「――ねえ、話聞いてる?」
「え⁉️ あ……! ごめん、聞いてる聞いてる!」
「じゃあ今私はなんて言ったでしょうか?」
「う! いや、それは……その……」
「ほらやっぱり聞いてなかった~」
そう言ってふくれっ面をしてみせる26歳女性。
歳考えなよ。なんて正直に言おうものなら命は無いのは確定なので呑み下す。
そもそも、だ。
敵の――『真流源忍党』の一大計画がいよいよ明日に迫る中、天野純弥はなぜ「昔馴染みのお姉さん」と(以前自分でやったように、仲間達に監視されながら)デートになぞ洒落こんでいるのか。
刻は十数時間前に遡る――。
第拾話 思い出のお姉さん
迅徒本部地下深く、八首の執務室。長机の上には、湾岸倉庫街から持ち帰られた幾つかの血痕と、何よりも重い「情報」が置かれていた。
昨夜の激戦を終え、影角が連行した敵幹部の一人と共に、無事本部へと帰還を果たしていた純弥、維心、御影の三人。
応急処置を受けた維心は、疲労の色などおくびに出さず、いつものようにどこか達観を通り越して冷ややかな表情で八首への報告を行っている。そんな姿に、純弥はやはりプロは違うのだと実感していた。
「――以上です」
維心は、そう淡々と報告を締めくくった。
「捕獲した幹部を尋問したところ、我々の予想通り、儀式は明日 零時に、別の場所で最終調整に入る。詳細は言わなかったが、その場所は『人目を避け、大規模な空間を持つ、外部のノイズが多い場所』とだけ」
純弥は、維心からの情報に、安堵する暇もなく新たな重圧を感じていた。
「場所が特定できていない……」
「その通りだ」
八首は、グラスの氷をカランと鳴らし、静かに確認した。彼の背後、壁に投影された関東一帯の地図には、無数の「フロント企業」や「民間施設」の光点が瞬いている。
「敵は常に、我々の目の前にある『普通』を隠れ蓑にする。大規模な施設となれば、一般人の目にも触れやすい。ゆえに、警備や人の出入りが厳重で、かつ外部から見て何の不審もない場所を選ぶだろう」
八首は、御影に視線を向けた。
「御影君、陸君と協力して、既存のデータすべてを再解析し、不審な動きをしている大規模民間施設を絞り込んでくれ。特に、最近になって突如警備体制が強化された、あるいは休眠状態だったにも関わらず、妙な人員が出入りしている廃墟、工場、倉庫街をリストアップしてくれ」
「了解です」
御影は、何日もまともに寝ていない顔色で、しかしそうとは感じさせぬ指捌きでキーボードを叩き始めた。彼の背後の巨大なモニターに、データ文字列が嵐のように流れ始めた。
八首は、維心にも声をかけた。
「維心君は、念のため治療に専念してくれ。タキ君、明日香君はもう寝なさい。捕獲した幹部の監視は当直の駐忍達に頼むから。純弥君」
純弥は、八首の呼びかけに、背筋を伸ばした。
「君は、御影君の隣で、この解析を手伝ってほしい」
純弥は戸惑いを覚えた。
「俺は…解析は専門ではないですが」
「その『専門ではない』という視点こそが、今必要だ」
八首は言った。
「彼らの手法は専門的すぎる。元一般人の視点――君の持つ、彼らとは異なる視点から、違和感を拾い上げてほしい。敵が『普通』を装っているなら、その『普通』の違和感を最も早く見抜けるのは、君だ」
純弥は、八首からの言葉に、重い決意を胸に刻んだ。昨夜、先輩達と乗り越えた激戦。その果てに手にした情報を活かさねばならないという使命感。そのすべてが、彼を突き動かしていた。
陸達の解析は、数分後、一つの停滞点に達した。
「やはり、絞り込めない…ノイズが多すぎる。東京には、休眠中の大規模施設なんてゴマンとあるんだし」
