郊外の寂れたコンテナ街。夜の闇を裂いて、影理と切宇を乗せたバイクが急停止し
た。アスファルトには、数十体にも及ぶ悍ましい姿の夜獣が、街へと向かう進路に群
がっていた。
「クソッ、雑魚の群れで足止めか!」
影理はマスクの下で悪態をついた。心の大部分は、今頃集中治療室で意識不明の床についているであろう恩人、天野純弥の容態が占めている。
また、間に合わないのか······?
影理――御影の脳裏は今、妻の最期に立ち会えなかったあの悪夢が大半を締めていた。
「御影。冷静になれ。奴らの悪意は、お前の焦燥を燃料にするぞ」
切宇が二振りの黒刀で夜獣の一体を一刀両断しながら警告する。
影理は大きく息を吸い込み、吐き出した。純弥の命を繋いでくれた医師たち、そして純弥の傍で祈っているはずの娘の明日香の顔が浮かぶ。
「分かっています······。行くぞ、影角!」
影理はバイクから飛び降りるやいなや、夜獣の群れに突進した。彼の太刀が、夜獣を次々と切り裂いていく。一匹倒すごとに、純弥が生きているわずかな可能性を自分の手で守っているような気がした。
集中治療室の冷たいガラス窓の外。タキは椅子に座り、ガラスの向こうの純弥の青白い顔を見つめていた。彼の隣には、明日香が静かに座っている。
「全くさ······どうして、アイツは、いつもこうなのかしらね?」
明日香は、そっとワッシャーを握りしめながら呟いた。
タキは答える。
「アイツは、誰かの笑顔のためなら、自分の命なんて顧みないヒーローだからだ。チビの頃から、ずっと。むしろお前の方が分かってるだろ?明日香」
「······ヒーローなんて、いらないのに······。いつも、誰かを助けようとして、自分ばかり傷ついて······。誰のせいだと、思ってるのよ」
明日香は目を閉じた。父親である影理の顔は、この期に及んでも頭に浮かばない。彼女の脳裏にあるのは、ただ、目の前のガラスの向こうにいる「バカヒーロー」の姿だけだ。
「俺は、純弥が戻ってくるのを信じてる」
タキは静かに言った。
「アイツの灯は、まだ消えていない」
そんな言葉もすぐに静寂に飲み込まれ、純弥のベッドサイドにある、無機質な医療機器のモニターから、不規則な電子音が響くだけだった。
第拾二話 終わりに見えたもの《中》
(······ううううううっ!)
小学校に入学して数週間。純弥は、相変わらず休み時間になると、明日香の席に突撃していた。だが、彼女の冷たい拒絶は変わらない。
「明日香ちゃん!今日ね、先生が言ってたんだけど、俺、給食のパン係になったんだ!みんなにパンを配って、笑顔に······」
「いらない。早く自分の席に戻りなさい」
純弥は打ちのめされながらも、ヒーローの信念を貫き続けていた。
特に僅かな、しかし確実に変わったことがあったから。
いじめっ子。小学校に上がることで〝意地悪〟、もしくは〝嫌な子〟などのワルモノが、いよいよ純弥の周辺にも現れ始めた。
そしてそいつらは、いつだって気の弱い子、暗い子、いや、理由など無い時もある。
とにかくそういった子へ牙を向き始めた。
ある日。体育の授業で、足の速い男子が、クラスメイトの給食袋を奪い、「早く走って取りに来いよ」とからかったことがあった。その子は、突然の悪意にただ泣いているだけだ。
それを目撃した純弥は、その場で、足の速い男子に立ち向かっていった。
「返せよ!園子ちゃんの、大事な給食袋だろ!」
純弥は、瞬く間に足の早い男子に追いつき、給食袋をひったくって取り返した。
「はい!園子ちゃん!給食袋」
「ありがとう! 純弥くん!」
それを始めとして、純弥の本格的ヒーロー活動は多岐に渡った。
廊下に展示されていた、あまり目立たない生徒が頑張って描いた絵や工作に、いじめっ子グループがふざけて落書きをしようとした際、純弥は身を挺して作品の前に立ち、「こんな奴らの為に!これ以上誰かの涙は見たくない!」という『クウガ』のセリフを引用して阻止したり。
