純弥は、安堵も喜びも表すことなく、冷徹なまでの覚悟を伴った瞳で問いかけた。
「······英美里は······何処だ······?」
明日香は、未だ涙で濡れた瞳を大きく見開き、信じられないものを見るように純弥を見つめたまま、一瞬言葉を失った。
純弥は、ベッドから無傷で立ち上がる。彼の身体には、致死的な傷を負っていたはずの痕跡すら見当たらない。まるで、深い眠りから覚めたばかりのようだ。
「純弥!?どこ行くの!?」
明日香が慌てて彼の腕を掴もうとするが、純弥はそれを払いのけ、酸素マスクや点滴のチューブを一気に引き抜いた。引きちぎられた点滴の先端から、輸液がポタリと床に零れる。
「っ、おい!お前、今死んでたんだぞ!?身体、どうなってやがる!」
タキが血相を変えて詰め寄るが、純弥は彼を一瞥すらせずに、一歩、また一歩と病室の出口に向かって歩き出す。その足取りには、疲れも、衰弱も一切見られない。
「どうなってようが関係ない。今は一秒でも早く英美里を止めなきゃならない」
純弥は言葉を詰まらせた。夜叉と化した英美里の、あの悍ましい姿が脳裏に焼き付いている。彼女を救うには、もう残された時間は僅かしかないことは、純弥自身が一番理解していた。
「純弥君!待ちなさい!」ドクターが制止しようと手を伸ばすが、純弥は「邪魔しないでください·········!」と鋭く一喝し、病室のドアを開け放った。
「馬鹿っ!純弥、勝手なことしないで!」
明日香が通信機越しに、他のメンバーにも聞こえるように叫ぶ。
『純弥君!聞いているね!?落ち着け!』通信機から、八首の慌てた声が聞こえた。
『君の容態は現在確認中だ。その状態で単独行動など——』
純弥は、無視して、廊下を早足で進み続ける。彼の周囲にいた医療スタッフは、突然の事態にただ立ち尽くすことしかできない。
『……純弥君』
そこで、落ち着いた声が通信に割り込んできた。御影の声だ。
『君の気持ちは痛いほど分かります。ですが――英美里君……女郎蜘蛛夜叉討伐は、私の任務だ』
御影の声からは、純弥が彼女を討てないなら、自分が討つという覚悟が、その静かな声に滲んでいた。
『私は君と違い、彼女に情はない。非情に徹し、確実に仕留めることが出来る』
「――これは理屈じゃありません。貴方こそわかってるんじゃないですか?」
『――その通りです。ですが』
御影はいつになく真剣な声で訴える。
『そもそも、君は今、生還したばかりです。君の命は、人類の希望だ。消耗させるわけにはいかない。私はこれから、伊賀嵐さんと共に現地に向かいます。このまま奴らに好き勝手させるわけにはいきませんからね』通信の向こう側で、維心の低い声が聞こえた。
『天野純弥。御影の言う通りだ。貴様は退け。今は我々に任せろ』
維心と御影は、既に「ジュウニシンショウ」計画阻止のための次の行動に移ろうとしているところだった。その次の行動とは、英美里=女郎蜘蛛夜叉の出現で急遽変更された、「器」の討伐である。
純弥が唇を噛む。英美里を救う唯一のチャンスだというのに、誰にも行かせてもらえない。
『待て!御影くん!伊賀嵐くん!』
そこで、八首の切羽詰まった声が割り込んできた。
『緊急警報!湾岸エリア全域に、またしても夜獣の群れが、大挙して出現した!しかも、これまで確認された個体よりも強力だ!』
「なんですって⁉️」
御影の声に、明確な動揺が走った。
『目標は、英美里君が捕らえられていた倉庫街から、東へ五キロの地点!夜獣共は、一斉に都市中心部へ向かっている!』
『チッ······また、陽動ですか』
御影が冷静に呟くが、その声にも焦りの色が隠せない。
『迅頼!すぐに状況を確認しろ!この規模の夜獣の出現は異常だ!』
『御意!維心様!』
純弥が通信越しに叫ぶ。
『純弥君、これ以上は無理だ!我々はここで足止めを食う。君は病院に残——』
純弥は無視して走り出した。廊下の窓に映る自分の顔は、あの血の沼で、女郎蜘蛛夜叉に手を伸ばした時と同じ、冷徹なまでの決意に満ちていた。