陸は苛立ちを露わにして言った。
純弥は、モニターに映し出された無数の候補地のロゴを、一つ一つ視線で追っていった。倉庫、工場、再開発予定地、港湾施設…。すべてが、純弥にとっては見慣れない、無機質な記号の羅列だった。
しかし、その中で、一つのロゴが、純弥の目に飛び込んできた。
「…………これ」
純弥が、画面を指さした。
「鏑木グループの所有地。大規模な倉庫街と、十年以上前に閉鎖されたベイエリアの工場跡地。再開発が頓挫している場所ですね。警備記録は特になし。それがどうかしましたか?」
陸は、データ的な優位性が見つからない情報に、首を傾げた。
純弥の心臓が、ドクン、と大きく脈打った。
「鏑木恵美理。昔の――知り合いの、お父さんの会社です」
『鏑木グループ』は、東京のインフラ整備にも関わる大手企業だが、数年前から経営が悪化していると聞いていた。
御影が、すぐに反応した。
「なるほど、経営難の企業であれば、秘密裏に施設を貸し出すことへの抵抗が薄いかもしれない。しかもベイエリアの工場跡地。人目を避けやすく、儀式を行うには理想的な広さですね」
「ですが、警備記録がない。警戒するなら、逆に記録を残さないはずがないのでは?」陸は、アナライズのプロとして反論した。
純弥は、過去の記憶を必死に辿った。恵美理が、時折、父親の会社の悩みをこぼしていたことを思い出す。
「記録が『なし』なんじゃなくて、記録されない警備があるのかもしれない。鏑木グループが直接雇ったものではない、裏の『借り手』による、厳戒態勢……」
純弥の推測は、陸達の持つデータ解析技術では決して到達できない、「一般人としての視点」だった。
八首は、純弥の前に立った。
「純弥君。君の洞察は、最有力候補を指し示した。だが、確証が足りない」
八首は、純弥の目を見据えた。
「君に、極秘の任務を命じる」
『極秘』。その言葉の重大性から漂うプレッシャーに、純弥は笑みさえ浮かべそうになった。昨夜は失敗に終わった、『ヤツら』へ牙を突き立てる好機が、再び巡って来たのだ。上等だ。どんな事でもやってやる……!
そう心に誓い、純弥は背筋を伸ばし、八首の次の言葉を待った。
「鏑木恵美理君とデートしてきなさい」
「は?」
純弥の意気込みというバットは見事にストライクを極められた。
「まあ、正確には『デート』という名目の調査任務だけどね。彼女の父親の会社の土地が、敵の最有力アジト候補となっている。彼女から、その施設の最近の警備状況や人の出入りについて、それとなく聞き出してほしい」
また八首に揶揄われたと思っていた純弥は、続く言葉に顔から血の気が引く。一般人を、特に〝彼女〟を任務に利用するという行為は、彼にとっての『暖かく、輝かしい過去』を、自ら踏みにじるに等しい行為だったからだ。何故なら。彼女は純弥の――。
「危険すぎます」
純弥は、震える声で言った。小泉ほのかの命運が賭けられた時のタキの気持ちが分かった。
「もし、彼女が…」
「純弥君、これは時間のない我々にとって、最もリスクが少なく、最も効果的な情報収集手段だ。君は、化忍としての力ではなく、天野純弥という元一般人としての過去を武器にするんだ」
再度掛けられた八首のその言葉が、純弥の心を抉る。
「ならば、彼女を危険に晒すわけにはいかないという君の理性で、任務を遂行したまえ。真の化忍とは、敵の心臓を穿つだけでなく、無辜の人々を守るために、心を鬼に変化できる者だ」
八首は、純弥の肩を叩いた。
