「純ちゃんはさ、将来どうなりたい?」
「きまってんじゃん!」
〝おれ〟はエミねぇの問いに迷うことなく答えた。
「せいぎのみかた! これ、いったく!」
一択!と宣言すると共に、人差し指を天を衝かんばかりに、高々と掲げる!
本当に天に、太陽に届き、人差し指に焼き付くさんばかりの熱が宿る。
「とどいた! とどいたよ、エミねぇ‼️」
興奮気味の〝おれ〟に、エミねぇはくすくすと笑いながら「当たり前じゃん」と答える。「だって純ちゃんは――」
私のお父さんとたくさんの人の死体の上に立ってるんだから。
そう言われて足元を見ると、〝鏑木おじさん〟をはじめとした夥しい苦悶の表情を浮かべた、赤黒い亡骸の山の上に立っていた。
「吸引!圧迫止血続行!血圧急降下!準備できた?メス!」
甲高い金属音と、医師たちの張り詰めた声が、オペ室全体を支配していた照明は煌々
と手術台の上を照らし、張り付くような消毒液の匂いが鼻をつく。
手術台の上に横たわるのは、鳩尾に風穴を開けられた、天野純弥だった。
顔は青白く、夥しい量の血が流出した痕跡が生々しく残る、瀕死の重傷患者だ。
純弥の心電図モニターからは、不安を煽るような、速く、不安定な電子音が鳴り響いている。
術野の端。マスクとガウンに身を包んだタキは、呼吸器と麻酔器の補助作業をしながら、その光景をただ見ていることしかできなかった。
タキは今日まで、彼らが住む世界の陰で脈々と受け継がれてきた「医療忍術」を学ん
できた。普通の医師には見えない、生体内の気の流れやP霊子の乱れを感知し、治癒
を促す術だ。
しかし、このリアリティの世界での、物理的な損傷――臓器の破裂、大量出血――といった重傷を目の前にして、タキの学んだ未熟な術は、何の役にも立たない。
(ダメだ、血が止まらない······! 胸部の損傷が深すぎる! こんな時こそ、俺の術で······!)
タキの掌には、純弥の生命の灯を感知するP霊子が僅かに灯りかけている。だが、その微弱な光は、術野から飛び散る鮮血と、無数の医療機器の冷たい光に、かき消されそうになっていた。
彼は、傍らにある術具棚を握りしめた。タキが許されているのは、「ガーゼを渡す」、「点滴の交換を確認する」、「機器の数値を確認する」といった補助作業だけだ。
「坊や! 次のガーゼを!」
青シタの指示が飛ぶ。タキは、その声に弾かれたように反応し、手袋をした手で新しい滅菌ガーゼのパックを掴み、渡す。
「はい!」
その一連の動作は迅速で正確だったが、彼の胸の奥は、鉛のように重い無力感で満たされていた。
(こんな、簡単な作業じゃ······! 目の前で、純弥が死にかけているのに! 俺が医療忍術を学んだのは、こういう時のためじゃなかったのか⁉️)
「心拍数低下! 除細動器、準備して!」
――クソッ!
タキは心の中で悪態をついた。彼の医療忍術が、純弥の身体の穴を塞ぎ、失われた血を瞬時に再生できれば、どれほど良いか。しかし、現実は冷酷だ。
タキの掌に、誰も気づかないほどの緑色の微かな光が灯り、すぐに消えた。
未熟すぎる。彼の術は、この重症を前にして、無意味な祈りでしかなかった。彼は、ただひたすらに、純弥の生命を支える機器の数値と、ベテラン医師たちの熟練の動きに、未来を託すしかなかった。
「まだだ、純弥! まだ、諦めるな! お前が目指したヒーローは、ここで終わったりしないだろう!」
タキの絞り出すような叫びは、サージカルマスクと、術中の雑音によって、誰にも届くことはなかった。
第拾二話 終わりに見えたもの《上》
もっとも古い記憶とは何かと問われると、大体これに帰結する。
「こんな奴らの為に! これ以上誰かの涙は見たくない! みんなに笑顔で、いて欲しいんです! だから見てて下さい! 俺の!」
「変身‼️」
「かーーーーっこい〜〜〜〜~······」
TV番組・『仮面ライダークウガ』。〝13年前〟に放送され、大ブレイク。今でもカルト的人気を誇る伝説的特撮番組だ。
だが、その人気と裏腹に、〝協会を本当に燃やした〟などの赤字を恐れぬ――恐れ無さすぎるその無茶な番組作りは、〝えらいひと〟達の逆鱗に触れ、以降、シリーズは作られなかったという曰く付きの番組でもある。
