仮面ライダー隠牙   作:モタボチ

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明けない夜

雨は上がり、空には白々とした月が掛かっていた。

かつてのような柔らかな光ではない。それは、鋭い刃物のように都会の闇を切り裂く、冷徹な監視者の眼差しのようだった。

湾岸エリアの廃工場跡。鉄錆と潮の香りが混じり合うその場所で、一人の男が「死」を振り撒いていた。

「······終わりだ」

隠牙の声は、通信越しに聞く明日香の耳に、まるで他人のもののように低く、平坦に響いた。

直後、紅の複眼が夜闇に軌跡を描く。黄金の装甲を纏った純弥の拳が、夜叉と化した怪異の胸を容赦なく貫いた。爆炎が背後に突き抜け、夜叉は断末魔すら上げられずに灰へと還っていく。

無駄のない、あまりに完璧すぎる「処断」。

以前の純弥なら、どこかに迷いや、救えなかった命への悲痛な祈りが拳に宿っていた。

だが今の彼には、それがない。ただ機械的に、効率的に、目の前の「害悪」を消し去るだけの装置と化していた。

「対象、討伐完了。次の指示を乞う」

「純弥······もういい、戻ってきて。そのエリアの反応はもう消えたわ」

明日香の声は微かに震えていた。オペレーションルームのディスプレイに映し出される、純弥のバイタルサイン。心拍数は驚くほど安定している。だが、その安定こそが異常だった。愛した英美里をその手で葬り、彼女の最後の絶望に触れたはずの男が、なぜこれほどまでに凪いでいられるのか。

「了解。帰還する」

短く淡白な応答。通信が切れた後、明日香はヘッドセットを外し、震える指を組んだ。

「······あいつ、壊れてねえか?」

隣でモニターを睨んでいたタキが、吐き捨てるように呟いた。その瞳には、ただ深い困惑と危惧だけが宿っていた。

「壊れてるなら、まだいいわ。泣き叫んで、暴れてくれた方が······。今の純弥は、自分を殺して、ただの『隠牙』になろうとしてる」

明日香は、かつて純弥を力一杯抱き締めた時の、あの強張った背中の感触を思い出していた。あの時、彼は耐えていた。涙を流さず、人殺しの業を背負うヒーローとしての仮面を被り続けていた。

だが今、その仮面は皮膚の一部となり、剥がせなくなっているのではないか。そんな予感が彼女を苛んでいた。

第拾肆話 明けない夜

一時間後。迅徒の本部、医務室の廊下で、三人は顔を合わせた。

任務を終えた純弥は、返り血を拭ったばかりの戦闘服のまま、こちらへ歩いてくる。

「よお、純弥。派手にやったらしいな」

タキが努めて明るい声を出し、純弥の肩に手を置こうとした。だが、純弥は僅かな予備動作もなく、その手をすり抜けるようにして、貼り付けたような笑顔を浮かべた。「タキ、そんなに近くに寄ると汚れが移るぞ。まだ夜叉の瘴気が残ってるかもしれないからな」

「······んなもん、気にしてねえよ。それよりさ、今日この後、飯でも行かねえか?キラも誘って、例の店で」

タキの提案は、彼なりの不器用な救いの手だった。しかし、純弥の笑顔は一ミリも動かない。

「ありがとう。でも、次の任務に備えて霊子の調整をしておきたいんだ。エミねぇの ······あの日から、俺のP霊子は少し不安定だから。効率よく動くために、集中させてくれ」

「純弥、あなた少し休みなさいよ。八首さんだって、数日は待機しろって言ってたじゃない」

明日香が堪らず割って入る。だが、純弥の視線は彼女を通り越し、どこか遠くの虚空を見つめているようだった。「休んでいる間に、誰かが夜叉に喰われる。俺が動けば、その数秒で救える命があるかもしれない。······化忍の役目は、それだけだろ?」