新しい転校生が来た際、内気で発言が少ないことを理由に、いじめっ子が彼をからかったり、持ち物を隠したりしたとき、純弥は率先して転校生の「ボディガード」を買って出たり。
「ふん!ぬううううう!」
「なんだコイツ⁉️ チビのクセに力強いぞ⁉️」
果ては自らに狙いを定めてきたいじめっ子〝達〟と互角の戦いを繰り広げたりと、
その活動にはゲンコツ、即ち暴力が混じり始めていた。
「ふうー······。大変だった〜」
泥塗れになりながらも、「覚えてろよ〜⁉️」という捨て台詞と共に走り去っていくいじめっ子達を見て、今日もひと仕事終えたというような〝充実感〟 と共に呟いた。
「バカじゃないの。そんなことして、なんにもならないでしょ」
明日香が、呆れの感情を隠そうともせず、純弥に向かって言い放つ。
しかし純弥は力強い決意の宿った瞳で言い返す。
「なんにもならないかもね。でも良いんだ。〝だって俺クウガだもん〟なんちゃって!」
この後に及んでヒーローモノマネで返してくる純弥にほとほと呆れ果てたのか·····。
「······ハイハイ。ほら、泥だらけなんだから、着替え行くわよ······」
そう言って手を差し出し、保健室に連れて行こうとしてくれる明日香を見て――純弥は滂沱の涙を流し始めた。
「明日香ぢゃ〜〜〜~ん! あり、ありがどおおお! いつもしつこくしてごめんねえええ!」
「こんなことで泣かないでよ⁉️ ていうかしつこいって自覚あるならもうほっといてよ!」
「それはむり~~~!」
「だと思ったわよ! とにかく今は保健室!」
そう言って連れ立って、明日香と純弥は歩きはじめた。
――なお、自分より体格も身長も勝っていたいじめっ子達五人と、互角に戦えるということは異常だと、その時の明日香と純弥自身は、まだ気付いていなかった。
(なんで、こんなバカの世話を焼いているんだろう)
明日香は、泥だらけで涙と鼻水まみれの純弥の手を引きながら、心の中で毒づいた。
保健室へ向かう廊下は、放課後特有の、妙に静かで長い空間だった。純弥は鼻をすすりながら、なおも明日香の手を、離すまいと必死で握っている。
先ほど、いじめっ子たちを追い払ったあとの、純弥のあの顔。
「なんにもならないかもね。でも良いんだ。〝だって俺クウガだもん〟なんちゃって!」
あの言葉が、明日香の胸の中で、奇妙な響きを立てていた。
彼は、自分の行動が「なんにもならない」ことを、知っていた。いじめっ子は、明日もまた誰かをいじめるだろう。純弥が守った子の涙も、数日経てばまた溢れるかもしれない。
それでも、純弥は、それを「やる」。
明日香にとって、「ヒーロー」とは、決定的な瞬間に、最も大切なものを守れなかった、無力な存在の象徴だった。
あの時、父・御影は、母と自分を置いて、「誰かを守る」という大義どころか、「親友の仇討ち」という個人的な理由のために出て行った。その結果、残された自分は、孤独と恐怖の暗闇に沈んだ。だから、ヒーローなんて大嫌いだった。彼らは、「みんなの笑顔」のために、と言いながら、平気で手のひらを返し、「たった一人の大切な人」の笑顔を犠牲にする、残酷な存在だと思っていた。
それが、父への絶縁にも似た、冷たい態度の理由だった。
だが、純弥は違った。
純弥のヒーロー活動は、大掛かりな正義の戦いではない。給食袋、落書き、転校生。すべて、目の前で泣いている、たった一人の子どものために行われていた。泥だら
けになって、「バカじゃないの」と罵倒されても、彼は、その「熱」を失わない。
(彼は、誰も助けてくれないヒーローじゃない)
彼は、「誰も助けられないとわかっていても、助けようと手を差し伸べ続ける」、ただの馬鹿な子どもだ。