「俺が生きて戻ったのは、英美里を助けるためだ。誰に止められようと、今度こそ、俺がカタをつける。」
純弥は、エレベーターを飛び出し、階段を駆け下りながら、通信機に向かって言い放った。
「明日香、悪いな。御影さん、維心さん、あなた達が夜獣を抑えてくれるなら、俺は安心して英美里の元へ向かえる」
『純弥!』
明日香の悲鳴にも似た声が通信から聞こえるが、純弥は聞かない。
「今度こそ、俺の手で……俺の手で、あんたを、エミねぇを救う!」彼は病院の通用口を蹴破り、夜明け前の冷たい空気の中へと飛び出した。その瞳には、すでに英美里の居場所しか映っていなかった。
「! キラ⁉️」
駐車スペースに、青年形態のキラが立ち塞がっていた。
「なんだよキラ? 早くバイクに······」
「僕は御影達と違って、余計な同情はしない。だがふたつ、確かめておく必要がある」キラは感情の読めない顔で、純弥の真正面で足を止め、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「天野純弥は、今、英美里ちゃんを救いたいのか、それとも殺したいのか?」
「両方だ」
純弥は即答する。そもそも夜叉を〝救う〟ということは〝それ〟とイコールだと、カリキュラムで叩き込まれ、実際に実行して来た。今更なんだと言うのか。
その胸の裡の疑問に答えるように、キラは言い放った。
「じゃあ、『今から俺は大好きなエミねぇに風穴を開けて殺しに行く』と十回唱えてみろ」
「――今から俺は······」
あくまでも機械的に、純弥は十回唱えてみせた。
「·········はああああ。覚悟は出来てるか······」キラは深く溜息を、少し残念そうに吐いた。「ちょっとでも涙見せようものなら、連れていかないつもりだったが······いいよ。
地獄まで送り届けてやるよ」
「当たり前だ。職務放棄は許さねえ」
こうして最後の関門も突破し、純弥はキラに乗り込み、発進させたのだった。
湾岸エリアの倉庫街から、バイクの甲高いエンジン音が夜闇を切り裂き、遠ざかっていった。
純弥を乗せたキラは、文字通り、音速を超えようかという勢いでアスファルトを疾走する。風圧は凄まじく、並の人間なら肉体が千切れ飛ぶほどの速度だ。しかし、純弥のP霊子で強化された肉体はそれをものともしない。
「御影達が足止めされているのは、目標地点の手前、東海岸沿いだ。そこを迂回し、最短ルートで彼女の元へ向かう」
キラは、ヘルメット越しに純弥へ淡々と状況を報告した。その声には、一切の感情の揺らぎがない。
「……なんで、あんな大規模な夜獣が出たんだ」
純弥が、押し寄せる風圧の中で、絞り出すように問う。
「データと状況を照らし合わせる限り、人為的だ。君と女郎蜘蛛夜叉……英美里ちゃんの衝突を、真流源忍党が望んでいる。あるいは、外部からの干渉を防ぐための防御壁だ」
「そうか……」
だが純弥にしてみれば今更な話だ。敵の思惑に乗ってやる。その誓いは、あの時、鏑木おじさんを手に掛けてから変わっていない。
「純弥。一つ確認しておく」
キラは、速度を維持したまま、静かに問いかけた。
「君の心臓は再び鼓動しているが、P霊子の数値は異常な高値を示している。蘇生過程で、君のP霊子の源は暴走している可能性が高い。英美里ちゃんを討伐する前に、君自身が自壊するリスクがある」
「……それでもだ」純弥は即答した。
「俺が再び死ぬことになろうとも、英美里を道連れにできれば本望だ。もう、これ以
上、誰かさんの望むような〝悲劇のヒーロー〟になるつもりはない」
「……了解。最大速度で向かう」
キラはそう答えると、さらに一気に加速した。
その頃、東海岸沿いの工業地帯。