「行ってきなさい。そして、人々の日常を守るための、最後のピースを持ち帰るんだ」
純弥は、葛藤の末、深く頭を下げた。
「……承知しました。必ず、情報を持ち帰ります」
「ひゅーひゅー。任務とはいえ年上お姉さんとデート出来るとか、やっぱ〝持って
る〟ねー、この主人公野郎?」
まるで泥沼の中にいるように重たい純弥の気も知らず、キラは囃し立ててくる。
「まあ、あくまで任務なんだししょうがないよな? ······いや、やっぱなんか変だぞお前。女性が苦手って訳でもあるまいし、なんでそんなに沈んでんだよ?」
タキは純弥の異変に気付くものの、その正体までは行き着けず、困惑していた。
――なお余談だが、既に小泉ほのかという彼女をゲットした優越感故の優しさであり、もし独り身のままだったら「そうだ!羨ましいぞこの主人公野郎‼️」とキラと同調し激昂していた未来もあったのだが、今は関係ない話だ。
「そうそう。タキの言う通りしょうがないの。だって――」
「あちょっ、バカ、おま――」
純弥が明日香の口を塞ごうとするが、時既に遅し。
「鏑木恵美理さん。純弥の〝初恋の人〟だもんね〜?」
「「Fooooooooooooo‼️」」
「『えみねぇだいすき〜!』だったもんね〜?」
「「かああああわああああいーーーーいいいいい」」
それから数刻の間、男二人組《アホ共》に揉みくちゃにされる純弥であった。
そして夕刻。
あれから純弥は、八首からの任通り、恵美理に連絡を取った。
待ち合わせ場所は、新宿の映画館前。純弥が先に到着し、少し離れた人混みの中に、恵美理の姿を見つけた時。
「――っ!」
純弥の中に任務を、そしてこの二月あまりの間に起きた激闘を忘れるほどの一瞬の安堵、そしてもう消えたと思い込んでいた熱情が広がった。
「純ちゃ〜ん! 久しぶり~!」
恵美理は、小走りに駆け寄ってきて、数年ぶりに会う純弥の顔を心配そうに覗き込んだ。
「もう!急に連絡してくるんだから。それに、なんか顔色悪くない?隈もあるし。――いや、仕方ないよね? あんなことあったんだもん……」
あの入学式に起きた惨劇は、真相を隠してではあるもののニュースになっている。恵美理も当然知っているはずだ。
純弥の方は、それに乱されそうになる心と、この「任務」の重圧を隠し、努めて明るく笑った。
「はは、バレちった。まあ、それもあって、ちょっと滅入っててさ。そしたら急に、エミねぇの顔が見たくなって……って! いきなり重いよな⁉️ ごめん! だから、そのええっと……」
「ううん。大丈夫大丈夫! じゃあ、今日は私が思いっきし純ちゃんを癒してあげる!」
そう言って恵美理は微笑んだ。その笑顔は、純弥の最も輝かしい思い出そのままで――しかし何故か巨大な河を挟んでいるかのようにぼやけて見えもした。
二人はカフェに入り、他愛のない話を――保育園から小学校までの純弥の〝やらかした〟話をした。
「――でさでさ! やっぱりあれだよねハイライトは。〝明日香ちゃんにプロポーズ事件〟‼️」
「もおおおおその話は勘弁してくれったらあああああ」
純弥は身を捩り、耳まで真っ赤にしながら恵美理に泣き付く。特にタキ、キラ、明日香というイツメンにウォッチされて――全部聞かれているのも気配で察しているので余計にだった。
「〝プロポーズ〟か……やはりとんでもねー主人公野郎だったな」
キラは呆れ半分賞賛半分といった様子で純弥を評する。
「え?え、え? 想像以上に良い感じになって来てるぞ? あの二人」
「……うん。すごい安らげてるよね。純弥」
「いや、……うん。じゃなくてさ! 良いのかよ? このままじゃ純弥ゲットされてしまうぞ⁉️」