でも良いんだ。この作品は作られただけでも価値がある。お客様目線に過ぎないが、雲の上の事情など知らないんだから、そう言い続けてやる。そう、一生だ。
ようはそのぐらいドハマりしていた〝おれ〟こと天野純弥、当時五歳だった。
「ほーら、純弥ー⁉️ いい加減支度しろー? 時間だぞー」
「あとごふん!」
「そんなに待てませーん! ほれ、早くする!」
「······うううう。はーい······」
そして飽きもせず暇さえあれば『クウガ』を見まくっては〝父さん〟を困らせる。それが、幼き日の天野純弥の日常だった。
純弥は渋々テレビの前から離れた。
父さんに背を向ける。その瞬間に、純弥は右手を小さく握りしめた。テレビの中でクウガが最後に変身解除して皆に笑顔を見せた時の、あの親指を立てるポーズ――サムズアップだ。
「よし!今日も頑張ろう!」
変身ヒーローごっこは、純弥の気合入れでもあった。
洗面所に向かうと、鏡の中に、髪を乱雑に掻き上げた自分が見えた。五歳とは思えないほどの強い眼差し。それは、先ほどまでテレビで見ていた五代雄介……クウガを演じる主人公の、まっすぐな決意を写そうとしているかのように見えた。
「よーっし。今日は、幼稚園で、みんなを、笑顔にする!」
鏡に向かってそう誓いを立てて、歯ブラシを手に取った。クウガの信念は、「誰かの笑顔」を守ること。純弥は、それを日常生活の小さなミッションとして課していた。
朝食はトーストと目玉焼き。純弥は、テレビを見ながら食べるのが好きだったが、今日は父さんが厳しく見張っている。
「純弥、テレビは消したぞ。しっかり食べて、幼稚園遅れるなよ」
「はーい……」
仕方なくトーストを一口齧る。サクッとした食感。その時、純弥の耳に、ラジオのニュース番組の音声が微かに届いた。
『……今朝早く、東京・新宿区の路上で、黒い奇妙な模様の入った物体が発見されました。警察が鑑定を急いでいます……』
「なんだろ、それ」
純弥は思わず顔を上げた。黒い奇妙な模様……何となく、頭の中で、テレビの中でクウガが戦っていた「グロンギ」という怪人の出す模様を連想してしまった。
「純弥、よそ見しない!早く食べなさい!」
「あ、ごめん、父さん!」
慌てて目玉焼きを口に運び、飲み込む。そんな些細なニュースは、五歳の純弥の日常に、まだ何の影も落とさない。ただ、彼の胸の奥で燻る「ヒーローの血」を、わずかに刺激しただけだった。
「ごちそうさまでした!」
純弥は椅子から飛び降りると、玄関へ駆けていった。そこに置いてあるのは、鮮やかな赤色のリュックサック。
それを見た父さんが、にこやかに言った。
「今日は、クウガに会えるといいな」
「うん‼️」
純弥は元気よく頷くと、リュックを背負い、父さんに手を引かれ幼稚園へと向かった。
いつもの賑やかな教室。しかし、朝の集いの時間、空気がいつもと違うことに純弥はすぐに気づいた。みんなの視線が一箇所に集まっている。
「みんなー、静かにしてね。今日から、新しいお友達がこのたんぽぽ組に来てくれましたよ」
担任の先生が、一人の女の子の手を引いて教壇の前に立った。
純弥は目を丸くした。
そこに立っていたのは、魅上明日香(みかみあすか)という名の転入生だった。
名前を呼ばれた明日香は、小さな身体をきゅっと縮こまらせて立っていた。顔は下を向いたままで、黒い髪がその表情を覆い隠している。
純弥の周りの子どもたちが「お人形さんみたい」「かわいいね」と囁き合う中でも、明日香は微動だにしない。
先生が「みんなにご挨拶しようね」と優しく促しても、明日香は小さな声で「……よろしく、おねがいします」と呟くだけ。その声には、五歳の子どもらしい明るさが全くなく、水底に沈んだような陰があった。
(あ……あの子、笑ってない)
純弥のヒーローセンサーが、けたたましく警報を鳴らした。
クウガの信念――「みんなに笑顔で、いて欲しい」。
その信念に従う純弥にとって、目の前で「笑顔」を失っている子がいることは、何よりも重大な事件だった。