その日、純弥は保健室で傷の手当てをしてもらい、明日香は彼の隣で、何も言わずに座っていた。彼の呼吸が規則的になるのを聞きながら、明日香は、初めて、「ヒーローの側にも、大変なことがあるのかもしれない」と思い至った。
純弥が守ろうとする「笑顔」は、一つひとつは小さすぎる。そのために、彼はいつも傷つき、時には笑いながらも泣き、そして、また次の日には、懲りずに立ち上がる。
その姿は、明日香が嫌っていた、「すべてを投げ打つ大義」の重さや、「復讐の為に別の大切なものを捨てる」無責任さとは、少し違う種類のものに見えた。
「彼が背負っているのは、誰かの笑顔の数だけ増える、小さな傷の痛みなんだ」
彼は、「誰かの悲しみ」に、五歳の子どもなりに真剣に向き合っていた。
――御影、お父さん。
明日香の頭の中で、突然、父の顔が浮かんだ。
明日香は、父が「誰かの笑顔のために」戦うという大義を掲げた時も、「親友の仇を討つために」鬼になった時も、その裏側で「自分と母」という大切な笑顔を犠牲にしたと思っていた。父の戦いは、壮大すぎて、明日香には理解できなかった。
だが、もしかしたら、父も純弥と同じように、「守らねばならない」という重圧の中で、一つひとつの戦いのたびに、「誰かを傷つけてしまう」という小さな痛みを負い、その結果として、家庭を壊すという「大きな傷」を負うことになったのかもしれない。
もしそうなら、明日香は、父が負ったその「痛み」を、見てすらいなかったことになる。
純弥が寝入ったのを確認し、明日香は保健室を後にした。もう、家に帰る時間だった。
その夜。
明日香は、家に帰るなり、リビングで書類を広げていた父、御影の前に、まっすぐ立った。御影は、娘が正面から話しかけてくることに驚き、慌てて書類を隠す。
「あ、明日香。どうしたの?その、顔色は」
明日香は、何も言わずに、五歳の小さな身体で、御影に力いっぱい抱きついた。
御影の硬直した身体を、明日香の小さな腕が懸命に締め付ける。
「あ、あすか……?」
明日香の小さな身体が、震え始めた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、お父さん!」
明日香は、大粒の涙を流しながら、御影の背中に顔を押し付けた。
「お父さんだって……お父さんだって、きっと、大変だったんだよね。私が、ずっと、分かってあげられなくて……ごめんなさい……」
御影は、何が起こったのか理解できなかった。ここ数年、娘は自分を避けるか、冷たい視線を送るだけだった。それが突然、謝罪の言葉と共に抱きついてきたのだ。
御影は、娘の震える背中を、恐る恐る抱きしめ返した。
「ああ……ああ、そうだよ。お父さんは、ずっと、寂しかったよ。明日香……」
御影の目からも、抑えきれない涙が溢れ始めた。それは、任務中にどんな強敵に刃を向けられても流すことのなかった、家族への深い愛情と後悔の涙だった。
二人の、孤独な戦士である父と娘の和解は、純弥がもたらした「おバカなヒーローの熱」が、初めて周囲の冷たい心を溶かした、静かな勝利の瞬間だった。
その日の晩、明日香は、父に抱きしめられた温かい感触を、布団の中で何度も反芻した。今まで感じていた、父への「冷たい壁」が、純弥の行動をきっかけに、一気に溶け去ったのだ。
そのきっかけとなったのは、純弥が泥だらけになってまで守ろうとした「小さな笑顔」への、ひたむきな熱だった。
(バカ……本当にバカなんだから)
明日香は、そう呟きながらも、頬が自然と緩むのを感じた。
翌日。
登校した明日香は、教室で、早速純弥の席へ向かった。昨日とは違い、躊躇なく、まっすぐと。
純弥は、昨日のいじめっ子たちとの喧嘩など〝無かった〟かのような無傷の顔で、ノートに何かを書きつけている。彼は、明日香の姿に気づくと、いつものように、「へへっ、またなんか言いに来た?」と、自虐的で無邪気な笑顔を見せた。
「あのね、天野くん。昨日……」