御影と維心は、突如として出現した夜獣の群れ、それも、通常の倍はあろうかという巨体と、凶暴性を持つ強化個体群に囲まれていた。「チッ!この数は、まるで海だ······しかも、通常の夜獣とは動きが違う。獲物を〝遊んでいる〟わけではない。目的意識を持って、我々をここで拘束しようとしている」維心/切宇は、変身した自身の身体をさらにP霊子で強化し、次々と襲い来る獣の爪と牙を紙一重でかわしながら、冷静に状況を分析する。
「純弥君、明日香……すまない。私は結局······役立たずのままだ」
通信機(既に純弥は通話圏外だが)に向かって、御影が悔しげに呟く。彼の周囲には、彼が振るった大理石影によってブツ切りにされた夜獣の残骸が山を築いているが、その補充は途切れない。
「御影。感傷に浸っている場合か。こいつらはまるで〝強化された餌〟だ。霊子を喰らい、さらに力を増している。一気に押し切らねば、こちらがやられるぞ。」
維心はそう言い放つと、一際巨大な夜獣の懐に飛び込み、その首筋に弧断《こだち》を放つ。夜獣は断末魔の叫びを上げるが、すぐに後続の群れが維心に襲いかかる。
「影角!奴らの霊子反応は⁉️」
御影は、自身の刀身にP霊子を収束させながら問う。
『分析結果、ヤツらの霊子源は〝歪んだ増幅〟を示している。まるで、〝誰か〟が、ヤツらの霊子を無理矢理かき集め、この場に放出しているかのようだな!』影角の声には、明確な焦燥が滲んでいた。
「やはり……純弥と英美里さんの一騎打ちを望む者がいるか。そして、我々をその舞台に上がらせないための〝カーテン〟というわけだ」
御影は、怒りに燃える瞳で、目の前の夜獣の壁を見据えた。
「……どこまで彼の手を血に染める気だ······⁉️」
病院を出てから僅か数分。キラに乗り込んだ純弥は、目的地の目前に到着した。
夜獣の群れが激戦を繰り広げているエリアを回避したため、周囲は異常なほどの静寂に包まれている。
キラは、黒いバイク形態から青年の姿に戻り、純弥の横に並び立つ。
「到着した。ここから先は、P霊子反応が極度に濃い。夜叉の瘴気に加えて、何らかの異常な霊子が混ざっている。これ以上は、僕の防御結界も夜叉の瘴気に耐えられな
い」
周囲の風景は、既に現実のものとは思えないほど変貌していた。空は鉛のように重く、夜闇は深海のような色を纏っている。地面からは、黒く粘りつくような霧が立ち上り、鼻腔を突くのは、死臭と、芳醇すぎる花の、甘い腐敗臭が混ざったような異様な香りだ。
「……ここが、地獄か」
純弥は、ヘルメットをゆっくりと外し、その冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
彼は腰に下げていた変化の巻に手をかける。
「じゃあな、キラ」
「…………」
キラは、何も言わずにただ純弥を見つめる。
「地獄の底まで送り届けると言ったのは、お前だろう」
純弥はそう言って、わずかに口角を上げた。それは、嘲りでも、諦めでもない、ただ、自らに課した使命を全うする者の、覚悟の表情だった。
「……天野純弥。君が、君の望む結末を迎えることを祈る」
キラは、感情の読めない瞳でそう言うと、再びバイクの姿に戻り、純弥が進む道の脇で静かに待機した。
「変身······」
純弥はたちまち玄い竜巻に包まれ、やがて黄金の輝きと共にそれを振り払う。
「エミねぇ……」
彼は、愛する者の名を、痛みと決意を込めて囁く。
(俺は、アンタを愛してた。だからこそ、もうあんた自身を、これ以上、悲劇のヒロ
インとして汚させない)
隠牙は、一歩、また一歩と、濃霧の中へ足を踏み入れた。彼の進む先、瘴気の中心で、悍ましくも美しい、女郎蜘蛛夜叉の気配が待っている。
隠牙の姿が霧の中に完全に消えた瞬間、通信機が微かなノイズと共に、明日香の涙声を含んだ悲痛な叫びを伝えてきた。
『純弥!待って!お願い、戻ってきて!』
しかし、純弥はもう、その声を聞くことはない。彼は、自ら選んだ地獄の戦場へと、たった一人で向かっていった。
濃霧の中を進む純弥の足音だけが、異様に響く。