「それはそうだけど······!」

「大丈夫だ。俺は、もう迷ってない。······本当に。だから、そんな顔をしないでくれ、

明日香」

純弥の手が、一瞬だけ明日香の頬に触れようとして、止まった。彼は自分の指先を見つめ、何かに汚れたものを見るような目をすると、すぐにその手を下ろした。

その拒絶は、優しさという名の氷のように冷たかった。二人は、目の前の男が自分たちの手の届かない、深い深い淵の底に立っていることを痛感させられた。

「天野純弥、入りなさい」

八首の重々しい声が、執務室に響いた。

扉を開けた純弥を待っていたのは、八首と、そしてホログラムで投影された維心の姿だった。

「先日の女郎蜘蛛夜叉······英美里君の件、その後の対応を含め、貴公の働きは賞賛に

値する。だが、敵は止まってはくれない」

八首が机の上にホログラムを広げる。「ジュウニシンショウ」計画。その禍々しい名の下に進行する、吐き気を催す企み。「敵の次なる一手が見えた。彼らは『器』の完成を急いでいる。そのために、特定の霊子波形を持つ『一般人』を拉致、あるいは現地で夜叉化させる実験を繰り返しているようだ」

維心が低い声で言葉を継ぐ。

「次のターゲットは、都市中心部にある聖マリアンヌ病院に勤務する、一人の看護師だ。名は、瀬戸佳奈恵。彼女の持つ特異な霊子適正は、敵にとって鏑木英美里以上の価値がある」

「護衛、ですね」

純弥が即答する。その声には何の感情も、恐怖も混じっていない。

「そうだ。だが、単なる護衛ではない。敵は間違いなく、最強クラスの夜獣と、般若

面の男――真流源忍党の幹部を投入してくるだろう。······純弥君、貴公に、この命を預けられるか?」

八首の鋭い問いかけに、純弥は深々と頭を下げた。

「命を懸けるのは、俺の仕事です。その女性に、夜明けを見せる。······そのためだけに、俺はここにいます」

その言葉に嘘はない。だが、その決意の裏側には、英美里が残した「私は、あなたと出会えて、本当にしあわせ」という血の滲むような言葉が、呪いのように、あるいは唯一の救いのように渦巻いていた。彼は、自分を愛してくれた英美里を殺した。ならば、自分にはもはや、誰かのために死ぬ権利しかない。

そう確信している純弥の背中は、窓から差し込む朝の光を受けてもなお、濃い影の中に沈んでいた。

「了解しました。直ちに任務に就きます」

振り返る純弥の瞳は、爛々と輝き、どこまでも澄んでいた。それが正気なのか、あるいは静かな狂気なのか。

明日香とタキは、遠ざかるその背中を、ただ祈るような思いで見送るしかなかった。

夜はまだ、明けていない。

迅徒本部の屋上。降り続いていた雨はいつの間にか止み、湿った風だけが吹き抜けていた。

遠くに見える湾岸エリアの灯りは、数日前のあの凄惨な戦いなど無かったかのように静まり返っている。

タキは手摺りに肘をつき、とっくに舐め尽くした飴の棒を口に咥えたまま、重苦しい沈黙を吐き出した。

「······なあ、明日香。俺たちは一体、何のためにここにいんだ?」

その問いは、夜の静寂に吸い込まれるように消えていった。隣に立つ明日香は、応えずにただ夜の街を見つめている。

「夜獣を倒して、夜叉を狩って······それで誰かを救えてんのか? 英美里さんの時だってそうだ」

タキの声が微かに震える。

「俺たちは現場で指をくわえて見てることしか出来なかった。挙句の果てに、あいつ

······純弥に全部背負わせて、あいつは自分の手で、一番大事な人間を······」タキは、病院から戻ってきた時の純弥の顔が脳裏に焼き付いて離れない。

人殺しだと自嘲し、無理に作った歪な笑顔。

あんな顔をさせておいて、自分たちは仲間だ、ヒーローだとのさばっている。その矛盾が、タキの心を内側から削り取っていた。

「俺たちが強くなったって、結局あいつ一人が地獄を見る結末は変わらねえんじゃねえかって······最近、分かんなくなっちまったんだよ」

タキの弱音を、明日香は静かに、しかし冷徹なまでの確信を持って遮った。

「分からなくなってる場合じゃないわ。私たちが迷ったら、本当に純弥の居場所がなくなる」

明日香が振り向いたその瞳には、かつてのような迷いはなかった。そこにあるのは、友を救えなかった悔恨を超えた、凄絶な覚悟だった。

「あいつはね、タキ。もうとっくに限界を超えてるのよ。英美里さんをその手で葬って、彼女の最期の想いを知って······ それでも翌日には戦場に戻っていく」明日香は強く拳を握りしめ、手摺りを叩いた。