明日香は、父との和解を純弥に伝えようとした。しかし、言葉が出ない。恥ずかしさではなかった。純弥が、自分の心を救ったことを、彼自身は全く自覚していないであろうことが分かっていたからだ。彼はただ、目の前で悲しんでいる子がいたから、戦っただけなのだ。
「……別に、なんでもないわ。ほら、ちゃんと座ってなさい」
明日香は、つい、いつものようにツンとした言葉を返してしまった。だが、その言葉の裏には、父に抱きついた時と同じような、純粋な「感謝」と、そして――今まで感じたことのない「特別」な感情が混ざり合っていた。
休み時間。
純弥は、懲りずにまた、クラスメイトの男子二人が言い争っている間に入り、仲裁を試みていた。両者からドつかれながらも、彼は必死に、その「熱」を伝えようとする。
それを見ていた明日香の胸が、ぎゅっと締め付けられた。
(また……一人で傷ついている)
彼の行動は、あまりに不器用で、効果的とは言えない。だが、彼は、自分が「無力」であることを知っても、「誰かを助けたい」というたった一つの感情に忠実だった。それは、自分が嫌い、父に求めていた「完璧なヒーロー」像とは、かけ離れていた。
明日香が求めていたヒーローは、「自分の悲しみを一瞬で消し去ってくれる、最強の魔法使い」だった。
しかし、純弥はそうではない。彼は、「悲しみの前で一緒に尻餅をつき、泥だらけになってくれる、ただの馬鹿」だ。
――だが、それがどうしたと言うの?
純弥は、「なんにも助けてくれない」どころか、「自分自身が傷つきながら」、明日香の心を救ってくれたのだ。彼の「熱」は、明日香の凍り付いた心を溶かし、父との絆を取り戻してくれた。
明日香は、純弥が二人に挟まれて揉みくちゃにされながらも、必死に両者を説得している姿を、まるで太陽を見るかのように、目を細めて見つめた。その光は、遠くから見ているだけでは熱すぎたが、今なら、その温かさが、明日香自身の心を温めているのがわかる。
(この人、本当に「誰かの笑顔」のために、自分を顧みない)
純弥の背中を見つめながら、明日香の胸に、かつてないほど強い感情が湧き上がったそれは、「守ってほしい」という依存ではない。
「この人を、これ以上、一人で傷つけさせてはいけない」という、献身的な衝動だった。
この気持ちは、まるで、昨日父を抱きしめた時の、「絆」とは違う。もっと甘くて、胸が騒ぐ、初めての「憧れ」と「独占欲」が混ざったような熱。
ヒーローなんていらない。ヒーローは何も助けてくれないから――
五歳から続いた少女の信念は、今、音を立てて崩れ去った。
ついに純弥が尻餅をつき、なお立ち上がろうとしているのを見たとき、衝動的に駆け寄って手を差し伸べた。
「大丈夫? 〝純弥〟?」
突然名前を呼ばれ、驚くも、すぐに手を取って立ち上がる純弥。純弥は戸惑い、そして申し訳なさを感じる。
「あ、あの······ごめん、明日香ちゃん。また――」
「ごめんじゃない! ここはありがとう!」
「あ、ありがとう!明日香ちゃん!」
「ちゃんって言うな! 呼び捨てで良い!」
「⁉️ わ、分かったよ! 明日香!」
(……この、「馬鹿で、泥だらけで、すぐ泣く」ヒーローは)
(……私が、守ってあげなきゃ)
彼の無垢で、傷だらけの「正義の味方」という幻想を、現実の重圧から守れるのは、彼を最も否定していた、自分しかいないと、明日香は直感的に理解した。
この日、魅上明日香は、幼いながらに、「誰も助けてくれない」世界で、「それでも誰かを助けようともがく」一人の少年、天野純弥に――
「アイツらまーだやってる! ――止めるわよ純弥‼️」
「ああ、止めよう! 明日香‼️」
初恋を抱いたのだった。
――と、そんな感動的な和解を果たしたにも関わらず。
「エミねぇ大好き〜〜~‼️」
「ありがとう! 私も純ちゃん大好き!」
「わああああい‼️」
(こいつほんと······!)