彼の纏う黄金の装甲――隠牙の姿は、周囲の禍々しい霊子の影響を受けて、鈍い光を放っていた。P霊子の濃度は限界を超えており、常人ならば一瞬で精神が崩壊するか、肉体が炭化するほどのレベルだ。しかし、隠牙は蘇生後の異常な高密度のP霊子をその身に宿し、その瘴気の中を歩き抜く。
「……ここか」
隠牙は立ち止まった。目の前には、巨大なドーム型の貨物ターミナルの残骸が、夜叉の瘴気によって異様に歪んだ状態で立ちはだかっていた。かつて鉄骨とガラスで構成されていた天井は、ねじ曲がって地面に崩落し、内部はまるで巨大な蜘蛛の巣の胃袋のように暗く、湿った空気に満ちている。その空間の中心――禍々しい霊子の源―― には、一つの影が静かに佇んでいた。
女郎蜘蛛夜叉/英美里だ。
彼女は背後から放射状に伸びる八本の黒く艶やかな脚を静かに垂らし、その中心で優美に立っている。その姿は、悍ましい夜叉の様相を呈しながらも、どこか神聖なまでの美しさを保っていた。
純弥の姿を視界に捉えると、女郎蜘蛛夜叉は優雅に首を傾げた。
「·········なぁんだ。生きてたのね、純ちゃん。いえ――人殺しさん」
その声は、かつての英美里の甘く優しい響きを残しながら、どこか冷酷な響きを帯びていた。
「てっきり、命を落として、私の毒で安らかに溶けているものと思っていたのに」
「……俺は、あんたを止めに来た」
隠牙は手刀を構えながら低い声で応じた。目の前の存在は、もう英美里ではない。夜叉だ。
「止める?フフフ……」
夜叉は、口元に手を当てて、静かに笑う。
「あなたに、それが出来るかしら?私がこうして存在しているのは、あなたのためよ、
純ちゃん。あなたが悲劇のヒーローとして、私を討つために、私がここに居るの」夜叉の言葉は、隠牙の心を抉る。彼女は隠牙の深層心理を読み取り、呪詛を吐きかけている。
「あなたが私を殺せば、あなたは最高の英雄になれる。私という〝悪〟を討ち、世界を救う――さぁ、私に、その輝かしい未来をプレゼントしてちょうだい」 隠牙は、夜叉の挑発に揺らがなかった。キラとの問答で、彼はもう覚悟を決めている。
「俺は、あんたが望む〝ヒーロー〟になるつもりはない。だが、あんたが望まない〝殺人者〟にはなる」
純弥は、全身のP霊子を拳に集中させた。拳がオレンジの光を放ち、周囲の瘴気を切り裂く。
「エミねぇ!もう終わりにしよう!」
その頃、東海岸。
御影と維心は、夜獣の群れの波状攻撃に、ついに防戦一方となっていた。
「御影、数が多すぎる。いつまで持つか……」
維心は、隠形《かくれみ》の術を駆使して夜獣の懐を突き、一時的に数を減らすものの、その消耗は激しい。
『本部!純弥の霊子反応が、急激に、異常なレベルで乱高下しています!』通信機から、陸の悲鳴のような声が響いた。
「なんだと……!純弥君!」
御影は、その報告に、ついに理性のタガが外れるのを感じた。
「ぬがあああああああ‼️」
御影は、普段からは考えられない雄叫びを上げ、怒りと、純弥への後悔を乗せて、渾身のP霊子を刀に収束させ、天へと掲げた。彼の大理石影が、その刀身を構成する石状物質を岩石の散弾のように撒き散らし、周囲の夜獣を、瞬時にして塵へと変えていった。その威力は、彼が普段使用する奥義の数倍にも及ぶ、文字通りの〝一撃必殺〟だった。
「これは……」
維心は、御影の底知れぬ力に目を見張った。
夜獣の壁は一瞬で消滅した。
御影は、力尽き、その場に膝をつく。全身の装甲が砕け、その顔には血の気が失せていたが、彼の瞳には、まだ炎が宿っていた。
「伊賀嵐さん……純弥君の、元へ……!」
「わかっている。お前はここで休め」
維心は、迅頼変化したバイクに飛び乗ると、御影を背後に残し、全速力で純弥の元へ向けて走り出した。
その維心の後ろ姿を見つめる御影の口元に、微かな笑みが浮かぶ。それは自分への嘲りだった。
(呉葉······私は、どこまで無力さを突きつけられれば神に許して貰えるのだろうな)
ベキッ
グチャドゴウン