「純弥はもう、踏ん張りすぎて足が擦り切れてる。それでも止まろうとしない。自分の心が死んでいくことさえ、代償として受け入れてるのよ」

彼女は、純弥が拒絶するように見せた、あの「貼り付けた笑顔」を思い出す。

二人の心配をやんわりと撥ね除け、ただの「化忍」という装置になろうとしている純弥。

「あいつが一人で地獄の底まで歩いていくって言うなら、私たちはその道が崩れないように踏ん張るしかない。あいつが擦り切れた足で立っているなら、私たちが弱音を吐いてる場合じゃないわ。······私たちが倒れたら、あいつは誰を頼ればいいの?」明日香の声には、自分自身に言い聞かせるような鋭さがあった。

「あいつがヒーローごっこだって笑うなら、私たちが本物のヒーローになって支えるの。······あいつが『人殺し』の自分を許せないなら、私たちが何度でも『あんたは救世主だ』って言い続けるのよ」

タキは、咥えていた飴の棒を地面に落とした。明日香の言葉は、彼の甘えを容赦なく暴き立てた。

自分が苦しいのではない。一番苦しいのは、今この瞬間も夜叉の気配を追って闇を駆けている純弥なのだ。

「······へっ、相変わらず手厳しいな、お前は」

タキは短く笑い、乱暴に髪を掻いた。その瞳には、微かだが確かな火が灯り直していた。

「分かったよ。あいつが地獄まで行くってんなら、俺もそこまで付き合うぜ。······足が擦り切れようが、魂が削れようが、あいつを一人にはさせねえ」二人は再び、夜の街を見下ろした。

遥か南西の空。純弥が向かった先で、微かな霊子の火花が散ったような気がした。

「明日香。次の任務、八首のじいさんに志願してくる。あいつの背中、これ以上誰にも撃たせねえようにさ」

「ええ。私も行くわ。······純弥に、温かい朝食を食べさせるまでは、絶対に死なせないんだから」

二人の決意を乗せて、風が強く吹き抜けた。

闇は深く、夜明けはまだ遠い。だが、擦り切れた足で進む友のために、彼らはこの場所に踏みとどまることを選んだ。

聖マリアンヌ病院の裏手に広がる、旧市街の廃ビル群。かつての賑わいは消え失せ、今では夜の帳が落ちると同時に、人知れず異界へと変貌する場所だ。

「······ターゲット、視認」純弥は、廃ビルの屋上から夜の街を見下ろしていた。その身を包むのは、黄金の輝きを放つ装甲――『隠牙』の姿だ。蘇生後の異常な高密度のP霊子が、彼の全身を鈍く、そして鋭く脈動させている。

「美緒······! こっちだ、走れ!」

眼下の路地裏で、必死に足を動かす二人の人影があった。護衛対象である看護師・瀬戸美緒と、彼女の手を引く恋人の俊介だ。彼らの背後からは、現実の理を捻じ曲げたような異形――夜獣の群れが、影を這うように迫っていた。

「助けて······誰か!」

美緒の悲鳴が夜の空気を切り裂いた瞬間、純弥の瞳に紅の火が灯った。

「隠牙、介入する」

純弥の声には、もはや以前のような迷いも、死への恐怖もなかった。彼はただ一歩、虚空へと踏み出した。

ドォォォン!

凄まじい衝撃波と共に、黄金の影が美緒と夜獣の間に割り込んだ。着地の衝撃でアスファルトがクモの巣状に割れ、土煙が舞う。

「ガアアアッ!?」

先頭を走っていた夜獣が、純弥の放った回し蹴りによって、肉塊となって壁に叩きつけられた。純弥は立ち止まることなく、次々と闇から溢れ出す夜獣の群れへと躍り出た。

「ひっ······な、なんだ、こいつ······!?」

俊介は腰を抜かし、目の前で繰り広げられる「蹂躙」に目を剥いた。

純弥の動きは、もはや戦闘というよりは、冷徹な「処断」に近かった。無駄のない動きで夜獣の牙をかわし、P霊子を集中させた手刀で、その核を一突きにする。爆炎が夜闇をオレンジ色に染め、夜獣の断末魔が周囲に響き渡る。

かつての純弥なら、どこかで怪物の末路を哀れんだかもしれない。だが今の彼は、ただ効率的に、そして徹底的に目の前の敵を排除していく。それは、英美里をその手で葬り、彼女の最後の言葉に触れたことで完成してしまった、あまりに悲しい「化忍」としての完成形だった。