相変わらず純弥は英美里にゾッコン。明日香の気持ちに気付きもしないという、爆破されても文句の言えない体たらくを晒していた。
父・御影との関係は修復された。それはすべて純弥の馬鹿正直な「熱」のおかげだ。それなのに、純弥のその「熱」の大部分は、今も変わらず、八つ年上の優しい笑みを浮かべる英美里に向けられている。
明日香は昨日の感動的な共闘の余韻で胸が熱くなっているというのに、純弥の脳内は相変わらず、彼女の知らない「エミねぇ」で占められている。
「……バカ」
思わず口から漏れた毒づきは、誰にも届かないほど小さかった。
しかし、そんな明日香に、予期せぬ「チャンス」が訪れた。
夏休みに入ったばかりの暑い日。英美里が、いつものように純弥に別れのハグをした後、明日香に向かって、少し寂しそうな笑顔を見せた。
「明日香ちゃんも、急にごめんね。パパの仕事の都合で、急にアメリカに行くことになっちゃったの」
「……え」
明日香は、自分の心臓が、一瞬で冷たい鉄塊になったように感じた。
「あのね、私のお父さん、前に事故に遭って大怪我したでしょ?その後、グループの海外部門の立て直しを任されることになって。急だけど、今週末には向こうに行くことになったの」
鏑木哲也。英美里の父親だ。彼は数年前、交通事故で瀕死の重傷を負い、長い闘病生活を経て、どうにか日常生活に戻れるまで回復した。その代償として、会社の経営からは一歩引く形になっていたが、その経験が海外部門の新規プロジェクトのリーダーとして抜擢される決め手となったらしい。
それは、明日香にとって、あまりにも決定的な出来事だった。
純弥から英美里を奪うチャンス。
しかし、それと同時に、純弥の心を永遠に傷つける現実でもあった。
「……いつまで、あっちにいるの?」
明日香は、精一杯平静を装って尋ねた。
「うーん、パパは五年くらいって言ってたけど……私、向こうで看護の勉強がしたいから、大学まであっちにいるかも。そしたら、何年になるかなあ」
英美里は明るくそう言ったが、純弥はその言葉を理解した途端、顔面蒼白になり、英美里の服の裾を掴んで、大粒の涙を流し始めた。
「え、エミねえ!行っちゃやだ!行っちゃやだよぉ!」
「純ちゃん……ごめんね」
英美里は、純弥の頭を優しく撫でた。
「でもね、純ちゃんはヒーローなんだから、泣いちゃダメ。寂しくなったら、空を見上げて。私も、向こうの空から純ちゃんのヒーロー活動を応援してるから」
明日香は、その光景をただ見ていることしかできなかった。純弥は、彼女の言葉に、嗚咽を上げながらも頷いた。
「わ、わかった!俺、エミねぇに、胸を張って『大丈夫』って言えるヒーローになるよ!」
その言葉を聞いた英美里は、純弥を強く抱きしめた。
「うん。約束よ。じゃあね、純ちゃん。明日香ちゃんも、またね」
そうして、英美里は純弥の初恋の対象として、そして「ヒーローとしての純弥の原動力」として、彼の人生から姿を消した。
明日香は、その日から、純弥の隣にいる唯一の存在となった。純弥は悲しみに暮れながらも、英美里との「ヒーローの約束」を果たすために、より一層、その小さな身体で正義の味方を演じ始めた。
(これで、私と純弥は……)
明日香の心は、「これで彼の隣は私のもの」という冷たい優越感と、「彼の初恋の痛みを埋めてあげなければ」という献身的な愛情、そして「どうして私じゃダメなの」という小さな嫉妬が、複雑に絡み合って形成されていった。