湿り気を帯びた打撃音が周囲に響く。
もう終わりにしよう。
その言葉に違わず、隠牙は情け容赦なく、これまでの戦いで培った全戦闘技術を持って、女郎蜘蛛夜叉を打ち据えていた。
「ガフッ! ふふ······流石純ちゃん······これが私のお父さん、その他の大勢の人の家族を奪ってきた成果ってこと······ぎゃう⁉️」
合間にどれだけの呪詛を吐かれようと、その拳が止まることは無かった。
そして、その時が来た。
印を結んだ左腕を弓に見立て、そこに握り締めた右拳を強く摩擦し、火花を着火させ、矢を引き絞るが如く、構える。
それを見て女郎蜘蛛夜叉は、幼子を迎え入れるかのように嫋やかに両手を広げた。
「さあ······来なさい·········人殺し」
それを合図にしたかのように、隠牙は力強く駆け出し――
寸分違わず女郎蜘蛛夜叉の胸の真ん中を打ち据え、鉄杭の如く引き絞られた爆炎が背中を貫いた。
その勢いで女郎蜘蛛夜叉は背中から倒れ――そうになったところを隠牙が抱き留める。
女郎蜘蛛夜叉は、最期に隠牙の顔を一撫で、するかと思いきや、隠牙の首を締め上げた。
ギチギチと締め上げる力を強められる隠牙だったが、慌てた様子もなく、マスクを外し――純弥としての顔を見せてみせる。その顔は、さっきまでの殺意に満ちた表情が嘘だったかのように穏やかで、やがてその手を、女郎蜘蛛夜叉の顔へ伸ばし、言った。
「······も、う い······もう、良いん、だよ?」
そう言いながら、女郎蜘蛛夜叉の瞳から零れていたもの――涙を拭ってあげるのだった。
あの血の沼に揺蕩い、安息に堕ちようとしていた時に、水面に波紋を起こした一雫。
それは女郎蜘蛛夜叉――いや、英美里の涙だった。
彼女は夢の中で。いや、純弥を刺し貫いた最中もずっと泣いていた。
それを止めるために戻ってきた。
やがて、首を締め付ける力も抜けていき、偶然か、涙を拭い続ける手の上に重なり、そのまま、他の夜叉と変わらぬ最期、煙草の吸殻のように朽ちて崩れていった。
それを見届けたあと、すぐさまマスクを被り直して立ち上がり、陸に通信を入れる。「こちら隠牙。女郎蜘蛛夜叉討伐完了。次の指示を乞う」
そんな痛々しい通信に耐えきれず、陸は「純弥君もう······もう今夜は······」と縋るように応答を投げる。
それに対し純弥は、変わらず「次の指示を」と繰り返すばかり。そしてこう付け足した。
「まだ、夜は明けてない」
どんな犠牲を払おうと、夜が明けない限り、自分達に、なにより牙なき人々に安息は無い。そんな決意を込めた通信に、答えるものがいた。
『·········純弥。そこから南西二十㎞に夜獣の反応がある。市街地から離れてるけど、万が一があるから』
「了解した」
そのまま通信を終了し、ヘッドセットを外すと――次の瞬間、バン!と両手をデスクに叩き付けた。そしてすすり泣き始める。
「······何が支えるよ⁉️ 戻ってきたアイツになんて声掛けたら良いか·········全然思い付かない······!」
「······そんなの、決まってるじゃない?」
明日香がハッと顔を上げた所に、陸の同僚、狐の変化の藻奈が立っていた。
「ただ受け止めてあげれば良いの。男なんてそれだけでイチコロなんだから。でしょ?」タキもまた、自分が純弥に何をしてやれるのか只管悩んでいた。
「何時も通りでいいんじゃないの?」青シタはこともなげに答えた。
「男が一緒にメソメソしたってキモいじゃない。あるいはそうね。自分がしてもらって一番嬉しかったことを返してあげるの。捻りがないけどね」そう言われ、虚ろだったタキの瞳にも、確かな決意が宿った。
そして明朝。雨が降り出す中、純弥は帰ってきた。
あまりにも虚ろな表情を湛えながら。
しかし、それを見間違いだと錯覚させるほど素早く、純弥は笑顔を作って頭をガシガシと掻いてみせた。
「いやー‼️ やっぱりバチって当たるもんなんだな! 歷とした人殺しなのにいつの間にかヒーローごっこに目的がすり変わってた‼️ いやー反省はんせ」
