言葉を聞くと、少しだけ表情を崩して笑うと目を細めて僕の頭に手を置いた。さらりと一度だけ撫でて僕を見る彼女の表情はまるで手のかかる子どもを見ているかのようで。
「お仕事だから、というのは否定しません。ですが、決してそれだけじゃないんですよ?」
「……?」
「……悠里くん、あなたは頑張り屋さんです。学園のことはもちろん、お家のことでも決して手は抜かない、全力で取り組んでる。そんな姿を間近で見て、私も頑張ろうって思えるのです。そんなあなたに、少しでも何かしてあげたいって思った。これは、使用人としてではなく私個人としての感情なんですよ」
そこはかとなく、くすぐったい気持ちになった。胸がザワザワして、じっとしてられなくて、でも嬉しい気持ちはたしかにあって。
真正面から伝えられた言葉と頭に置かれ続けている手に思わず顔が赤くなり、プイッと咄嗟に顔を背ける。
「……恥ずかしいのでやめてください」
「……っふふ、そうですか。それは申し訳ありません」
なんか心の奥底の感情まで見透かされたように暖かい目線を向けて、可純さんは手を離すと一歩下がる。顔を正面に戻して見てみればすでに彼女は使用人としての表情に戻っていた。
そうなればこちらも自然と落ち着いてひとつ深呼吸、しっかりと可純さんにすっかり元に戻った顔を向けて少しほころばせる。
「それじゃあ、いってきます」
「はい、お気をつけていってらっしゃいませ」
◇◇◇
天空に浮かぶ桜、と呼ばれるものがある。
それだけ聞けばなんともメルヘンというかファンタジーというか、いわゆる『幻想的』といったイメージを抱く人たちがほとんどだと思うけれど、実際のところ天空に浮かぶ桜とは言ってしまえば一種の比喩表現だったりする。
周囲が海に囲われたそれなりの大きさの島であるここ『
それなりという言い方をしたのは、香々見島には陸路をつなぐための橋があって、その向こう側に本島が繋がってるから。まあそこが本島と言うだけあって香々見島より大きいのなんの。もちろん
そしてその香々見島に存在する空を写す湖が『
湖の水の純度が高いからなのか何なのか、詳しい理由はあまり知らないけど、水鏡湖の水は空を鏡のように映し出すのが大きな特徴だ。そして、その中央に生えているひとつの大きな桜こそが『天空に浮かぶ桜』と呼ばれているもの。
空を映す水鏡湖の中央に生えた桜だから、天空に浮かぶ桜。
本当に、よく言ったものだと思う。
◇◇◇
「……ふぅ」
いつものランニングコースの折り返し地点である水鏡湖にたどり着くと、ノンストップで走り続けてあがってしまった息をゆっくり整えてひとつ小さく吐き出す。呼吸を落ち着かせるとタオルで汗を拭って水分補給。冬とはいえ汗はかくし冬だからこそ水分補給は重要だ。
といっても香々見島では島中に舞っている『人工妖精』のおかげで本島よりかは幾分か寒さもマシではあるんだけど。人工妖精といい
とまあ時間の変化をにわかに感じつつ完全に呼吸を落ち着けて面を上げてみれば、そこにはちょうど昇った朝日に照らされた『天空に浮かぶ桜』が視界いっぱいに広がっていた。
「……いつ見ても壮観だな」
無論、今は冬なので咲いては舞い散るピンクの花弁は一切咲き誇っておらず、見えるのは幾百、いや幾千もの年月を積み重ねたであろう荘厳たる桜の幹と枝だけ。
無意識に感じてしまう畏怖と敬意。この桜の前では如何に自分が矮小な存在であるかを思い知らされてしまう。
(……思い出すなぁ)
ふと、小さな笑みがこぼれた。
足が自然と桜の木へ向けて進み出す。湖とはいえ、水鏡湖はその全周が一定の水深ではなく場所によって異なっている。体全部が沈む深さもあれば、せいぜい足首に届くかどうかといった浅い部分も存在する。
だから、こうしてその場所さえ分かっていれば生身ひとつで天空に浮かぶ桜の元まで辿り着くことも可能なのだ。
不意に伸ばした右手で、その指先で、桜の幹に触れる。朝の冷気で冷えた樹皮が僅かに体温を奪っていく。
別にそれで何か不思議なことが起きるわけではない。桜の中にいる誰かと話せるわけでもなければ、桜を通じて別の場所にだって行けない。
たしかに世界は不思議で溢れてるのは知ってるし、その証拠に身近にもちょっとだけ不思議な存在もいる。
でも、少なくとも僕はそういったものからは無縁な存在だった。
最近小説で見たトラックに轢かれて転生なんてしてないし、心を読むみたいな生まれつき不思議な力なんて持ち合わせていない。きっとどこにでもいる一般人。
それが分かってても、こうしたくなった。
この場所は、僕にとってとても大事な場所だから。
この桜が、大切な巡り合わせをくれた存在だから。
ありがとうと、感謝を伝えたくなったから。
「……なんて、柄にでもないこと考えちゃったな」
さっきとは違う自嘲気味な笑みで手を離す。
空を見れば境界線から頭だけのぞかせていたはずの太陽がすっかりその全身を晒している。どうやら感慨に耽っている間に随分時間が経っていたらしい。差し込む朝日に顔を手で遮って目を細める。
「そろそろ帰らないと、二人揃って遅刻したらさすがにヤバいかな」
主に皆勤賞的な意味で。
改めてTABで時間を確認してみれば、そこに表示されていたのは今からダッシュで帰宅すればなんとかいつも通りに帰れそうといった感じの時間帯。そして、あの子を起こす役目が僕である以上は僕が遅れてしまえば自動的に道連れである。
まあ究極的には僕が遅れても起こす役は可純さんがどうにかするのだろうが、そうなるとあの子の今日一日の機嫌がどうなるか分からなくなる以上、僕がいくに越したことはない。
トットッ、と軽くジャンプして足の調子を確かめる。
湖に入ったから靴は濡れてしまったけど幸い浸水まではしてないし、ランニングのおかげで体は温まったまま。これなら準備運動も必要ないだろう。
「よしっ!」
足を踏み締め、一呼吸とともに溜めた力を解放。一気に加速して走り出す。
吹き抜ける風に、耳を鳴らす風切り音にどこか心地良さを感じながら、脚を緩めずに帰路までの道を駆け抜けていった。
<TIPS>
『鷺澤悠里』
毎日朝一でランニングするタイプの健康優良児。
運動は得意だが、勉強はいたって平均的で典型的な理数タイプだったりする。