古馴染みトリオの一角として、幼馴染み二人によるカップリングを望むタキが明日香に警告するが、何故か明日香は達観したような表情を浮かべるだけで、それどころか恵美理との仲を推しているようにさえ見える。
「………まさかとは思うけど、お前……」
タキはいよいよ核心に迫る問いを投げる。それに明日香は――
「………うん。あたしには、その資格無いから……」
そう、諦めるように呟くだけだった。
「はて? 今のどっかの誰かさんの物言いに似てたぞ?」
「だあああ……ホントお似合いの二人だよ……面倒くさ!」
キラは首を傾げるだけだが、〝知っている〟タキは純弥と明日香の〝自罰カップル〟に心底呆れ果てて頭を掻き毟るのだった。
一方、純弥の方も恵美理との談笑を楽しみながらも、その内心には罪悪感が居座っていた。
(利用している。俺は、彼女の信頼を裏切っている)
ただの天野純弥として恵美理に癒された傍から、化忍・隠牙としての使命に彼女を巻き込んでいる事実に同じだけ削られる。そのイタチごっこで想像以上の疲弊を強いられ、その結果。
「――ねえ、 話聞いてる?」
「え⁉️ あ……!」
そして刻は戻り――
「そういえばさ、純ちゃん。ちょっと変な話なんだけど」
恵美理が、カフェラテの泡を拭いながら、話を切り出した。
ついに来た――純弥の背筋が伸びた。
「うん、どうした?」
「うちの父の会社――鏑木グループのベイエリアにある古い倉庫街と工場跡地のことなんだけど。再開発が頓挫してる、あの誰も使ってない場所」
純弥は、自然な表情を保ち、相槌を打った。
「ああ、聞いたことあるよ。あの広いところでしょ?」
「そうなの。そこ、ずっと警備も最低限だったらしいんだけど、最近になって、急に夜間だけ、すごく厳重な警備が敷かれ始めたらしいの」
恵美理は、不安そうに続けた。
「しかも、警備会社も、私たちが契約してる会社じゃない、全然知らない会社で。いかにもピリピリした、体格のいい人たちばかりで、お父さんの秘書さんも『夜には絶対近づくな』って言われたって。何か、キナ臭い取引でもしてるのかなって、社内で噂になってるの」
純弥の心臓が、激しく高鳴った。八首と御影が求めていた「違和感」そのものだ。
夜間、外部の厳重な警備。それは、源忍党が、人目を避けた最終調整の場として、その施設を借り上げている可能性が高い。
「そうか…。大変だね。エミねぇの会社が変なトラブルに巻き込まれてないといいけど」
純弥は、あくまで心配そうな友人の顔で言った。
「うん。でも、純ちゃんに話を聞いてもらって、ちょっとスッキリしたよ」
恵美理は微笑んだ。
純弥は、情報を得たことで、任務の遂行と同時に、彼女の安全が最優先だと考えた。これ以上、彼女を任務の場に留まらせることはできない。
映画を見て、夕食を共にした後、二人は駅へ向かった。
「じゃあ、私、ここで」
恵美理が、自宅の最寄り駅前で立ち止まった。
「ああ。今日はありがとう、エミねぇ」
純弥は、彼女の手を握り、すぐに離した。
「こちらこそ。また連絡してね」
「もちろん」
嘘だ。
もうタキのようにはいかない。彼女まで〝こちら〟側に招き入れる訳にはいかない。
だからもう。彼女とは本当にここで、今生の別れ。
――そこまで考えた途端、純弥の身体は理性を振り切り、またしても〝やらかした。〟
立ち去ろうとした恵美理の手を、再び掴んでいた。
「? 純ちゃん?」
「……ずっと。小学校が別れるまでずっと。言いそびれてたことがある……」
一泊の間を置き、しかし毅然と震えもせず、純弥は告げた。