そこまで言った瞬間、明日香が飛び込むように純弥を力一杯抱き締めた。
明日香の体温を受けて、純弥はとうとう我慢の限界――のはずが、この男はまだたえる。涙は零さず、されどひと言。「·········何もしてあげられなかった」とだけポツリと零した。
二人だけの空間が出来あがった。かと思いきや、それに茶々を入れるやつ。タキだった。
「まったくお熱いねえお二人さーん! こんな湿度高い中盛り上がられたら蒸し暑い
のなんのって!なあ?」
アイコンタクトを送る先はキラ。それを受けてあげて、キラも仕方ないな、というポーズで、しかしちゃんと加わり、純弥の頭に手をポンと置く。
「ほれ、相坊や。飯にしよう。」
しかし、キラには何時もの毒素が足りなかった。
ただ、最後まで冷静に地獄を駆け抜けた〝相坊や〟への敬意と労いはあった。流石のキラも、そこは認めざるを得なかったようだ。
こうして四人は早めの朝餉にありつくのだった。
「·········これは······」
一方その頃、御影は英美里が捕らえられていたフロアの壁に、あるものを見つけ、純弥へすぐ来るように連絡を入れた。
「·········で、なんですか?用って。俺早く寝たいんですけど」
さすがに急な呼び出しに不機嫌さを隠せず、純弥は御影に問い掛ける。
「·········なに、少し見てもらいたいものが」そう言った御影に案内されて見たものそれは――。
「いやああああああああああ」
あの時。キラが純弥を運び去ったあと。暫くして英美里は泣き叫び始めた。
それと同時に、隠牙によって討たれていたと思われた。般若面の男が何事も無かったかのように起き上がった。そして英美里に問う。
「何を苦しんでいる? 君は無事父君の仇を討てたじゃないか。望み通り」
「違う‼️ こんなの望んでない!」
確かに、純弥が父を殺した。そう聞いた瞬間の激情は嘘では無い。だが実際に愛しい弟分を手に掛けた感触と、自分の意志に反して紡がれる呪詛の言葉で理解した。
この力はこの世にあってはならない。もし父がこんな化け物にされたのだとしたら、むしろ純弥は父を救ってくれたのだと直感した。だが、その恩人はもう――
「ふむ。だが、事実は変えられない。君は確かに、天野純弥の生命を奪った。その手で」
そう言われ、膝から崩れ落ちた英美里は、男に問うた。
「······私を、どうするつもり······?」あっけらかんと男は答えた。
「どうもしない。君の役目は終わったからな。あとは人間を食べて夜叉になり代われるか、食べずに飢えるかのどちらかだ。強制はしない。好きにしたまえ。それでは」そうにベもなく告げ、男は去って行った。
残された英美里は、男の言葉通り、湧き上がってくる。強烈な飢餓感に、打ちひしがれ、
「純ちゃん·········」
ただ、弟分の名を呼ぶことしか出来なかった。
そのままただ俯いて飢餓感に耐える中、英美里は、鋭く、禍々しく変貌した自分の爪を眺め、やがてあることを思い付いた。
『もし、これをあなたが読んでいるのなら、私はもう人ではないのでしょう。
まず、ごめんなさい。壁に、こんなに醜い爪痕をつけてしまって。人を襲うかもしれない、その恐怖に耐えきれず、衝動を抑えるために、この硬い石膏を掻きむしるしかなかったのです。どうか、修理費のことは気にしないでください。この傷跡が、私が最後まで人間であろうと藻掻いた証として、あなたの中で残ってくれたら、それだけで充分です。
私には、地獄が待っているでしょう。
だって、私は、あの人を…私の最も大切な人を、この忌まわしい手で殺めてしまったのだから。その罪は、永遠に償いきれるものではありません。私は、純粋で美しい魂を持つ人たちが向かう場所、あの光溢れる世界へは、決して行けない。
だから、お願いです。
もし、あなたが「純ちゃん」と同じ場所へ行けたなら、私の伝言を届けてくれませんか?