明日香が先生に案内され、純弥の前の席に座った。純弥は、勇気を出して身を乗り出した。
「あのね! お名前、明日香ちゃんだってね! 俺、天野純弥っていうの! あのね、あのね!」
純弥はリュックを降ろすと、ポケットから昨日父さんに買ってもらったばかりのクウガのカードを取り出した。
「俺ね、仮面ライダークウガが大大大好きなんだ! クウガはね、変身して、悪いやつをやっつけて、みんなを助けるの! 明日香ちゃんも、クウガ見たらきっと笑顔になれるよ!」
純弥は、満面の笑みでカードを明日香の顔の前に差し出した。彼の持っている最高の「笑顔の素」だった。
しかし、明日香は顔を上げない。それどころか。
彼女は、差し出されたクウガのカードを、まるで汚いものかのように、そっと手で払いのけた。
純弥の顔から、ぱっと笑顔が消えた。カードは床に落ち、クウガの勇ましい姿が描かれた表面が、純弥から見えないように裏返ってしまった。
明日香は、初めて純弥の目を見た。その目は、五歳とは思えないほど冷たく、虚無的だった。
「…………いらない」
明日香は、か細い声で、だがはっきりと、そう言った。
「そんなヒーローなんて、いらない。ヒーローは、なんにも助けてくれないから」
彼女はそう言い放つと、再び顔を膝に埋め、沈黙してしまった。純弥は、床に落ちたクウガのカードを、呆然と見つめるしかなかった。
純弥の最も古い記憶であり、彼の世界の全てである「ヒーロー」が、目の前の女の子によって一瞬で否定された瞬間だった。
――が、それがどうしたと言う⁉️
クウガは未確認生命体に間違われ、警察から撃たれてしまったが、それでも五代雄介は笑顔を絶やさず、最後まで戦い抜いた!
ならば自分も、彼女の笑顔を取り戻す為に戦うんだ!
「ようしっ!」
その日から純弥の、孤独だが、熱き戦いが幕を開けた。
その日の昼食の時間。
純弥は、給食のトレーを運びながら、明日香の席をこっそり観察した。彼女は、隅の席で、相変わらず黙って座っている。給食当番が運んできた小さな皿のリンゴさえ、手付かずのままだった。
(まず、お腹を空かせた人がいたら、クウガならどうする?)
クウガこと五代雄介は、冒険家であり、たくさんの場所でたくさんの人に出会い、旅先で美味しいものを作るのが得意な人だった。
純弥は、自分のトレイから、大好物の真っ赤なリンゴを、一つだけ抜き取った。
そして、勇気を振り絞って明日香の席へと向かう。
「明日香ちゃん! あのね、これ!」
純弥は、自分のリンゴを明日香のトレイに、そっと置いた。明日香は、リンゴの赤さに驚いたように、僅かに顔を上げる。
「俺のリンゴは、すっごく甘いんだ! これ食べたら、笑顔になれるよ!」
純弥は、最高の笑顔を向ける。彼にとって、これは「必殺技」を繰り出すのと同じくらい、勇気のいる行為だった。
明日香は、そのリンゴと、純弥の顔を交互に見た。そして、表情一つ変えずに、静かに言った。
「いらない。だって、自分の分を食べればいいのに。なんで、私にくれるの」
「え?だって……」
「だって、あなたのじゃん」
明日香は、自分のトレイの上にあるリンゴにも触れず、純弥の持ってきたリンゴにも触れなかった。その目には、純弥の「善意」を理解できない、あるいは信じられないという、警戒心が張り付いていた。
「······あ」
純弥は、固まってしまった。クウガのように、ただ笑顔で差し出せば、受け入れてもらえると思っていた。自分の「優しさ」が、こんなにもあっさり拒否されるとは、想像していなかった。
明日香は、無言で純弥のリンゴを、トレイの端に押しやった。
それは、まるで、純弥の「ヒーロー精神」を、邪魔な石ころのように扱っているかのようだった。
純弥は、肩を落として自分の席に戻った。リンゴが一つないトレイは、彼の心と同じように、なんだかぽっかりと穴が空いたようだった。が、すぐに気持ちを切り替える。
(······くっ。最初の攻撃は、失敗だ。でも、クウガは、一度や二度で諦めない! 彼は、「みんなを笑顔にする」っていう、もっと難しい夢に挑戦し続けたんだ!)