最後の一体が灰となって崩れ落ちるまで、時間は一分もかからなかった。

周囲に不気味な静寂が戻る。純弥はゆっくりと立ち上がり、返り血を一振りで払った。彼は背後の二人に歩み寄りながら、ヘルメットのマスクを解除した。そこに現れたのは、ひどく冷徹で、それでいてどこか「貼り付けたような」穏やかな笑顔を浮かべた少年の顔だった。

「······瀬戸美緒さんですね。もう大丈夫です。怪我はありませんか?」

純弥の声は優しかった。だが、その瞳の奥には、どんな光も通さない深い闇が澱んでいた。

呆然と立ち尽くしていた俊介が、突然、弾かれたように声を上げた。

「すっげえ······! なあ、あんた! 今の見たかよ!? すっげえ、マジで仮面ライダ

ーみたいじゃん!!」

俊介の瞳には、死の淵から救い出されたことへの興奮と、圧倒的な力に対する無邪気な憧憬が輝いていた。彼は興奮を抑えきれない様子で、純弥の肩に手を置こうと近づいてくる。

「化け物をあんな一瞬で······! あんた、本物のヒーローなんだな! 国かどっかの

秘密兵器か? 格好良すぎるだろ!」

その言葉は、純弥がかつて夢見ていたかもしれない、最高の賛辞だった。

しかし、その言葉を浴びた純弥の笑顔は、一ミリも動かなかった。それどころか、彼の背負う黄金の装甲が、一瞬だけ重苦しく沈んだように見えた。

「······いえ。そんな立派な人間じゃありませんよ」

純弥は、俊介の手を優しく、しかし明確な拒絶を持って遮った。

「俺は、大切な人を殺し······救うべき人をこの手で壊してきた男だ。······ヒーロー

なんて、そんな綺麗なものじゃない」

純弥は自嘲気味に口角を上げた。その瞳は、俊介を通り越し、自分の手が血に染まったあの瞬間の、雨の日の景色を見つめているようだった。

「俺はただの、掃除屋です。夜が明けるまでの間、汚れを引き受けるだけの装置に過ぎない」

「純弥······さん」

美緒が、痛々しいものを見るような眼差しで純弥を見つめた。

純弥は、再びマスクを閉じ、黄金の化忍へと姿を戻した。

「明日香、タキ。護衛対象の合流を完了した。······これより、撤収ルートの確保に移行する」

通信機に淡々と告げ、純弥は夜闇の中へと視線を向けた。

彼の足元には、擦り切れた足で踏ん張った跡が、深く刻まれていた。

「······さあ、行きましょう。まだ、夜は明けていませんから」

純弥の冷たい拒絶に、一瞬だけ重苦しい沈黙が流れる。けど、俊介はそんな空気を、彼らしい真っ直ぐさで吹き飛ばした

「······掃除屋だか装置だか知らねえけどさ」

俊介は頭を掻きながら、隣で震える美緒の肩をギュッと抱き寄せた。

「俺にとっては、美緒を助けてくれたあんたは、世界で一番かっこいいヒーローだよ。

······なあ、美緒?」

美緒は少し驚いた顔をして俊介を見上げた。でも、すぐに安心したように、彼の胸に顔を埋める。

「······うん。俊介くんが、私の手をずっと離さないでいてくれたから、私、今日まで頑張れた。······でも、本当に怖かったの。もう俊介くんの顔、見られないかと思っ

たから」

「バカ、何言ってんだよ。俺があんたを置いて逃げるわけないだろ。あんたがいない明日なんて、俺には一秒も必要ねえんだから」

俊介は照れ隠しみたいに、美緒の頭をちょっと乱暴に、でも愛おしそうに撫でまわした。美緒は「もう、髪がぐちゃぐちゃになっちゃう」なんて言いながら、さっきまでの死の恐怖が嘘みたいに、柔らかく微笑む。

「俊介くん。······大好き。守ってくれて、ありがとう」

「お、おう。······俺の方こそ、生きててくれてサンキューな。······愛してるぞ、美緒」

二人は廃ビルの陰で、泥だらけのまま、お互いの体温を確かめ合うように深く、優しく抱きしめ合った。

キラはそれを見て密かに「ひえー。砂糖吐きそうだぜ」と冷やかすが、純弥は違った。そこには、化忍の戦いや、神の企み、復讐の業なんて一ミリも入り込めない、純粋で、どこまでも眩しい「愛」の形があった。