それが、魅上明日香という女性の「愛」の始まりだった。
そして時は流れ、純弥と明日香は小学校を卒業。中学生となり、
――純弥の本当の苦難が幕を開けるのだった。
「いやだ······いやだ」
青年の純弥はさらに深く膝に顔を埋め、〝その記憶〟が写し出されるのを、必死に拒んでいた。
「ダメよ」
女郎蜘蛛夜叉と化した英美里が、無理やり純弥の顔を、目の前の〝記憶〟に向けさせる。
「ヒーローなら逃げちゃダメじゃない。自分の〝醜さ〟からも」
「……う……あ……ぅう……っ!」
集中治療室に設置された病室。酸素マスクの下から、低く、途切れ途切れの呻き声が漏れた。
モニターの数値は安定している。彼が今生きているのは、迅徒が持つ高度な医療技術と、彼の常軌を逸した生命力のおかげだ。純弥は、つい先ほどまで死を彷彿とさせる状態にあったにもかかわらず、既に肉体的な回復傾向を見せている。
だが、ベッドの上の純弥の表情は、絶望的な苦痛に歪んでいた。額には脂汗が滲み、瞼は固く閉じられているが、その下で眼球が激しく動いているのがわかる。それは、身体の痛みではなく、精神的な拷問を受けている者の様相だった。
強化ガラス越しにそれを見ていた魅上明日香は、唇を強く噛み締めていた。その手は、冷たいガラスに押し付けられている。
「純弥……」
明日香の隣には、タキが立っていた。タキは、純弥の友人として、そして医療忍術を志す者として、この現状を理解しようと必死だった。
「これは……純弥の『P霊子』の乱れだ……。体の傷は治りかけてるけど、精神的な負荷が致死量を超えてるんだ……」
タキは、この数日間、迅徒総合医療部門長の青シタ(アカナメ)から習ったばかりの知識を総動員して、純弥の状態を分析していた。純弥の心臓に付けられたモニターは、不規則な波を描いている。
明日香は、タキの言葉には答えなかった。彼女の瞳は、純弥の歪んだ顔に釘付けになっている。
(あのバカ……また一人で抱え込んで……)
彼女にはわかる。純弥が今、英美里の悲しみと自分の罪という、最も重いものと対峙しているのだと。それは、彼が幼い頃から背負い続けている「ヒーローの重圧」が、今、限界点を超えて、彼の精神を内側から蝕んでいることを意味していた。
「あ、明日香……」
タキが心配そうに声をかけた。彼の顔色も優れない。
純弥が運び込まれてから、既に数時間が経過していた。
あの幼い頃、純弥は「誰かの小さな笑顔」のために、泥まみれになって戦った。明日香は、そんな彼を「私が守らなきゃいけない、不器用なヒーロー」として受け入れた。
だが、今の純弥が背負っているのは、「世界」や「大義」といった抽象的な重圧ではなく、「愛する人を救えなかった」という、最も個人的で、最も逃れようのない、巨大な後悔の塊だ。それは、彼女の幼い愛と庇護欲では、到底触れることのできない、深すぎる闇だった。
明日香は、集中治療室の分厚いガラスに手を当てる。冷たいガラスが、二人の間の隔絶を象徴しているようで、明日香の胸は引き裂かれそうだった。
「あ、明日香……」
タキが心配そうに声をかけた。
明日香は、その言葉を振り払うかのように、踵を返した。
そして、集中治療室のドアノブに手をかける。
「駄目よ……もう、あんな顔は、見たくない……」
震える声。彼女が掴んだノブは、入室のために指紋認証が必要な、厳重なセキュリティロックがかかっている。