「私は、あなたと出会えたことを、心から愛せたことを、一度たりとも後悔していません。もし、この怪物になっていなければ、もっと長く、あなたの隣にいられたのに、と、ただそれだけが心残りです。だから、気に病まないで。あなたは、何も悪くないのだから。」
この言葉を、どうか、あの清らかな魂に伝えてほしいのです。
私は、あの子と出会えて、本当にし あわ せ』
そのあと字はぐちゃぐちゃとなり、読むことが出来なくなった。
夜叉の力が暴走を始めたのだろうか。それは分からない。
――否、そもそも、読み解くのもそこまでが限界だった。
純弥は、震える手で壁に残されたメッセージに触れていた。
「ああ……ああ……ううっ……」
指先が辿るのは、鋭い爪で深くえぐられた無数の傷跡と、血の滲むような文字の羅列。その文字が途切れた下、英美里が最後にすがりついたであろう場所に、彼は両膝から崩れ落ちる。
石膏ボードの冷たく硬い壁に、額を、頬を、そして胸を押しつける。
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「ひっ……うぅ……あ……ぁ……」
「······なあ、本当にいいのか? 純弥が万が一〝壊れちまったら〟どうする?」
「······かもしれない。彼は止まらない。今夜にでも立ち上がれてしまうでしょう。だから、〝これで〟壊れるなら御の字。あるいは――臭い言い方ですが、何かを掴み取るかもしれません。それを見極めたい」
「今度こそお嬢ちゃんに縁を切られるかもしれんぞ?」
「それが丸切り役に立たなかった男の末路として、相応しいかもしれません」
影角は理知的な見た目と裏腹な不器用さに、盛大に溜息を付いた。そして気付く。
「······雨、止んだな」
重くのしかかっていた分厚い雲がゆっくりと動き、壁の上の小さな窓の向こうで、黒と灰色の隙間から、鮮烈な金色の光が差し込んだ。
その光は、空から地上へ向かって垂直に降り注ぐ、まばゆい光の柱となり、壁にすがりついていた純弥の背中と、彼の傍らにある英美里の最後の言葉を、ゆっくりと照らした。
純弥は、震えを止め、ゆっくりと顔を上げた。涙で濡れた瞳に、その神々しいほどの光が反射し、未だ影の中にいるが、その瞳は爛々と輝いていた。
彼は立ち上がり、その光を浴びながら、強く拳を握りしめた。
その夕方、迅徒のオペレーションルーム。
その日はある話題で持ち切りだった。
······なあ、純弥くん。今日来ると思うか?
······無理に決まってんだろ。俺だったら二度と立ち上がれない自信あるよ。
そんな心配と憐憫の籠った声が充満し、しかしその中でも、明日香はヘッドセットを付け、目を閉じて、本当に来ないで欲しいという正直な気持ちと、絶対にアイツは来るという確信の両方を胸中で戦わせていた。
そして、その時は来た。
『こちら純弥。現在CB-H15ポイント。近くに夜叉の反応は無いか?』
その通信に騒めき出すオペレーションルーム。第一に声を上げたのは陸だった。
「純弥くん! 今夜は······せめて今夜だけでも休んでください!」
「······ありがとうございます。でもね――」「本当に苦しいのは俺じゃない。夜叉にされた人達です。彼らも喰いたくて人を喰ってる訳じゃない。だから――誰かを傷つける前に、出来るだけ早く処断してやる。それが俺達、化忍の役目です」
その悲愴な覚悟に、オペレーションルームは静寂に包まれていた。それに構わず、純弥は再び指示を乞う。
そして、目を閉じていた明日香も、それを聞き届けると、やがて目を開き、ディスプレイ上のマップに目を走らせた。
「純弥。CB-87ポイントに夜叉の反応。しかも近くに人がいる。急いで」
「了解」
「はあっ、はあっ、はあっ!」
一人のサラリーマンが、暗闇の中必死に走り続けている。その背後に迫るのは、夜叉と化した彼の同僚。溢れ出る飢餓感に突き動かされ、目の前の同僚の肉を喰らわんと、亡者のようにフラフラと、しかし確実にサラリーマンに迫っていた。
やがて行き止まりに追い詰められ、恐怖で目を閉じた瞬間――。
その間に割り込むように、確定された死の運命を引き裂くように、黒い影――隠牙が躍り出た。
そして戸惑う夜叉を睨み付けるように、その紅の複眼に光が灯った。
七四