それは、純弥がかつて英美里と掴みたかった、そして永遠に失われてしまった、美しすぎる日常の欠片だった。

マスクの奥で、純弥は息を止めた。その光景があまりに眩しくて、汚れた自分が見ていいものじゃないって、心が悲鳴を上げたから。

「······明日香、タキ」

純弥の声が、通信機越しに響く。さっきまでの機械的な冷たさが、ほんの、ほんの少しだけ揺らいでいた。

「······こいつらの夜明けを、俺は壊させない。······絶対にだ」擦り切れた足に、力がこもる。

純弥は二人に背を向け、闇の向こうで蠢く次なる敵の気配を、鋭く睨み据えた。

「そこに居るのは分かってるぞ」

純弥の低い声が、夜の静寂を切り裂いた。

その言葉に応じるように、霧の向こうから乾いた足音が響く。ゆっくりと姿を現したのは、かつて英美里を絶望へと突き落とし、純弥を死の淵まで追いやった「般若面の男」であった。

「流石は蘇りし希望。その感覚、以前よりも研ぎ澄まされているようだな」

男は嘲るように笑い、懐から不気味な光を放つ巻物を取り出した。純弥の脳裏に、英美里を手にかけた瞬間の痛みと、彼女が遺した爪痕の記憶が奔走する。

「······貴様だけは、俺の手で終わらせる」

隠牙は、その言葉と共に爆発的な踏み込みを見せた。地面のアスファルトが砕け散り、黄金の閃光が般若面の男の懐へと潜り込む。

黄金の猛攻

戦闘の序盤、主導権を握ったのは隠牙であった。

蘇生後の純弥が宿すP霊子の出力は、以前とは比較にならないほど高まっており、その一挙手一投足が衝撃波を伴う破壊の塊となっていた。

「らあああッ!」

純弥の拳が男の胸元を捉える。男は間一髪で後退するが、純弥はその隙を逃さず、追撃の手刀を繰り出した。黄金の火花が散り、男が纏う不気味な法衣が切り裂かれる。男は翻弄されているように見えた。隠牙の放つ連撃は、もはや人間の動体視力で追える域を超えていた。

「どうした、あの時のような余裕はないのか!」

純弥の叫びと共に、渾身の蹴りが男を吹き飛ばし、巨大なコンクリート壁に叩きつけた。

しかし、崩落した瓦礫の中から立ち上がった般若面の男の口元には、未だ余裕の笑みが浮かんでいた。

「素晴らしい。だが······君のその力も、所詮は我々が与えた『器』の副産物に過ぎないのだよ」

男の手の中にある巻物が、ドス黒い霊子を放ち始めた。それは英美里が夜叉化した際のものとは質の異なる、極めて高度に制御された、しかし悍ましい波動であった。「見せてやろう。次なる段階、『ジュウニシンショウ』の真なる姿を」

男の声が響くと同時に、彼の身体が急激に膨張し、灰色の瘴気が周囲を飲み込んだ。

「変身――」

霧の中から現れたのは、これまでの異形そのものといった夜叉とは一線を画す存在であった。

それは、全身を鋼のように硬質な「灰色の装甲服」で包み込んだ、人型の戦士。頭部には鼠の耳を模したような鋭いアンテナが伸び、複眼は不気味な緑色の光を放っている。

「これが『子(ね)』の位を冠する夜叉――鼠夜叉だ」

その姿は、野性的な怪物というよりも、冷徹な「殺戮兵器」であった。

「······何が変わろうと、叩き潰すだけだ!」

純弥は再び肉薄し、先ほどと同じく必殺の右拳を叩き込んだ。

しかし、鈍い金属音と共に、その拳は鼠夜叉の掌によって受け止められていた。

「なっ······!?」

「速度は合格。だが、出力が足りないな」

鼠夜叉が軽く腕を振るっただけで、純弥の巨体が木の葉のように吹き飛ばされた。

空中で体勢を立て直そうとする隠牙だったが、視界から鼠夜叉の姿が消える。

「速い······!」背後に現れた鼠夜叉の膝蹴りが、隠牙の背面にめり込む。黄金の装甲に亀裂が走り、純弥は肺の中の空気をすべて吐き出しながら地面を転がった。

「純弥! 逃げて! そいつは今までの個体とは違う!」

通信機から明日香の悲鳴のような声が響くが、純弥には答える余裕すらなかった。鼠夜叉の攻撃は、正確無比であった。

隠牙が立ち上がる隙を与えず、灰色の装甲から放たれる高周波のブレードが、黄金の装甲を次々と切り裂いていく。隠牙の誇るP霊子の障壁も、その異常な振動の前には紙細工のように無力であった。