タキは、その光景を見て、咄嗟に明日香に駆け寄った。
「待って、明日香!何するつもりだ!ここは入っちゃ駄目だ!」
「どいて、タキ!」
明日香は、タキの腕を振り払おうとするが、タキは必死に彼女の肩を掴んだ。
「ダメだ!純弥のP霊子は今、極度に不安定だ!彼の体は治りかけているかもしれないけど、精神の防壁が完全に壊れてる。もし君が不用意に接触したら、彼の精神世界に『毒』が流れ込んで、意識が二度と戻らなくなるかもしれないんだ!」
「毒ですって⁉️ それじゃあ、彼はこのまま、永遠にあの苦しみの中で……!」
明日香の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。彼女の理性は、既に限界だった。
「彼のそばにいるべきなのは、私よ!私が、彼に『一人じゃない』って、何度でも言ってあげなきゃいけないの!だって、私は、彼の――」
「言えば済む問題じゃないんだ!」
タキは、思わず大声を上げた。その声は、泣き出しそうなほど切実だった。
「俺は、まだ『医療忍術』を始めたばかりの半人前だ。でも、青シタさんから習った!P霊子の乱れは、感情の津波だ! 外部から強引に触れれば、その津波は純弥の脳を直撃するんだ!今、彼に必要なのは、静かに、自分の魂と向き合う時間なんだ!」
タキは、自分の無力さと、それでも医療従事者として純弥を守らなければならないという使命感に、声が震えた。
「俺だって、このまま黙って見ているのは嫌だ!純弥は俺の親友だ! だけど、ここで衝動的に動くことは、純弥をさらに危険に晒すことなんだ!」
「そんな……っ!」
明日香の力強い腕から、徐々に力が抜けていく。タキの言葉は、正しかった。彼女の情熱は、純弥の身体を害する「毒」になりかねない。
彼女の目線は、力なく、純弥の集中治療室へと戻った。ガラスの向こう。無傷のはずの彼の顔は、まるで酷く打ちのめされたかのように、深く歪んでいた。
「くそっ……!くそっ……!」
明日香は、怒りを込めて、セキュリティロックのパネルを何度も叩きつけた。カツン、カツン、と乾いた音が、静かな医療区画に響き渡る。
タキは、何も言わずに、明日香の背中を、ただ優しくさすった。
やがて、明日香は崩れるように、その場に座り込んだ。両手で顔を覆い、しゃくりあげる。
「なんで……。なんで、私は……何もできないの……」
幼い頃、父を失いかけた時も、何もできなかった。父の冷たい背中を見て、憎むことしかできなかった。そして今、最も大切な人が、自分の「罪」と「悲しみ」という見えない怪物に一人で食い尽くされようとしているのに、自分は、ただ見ていることしかできない。
「私は、ヒーローなんて嫌いだった……。でも、純弥が、私のヒーローになってくれたのに……!私が、彼を守らなきゃいけないのに……!」
明日香の泣き声は、悔しさと無力さに満ちていた。タキは、その隣に静かに座り込む。彼もまた、純弥に「土遁・堅牢壁の術」一つまともに決められない、無力な自分を呪っていた。
「……明日香」
タキは、明日香の肩に手を置いた。
「大丈夫だよ。純弥は、一人じゃない。俺たち、二人で、彼の心臓を動かし続けるんだ」
タキは必死に希望の言葉を紡ぐ。
だが、結局のところ、明日香とタキは、その分厚いガラス窓の外で、ただ立ち尽くすことしか許されていないのは変わらなかった。