「鏑木恵美理さん。俺は。あなたのことが、ずっと好きでした」
「……」
暫しの沈黙のあと、やがて彼女は――くすっ、と笑った。
「〝でした〟って。過去形とか。なーんだ。フラれたのか、私」
「……う」
「引き止めてくるからちょっと期待しちゃったよ! まったくう……
お父さん亡くしたばかりの独り身の女に追い討ち掛けるとか。純ちゃんの鬼畜」
「うううううううう‼️」
ギネス級のやらかしを犯したことを悟り、消えてしまいたくなる純弥であった。
「ふふ。まあ、最初にあのこと言っちゃって実は気にしてたから、これでおあいこってことで。じゃ、今度こそバイバイ」
純弥は、彼女の姿が見えなくなるまで、動かなかった。
そして。
(これで、大丈夫だ。情報を得た。彼女はもう、任務とは無関係だ)
純弥は化忍の思考に切り替え、急いで本部へ向かうため、キラを呼び出した。
純弥が本部へ戻るためバイクを走らせている最中、御影達は純弥からの情報をもとに、鏑木グループの旧第3湾岸倉庫を最終アジトとして特定していた。
「確定です!純弥君の情報と、不審な霊子反応のデータが完全に一致しました!」
陸は興奮気味に叫んだ。
「警備の動きが、特定の周波数帯の霊子波を遮断する目的で設置された結界のパターンと酷似している。ターゲットは、鏑木グループの旧第3湾岸倉庫。明日零時、儀式はそこで行われます!」
八首は、椅子から立ち上がった。
「全隊招集。最終作戦のブリーフィングを開始する。維心君、君もだ。純弥君が戻り次第、すぐに作戦を開始する」
維心は、純弥の成功に、深く頷いた。
「天野純弥の…否、隠牙の戦いは、常に核心を突く。奴らのアジトを特定できた。あとは、力ずくで儀式を止め、捕獲した幹部から吐かせた情報で、頭領を叩くだけだ」
その時、本部へと急いで帰投していた純弥から、御影の通信機に、音声信号が届いた。
『御影さん、聞こえますか!ターゲットは鏑木の倉庫街!夜間の警備に注意してください!』
「聞こえてます!純弥君、ご苦労でした。すぐに戻ってください、作戦ブリーフィングを開始します!」
『了解…これで、エミねぇの安全も……』
純弥が、安堵の言葉を漏らした、その瞬間だった。
御影のメインモニター、そして純弥の通信機にも搭載されている『隠牙追跡用』のサテライト・ナビゲーション・システムが、突如として赤色の警報サインを点滅させ始めた。
その追跡システムは、本来、純弥が変身した際に、その霊子反応を追尾するためのものだ。だが、今、画面が示しているのは、先程別れた恵美理の自宅周辺だった。
ナビゲーション上に表示されたのは、純弥の霊子反応を示すものではなく、「異常な霊子濃度の急速な上昇」を示すサインだった。
「これ、ただの夜叉の霊子反応じゃない。源忍の幹部クラスの…反応だ!」
陸が震える声で叫んだ。
御影の顔色が一変する。
「まさか……純弥君、デート中に敵に感づかれたのか⁉️」
『そんなはずは!俺は、一切変身していない!ただの一般人として振舞った!』
純弥の絶叫が、通信機越しに響いた。
敵は、純弥が鏑木グループの土地を特定したことを、恵美理との「デート」という行動から察知したのだ。純弥の安堵と油断は、敵にとって最大の好機となった。
そして、その警報サインに続き、純弥が持っていた本部支給の最新型通信機から、微かな音声信号が漏れ始めた。それは、恵美理が純弥に別れを告げた場所の、わずか数十メートル先で録音された、環境音だった。
夜の静かな住宅街。恵美理は、純弥との久しぶりの再会に、心が満たされていた。