純弥は、残りの給食をかきこみながら、次の作戦を練り始めた。彼女の笑顔を取
戻すまでは、絶対に、諦めない。五歳のヒーローの熱は、拒絶という冷たい壁にぶつかっても、消えることはなかった。
そして純弥の孤独な戦いが始まって、すでに一週間。
リンゴ以降も、折り紙で作った花の飾り、得意の変身ポーズの披露。全てが、明日香の「いらない」「つまらない」という一言で、無惨に撃退された。
他の子どもたちは、明日香を「面白くない子」として遠巻きに見るようになり、純弥だけが、まるで見えない未確認生命体と戦うクウガのように、一人、明日香に立ち向かい続けていた。
だが純弥は知っていた。クウガが本当に強かったのは、優しさと、そして「誰かを守る」という決意があったからだと。
(こーなったら······よし、これだ。これしかない!)
純弥は、次の休み時間、ポケットの中で、固く握りしめた「最終兵器」を確認した。それは、父さんの作業場からこっそり借りてきた、ピカピカに磨かれた真鍮製の小
さなワッシャー(座金)だった。
見た目はまるで、黄金の指輪のようだ。
純弥は、震える脚を叱咤して、園庭の隅で砂遊びをしている明日香の元へ向かった。彼女は、ただ無言で砂を積み上げているだけで、「遊び」の要素はどこにもない。
純弥は、明日香の正面に、堂々と立った。
「明日香ちゃん!」
その声に、明日香は、少しだけ戸惑ったように顔を上げた。
「……また、何か変なのを持ってきたの?」
その冷ややかな言葉に、純弥の胸はチクリと痛んだが、彼はクウガのセリフを思い出し、決意を揺るがせなかった。
「違う! これは、変なものじゃない! これは、俺の……俺の、決意だ!」
純弥は、強く握っていたワッシャーを、明日香の目の前に差し出した。太陽の光を反射し、小さな輪がキラキラと輝いている。
「明日香ちゃん! あのね、俺はね、明日香ちゃんが笑ってないのが、すっごく嫌なんだ!」
純弥は、自分の熱い思いを、五歳の言葉で精一杯ぶつけた。
「俺は、正義の味方になる! そして、世界中のみんなの笑顔を守るんだ! でも、その一番最初は、明日香ちゃんだ!」
そして、純弥はワッシャーを差し出したまま、「必殺技」を繰り出した‼️
「だから! 俺が、明日香ちゃんのヒーローになる! いつか、明日香ちゃんが一番笑えるようになるまで、ずっと傍にいて、守る! だから……
俺と、結婚して!
家族になろう!」
純弥は輝かんばかりの笑顔でそう言った。園庭で遊んでいた何人かの子どもたちが、好奇の目を向けている。
明日香は、差し出された「黄金の指輪」と、真剣な純弥の顔を、長い間、見つめた。その冷たい目の奥に、ほんの一瞬だけ、〝何か〟が揺らめいたように見えた。
「それは、俺の命よりも大事な、変身アイテムだ! 大事にして!」
そしてフィニッシュブローたる、サムズアップをして見せる。
ここまで言ったんだ。明日香の心にも何か伝わったはず。
そう確信した純弥であったが――現実は甘くなかった。
「·········じゃないの」
明日香がボソッと何か言っている。
「え、あ、ごめん! もう一度言っ」
「ばッッッッかじゃないのおおおおお⁉️」
明日香の怒号と共に豪風が吹き荒れ、純弥はその風圧で、「顔の表皮が捲れそうになる例のあの現象」を食らった。
そして怒号が一旦止むと、明日香が顔を上げ、初めて純弥を真正面から見据えたことで、純弥は先程一瞬見えた明日香の目の奥で揺らめいたものの正体が分かった。
あの揺らめき、それは――怒りの炎だったのだ。
「なんってことしてくれたのアンタぁ⁉️ プロポーズってのはねえ、オトメにとっての、いっせいいちだいの、大切なイベントなの‼️ それをアンタ······はじめての相手がアンタになっちゃったじゃないのよ‼️ このバカ‼️ ヒーローオタク‼️ 信じらんない‼️ 二度と話し掛けないで‼️」
明日香はそう言うと踵を返してドカドカと歩き去っていった。
ちなみに、その目の端には涙も浮いていたので――
「······なーかしたーなーかしたー。せーんせーにーいってやろうー」
お馴染みのあのコールも浴びて、さすがの純弥も崩れ落ちるのだった。
さらに悪いことに······。
「え⁉️ プロポーズって好きな人にしか言っちゃいけないの⁉️」
幼い純弥には、家族になれるおまじないみたいな認識であり、その相手を好きである必要があるとは寝耳に水だった。そう、なんと言ったって、〝この頃の〟純弥の好きな相手は······