「ガフッ······!」

血反吐を吐き、膝をつく隠牙。

鼠夜叉は、獲物を追い詰めた猟師のように、ゆっくりと純弥の首元に手を伸ばした。「天野純弥。君の命は確かに人類の希望だった。だが、希望はここで潰え、新たな絶

望の礎となるのだ」

無慈悲な灰色の拳が振り上げられた。視界が赤く染まり、純弥の意識が遠のき始める。

足はすでに感覚を失い、黄金の光は消え入りそうなほどに弱まっていた。

鼠夜叉の灰色の拳が、死神の鎌の如く振り下ろされようとしたその瞬間であった。

「やめて!」

夜闇を引き裂くような、あまりに悲痛な絶叫。それは通信機から響く明日香の声でも、戦場を駆ける仲間の声でもなかった。

鼠夜叉の冷徹な緑の複眼が、僅かに動く。その拳の先、倒れ伏す隠牙の身体を覆い隠すようにして、一人の女性が立ちはだかっていた。護衛対象であるはずの、瀬戸美緒であった。

「美緒! 逃げろ、そいつは······!」

背後で俊介が喉を枯らして叫ぶが、彼女は一歩も引かなかった。小刻みに震えるその肩とは対照的に、鼠夜叉を見据える瞳には、死をも恐れぬ覚悟が宿っていた。

「······どけ。君の命には、まだ価値がある」

鼠夜叉の、電子的に加工された歪な声が響く。だが美緒は、背後で血を吐き、黄金の輝きを失いかけている純弥を、その細い腕で必死に庇い続けた。

「······ありがとう。隠牙さん、私を助けてくれて」

美緒は、背後にいる純弥へ向けて、消え入りそうな声で囁いた。

「あなたが、あんなにも悲しい目で私を救ってくれたから······私は、少しだけ強くなれた気がするの。だから今度は、私があなたを守る番」

純弥は、霞む視界の中で彼女の背中を見上げていた。装甲は砕け、P霊子の供給は途絶えかけ、指先一つ動かすことすらままならない。

「······俊介くん」

美緒は、次に遠くに立ち尽くす恋人へと顔を向けた。その表情には、すべてを悟った者の、あまりに清らかな笑みが浮かんでいた。

「ごめんなさい。一緒に、朝を迎えられなくて。あなたと過ごした毎日は、私の宝物だった。······さよなら」

「美緒ぉぉぉぉッ!!!」

俊介の、魂を削り出すような絶叫が旧市街の廃墟に木霊した。彼は駆け出そうとしたが、鼠夜叉から放たれる圧倒的な瘴気に気圧され、その場に崩れ落ちる。

「······愚かな。だが、その自己犠牲もまた、『器』を育てる肥料となる」鼠夜叉の灰色の腕が、無慈悲に美緒の細い首を掴み、宙へと吊り上げた。

「······ぐ、っ······あ······」

苦しげに顔を歪める美緒。その光景を、純弥は地面に顔を伏せたまま、ただ見つめることしかできなかった。

(まただ。また、俺は······目の前で······)

英美里の、あの血の沼に沈んでいった最期の微笑みが脳裏を掠める。 守るべき人たちを救うための力。人殺しの汚名を背負ってまで手に入れたはずの力が、今はただの重荷となって彼を地面に縛り付けていた。

「う······あぁぁ······」

純弥は、泥と血に塗れた拳を、力無く、しかし狂おしいほどの情念を込めて握りしめた。 指先が地面のアスファルトに食い込み、剥がれた黄金の装甲の下から、どす黒い霊子のスパークが漏れ出す。

逆転の兆しは見えない。

鼠夜叉の緑の光が、処刑の宣告を下すように輝きを増す。

絶望という名の闇が、再び黄金の戦士を飲み込もうとしていた。

――夜明けは、まだ、遠い。

六九

 

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