(純ちゃん、元気そうでよかった。やらかすのは相変わらずだったけど……でもやっぱり、あの笑顔を見ると、安心するんだよねぇ)
彼女が自宅の門をくぐり、鍵を取り出そうとした、その瞬間だった。
背後から、冷たい男の声が響いた。
「随分と、良い時間を過ごされたようだね。天野純弥の、初恋の人」
恵美理は、驚いて振り向いた。そこに立っていたのは、黒い特殊部隊めいた格好に身を包んだ、長身の男だった。その顔の半分は、冷酷な笑みを浮かべた般若の面で隠され、残りの半分には、鋭い獣のような光を宿した瞳が覗いていた。まさしく、源忍党の幹部クラスの一人。
恵美理は、恐怖で声が出ない。
「な、な…だ、誰…」
「怖がることはない。鏑木恵美理君。君は、最高の働きをした。君の何気ない天野純弥への一言のお陰で、我々は、予定通り明日零時の儀式を迎えられる」
源忍は、嘲笑するように言った。
幹部の口から自分の名前が出たことに、恵美理の背筋が凍りついた。彼は、ただの強盗や不審者ではない。純弥を知っている。自分の存在を知っている。
「どういう意味よ…純ちゃんに、何の関わりがあるの⁉️」
恵美理が叫んだ瞬間、幹部は冷笑を深めた。
「君は、君自身が持つ『情報』という名の毒を、天野純弥に盛った。我々が最も警戒していたアジトの場所を、彼は君の口から聞き出した。残念ながら、彼は君を利用した罪悪感と君への愛という、化忍として最も不必要な感情に囚われすぎた」
「彼は、君を『守りたい日常』の象徴として見ている。そして、化忍としては致命的なことに、君を任務に利用した罪悪感で、今頃、本部に逃げ帰っているだろう」
幹部は、恵美理の細い腕を、力強く掴んだ。
「君は、彼にとっての『暖かな日常』の象徴であり、『最後の聖域』そのものだ。真醒者・隠牙の心を、制御不能な怒りと絶望で操るには、君が最高の駒だ。そう――」
恵美理の口から、微かな悲鳴が漏れた。
その悲鳴と、恵美理が持っていた携帯からのわずかな衝撃音、そして幹部の冷酷な声が、本部・八首の執務室の通信機に届いた。
「最高の『人質』だ」
通信機から聞こえたその言葉に、純弥の全身の血が、一瞬で凍りついた。
「エミねぇ……っ!」
純弥は、バイクをUターンさせ、全速力で恵美理の自宅へと引き返した。
『任務に利用した罪悪感』。『彼女の安全を確保したという根拠の無い油断』。
その全てが、敵の罠だった。
純弥は、恵美理の自宅へ到着すると、メットを投げ捨て、周囲を髪が振り乱れるほど見回し、そして見付けた。
地面に、まるで嘲笑うかのように置かれた、いくつかの私物。
恵美理がいつも持っていた、小さなマスコットキーホルダ―。
そして、幼き日、純弥がプレゼントした、銀のピン。
それらを火種として、全身の理性を焼き尽くさんばかりの、激しい怒りと絶望を、純弥は夜空に叩きつけた。
「恵美理――っ‼️」
それは、父と友、そして初恋の人をも失った絶望に心を支配された、血を吐き出すにも似た咆哮だった。
純弥の叫びが夜の闇に木霊し、しかし一瞬にして呑み込まれて訪れた静寂の中。通信機から、八首の冷たい声が響いた。
「……純弥君。落ち着け。儀式は明日零時。敵は人質を得たことで、必ず油断する。我々は、奴らのアジトを特定した。その感情は、怒りは。恵美理君を助け出すための、最後の切り札として、今は忍ばせておくんだ」
純弥は、その言葉を聞いて、数泊の深呼吸で息を整えると、なお怒りと、後悔に歪んだ顔で、ゆっくりと、しかし確かな決意を宿した目で、夜闇を見つめた。
すべてを奪い返す。その為に――
七五