「そうなんだよ〜? あーあ、純ちゃん二股かー······おねーちゃんかなしー」
しくしく、と嘘泣きし始めた英美里を見て、純弥は。
「······うっうぅ、ひっく、ご、めんエミねぇええ、おれ、さい、てーだぁ······」
ガチ泣きし始めた。
「わあああああ⁉️ ごめんごめん冗談! 冗談だから!」
英美里は必死に純弥をあやすのだった。
「この頃は本当に文句なしに可愛いかったよねえ? ねえ、純ちゃん?」
女郎蜘蛛夜叉と化した英美里が語りかけてくる。そんな彼女の足元で、青年の純弥は膝を抱え込み、そこに顔を埋めながら髪を握り締めていた。
タキは変わらず絶望の底で、何十倍にも引き延ばされたような時間の中、だが指示を忠実にこなしていた。
――そして、七時間に及ぶ死闘の末。
「······メス、納刀」
執刀医の、絞り出すような、だが確かな声が響き渡った。
「バイタル、安定傾向。胸部の損傷に対する止血、縫合完了。輸血は継続。ひとまず、山は越えたわ」
その瞬間、張り詰めていたオペ室の空気が、まるで巨大な重しが取り除かれたかのように、一気に緩んだ。
タキは、全身の力が抜けるのを感じた。ガウンとマスクの下で、額には大量の汗が滲み、足は震えていた。
(······成功した。純弥は······生きてる)
その安堵は、一瞬にして全身を駆け巡った。彼の手のひらに、誰も気づかないほどの緑色の微かな光が、今度こそ暖かく灯っているのを感じた。彼の未熟な術は直接的な救命には繋がらなかったが、純弥の生命の灯が消えなかった事実に、タキは深く息を吐いた。
「坊や、君は外で待機。術後の管理はナースに任せる。ご苦労さま」
青シタに促され、タキは、ゆっくりと手術室から退出した。
廊下に出ると、待合室の硬い椅子に、オペレーションルームから駆けつけた魅上明日香の姿があった。彼女は、あの五歳の日のように、体をきゅっと縮こまらせ、俯いたままだ。
タキは、深く一礼し、絞り出すように現状を伝えた。
「······手術は、成功した。純弥の命は、繋がった」
タキの言葉を受けても、明日香は顔を上げない。ただ、強く握りしめた拳が、真鍮のワッシャーを、力強く握り締めているのが見えた。
しかし、タキの表情に、安堵の色は長く留まらなかった。
「ただ······」
タキは声を詰まらせた。
「心臓に近い場所の重症だった。純弥は、出血と、大量のP霊子と生命エネルギーを失っている。このまま、昏睡状態から目覚めるか······予断を許さない状況だ」
タキは、しゃがみこみ、明日香に視線を合わせた。
「明日香······純弥は、まだ戦ってる。アイツは、誰かの笑顔のためなら、どんな場所からでも戻ってくるヒーローだ。俺たちは、アイツが目覚めるのを、信じて待つしかない」
明日香は、未だ顔を上げない。しかし、彼女の口から、五歳のあの日のような、冷たい拒絶の言葉は出なかった。
代わりに、タキの目には、彼女の震える唇が、あの幼き日のプロポーズで純弥が渡したワッシャーに、そっと触れているのが見えた。
それは、純粋な祈りだった。
(早く戻って来なさいよ······バカヒーロー······)
「⁉️ 純弥君が⁉️」
「······」
儀式装置破壊の任を終え、純弥援護の為に交戦場所に急いでいた影理、切宇のメットにも、その一報は入った。
明日香と······娘との絆を取り戻してくれた恩人が、今死にかけている。
それを聞いても、化忍として染み付いた任務遂行の意志は、影理の身体を駆動させな
お上階を目指し続ける。
むしろ好都合だ。彼を罠に嵌めた幹部を叩き潰し、彼の初恋の人という、夜叉と化した鏑木英美里をこの手で葬る。彼に憎まれるだろうが構わない。初恋の人を手に掛けるなどと言う地獄を味わわせるくらいなら――
だがヤツらの悪意はこちらの想像を超えていた。
『御影さん······ヤツらの――敵幹部と鏑木英美里の反応、ロストしました······』
「何⁉️」
『しかもそれだけじゃありません。付近の街付近に数十体の夜獣が出現しました。街に到達するまであと十分もありません······ソイツらの殲滅を優先して下さい』
「くっ、」
「御影。お前まで平静を乱すな。今は――」
「分かっています······影角」
『ああ······飛ばすぜ』
バイクに変化した精霊従に乗り、二人の化忍は悪趣味な延長戦を強いられる郊外へ発進するのだった。