深夜――。
とある埠頭の一角。錆びたコンテナ群が、月の光すら吸い込むような闇を形成していた。その中で、真流源忍党の工作員たちと、海外の犯罪者グループによる、おぞましい闇取引が展開されていた。
夜叉に〝する〟ための人間。あるいは、夜叉に〝食わせる〟ための人間たち――。
「これで全てだ。約束の通り、対価は貴様らの口座に振り込ませたぞ」
海外の犯罪者グループのリーダー格が、安堵と僅かな嫌悪を混ぜた声で吐き捨てる。
「ああ。数も質も問題はない。夜叉共も、今宵は満たされよう」
源忍の工作員が、冷たく、そしてどこか楽しげな声で応じた。何事もなく取引は成立したかに見えた。・・・・・・・・・その時。
埠頭の照明が、一斉に、ブツンと音を立てて落ちた。
突然の完全な暗闇。
「What the――⁉️」
パニックに陥る海外の犯罪者たち。だが、それは始まりにすぎなかった。
一筋の謎の影が、高速で移動する。一人。また一人。影が持つ二振りの刀が閃く度に、鮮血が夜の闇に散り、重い物が崩れ落ちる音が響く。
化忍の仕業だと気付いた源忍のひとりが、叫びと共に夜叉へと変化し、迎撃を試みた。
だが、次の瞬間――
見えない風の刃が、その夜叉の両腕と片足を、同時に切断した。グァッ⁉️という呻きすら上げさせてもらえず、夜叉はそのまま、あっさりと討伐される。
唯一、まぐれで生き残っていた犯罪者グループの下っ端が、命からがら逃げようとコンテナの隙間を駆け抜ける。・・・・・・・・・刹那、足首を捉えたワイヤートラップによって、男は勢いよく宙吊りにされた。
逆さまになった男の視界の最期に映ったのは、影の主―― 化忍の姿。
そして、その二刀流が、鋏状となって、男の首に添えられた。
直後。
埠頭に響くのは、シュッ!という、金属を強く擦り合わせた音と、ゴトッ!と重い物が床に落ちる、ただそれだけの音。
大量の、夥しい血液が、コンテナの影からドクドクと流れ込んでくる。
化忍は、特に靴が汚れるのも気にした様子もなく、ピチャピチャと音を立てながら、血の海から出てきた。
直後、物陰から待機していた駐忍たちが、静かに姿を現す。彼らは慣れた手つきで死体の片付けと、怯える人質たちの救出作業を始めた。
「今宵もまた、見事なお手並みでした、維心様」
和風にアレンジされた執事服といった出で立ちの精霊従、迅頼が、その場で忍術を発動させる。すると、パーという微かな光と共に、化忍の血塗れの全身の汚れが、跡形もなく洗い落とされ、同時に化忍こと切宇〈キリュウ〉は変身を解いた。
そうして現れた青年――化伊賀嵐維心(いがらし いしん)は「ああ」と、ただそれだけを答える。
そして、小さく息を吐き出すと、「帰るぞ」とだけ続けた。
無言で了承した迅頼は、一瞬、その姿を、青龍へと変え、グワッという咆哮も無く、静かに。
そして、再びその姿が瞬くと、青龍は、重厚な黒のバイクへと変化していた。
維心はそれに跨ると、軋むコンテナ群を背に、闇の埠頭から去っていくのだった。
維心と迅頼が去った後、埠頭に残された駐忍たちは、黙々と、しかし淀みなく作業を進めていた。
「しかし気の毒なもんだよ。〝あの〟伊賀嵐家ご当主様が、今となっては我々駐忍
以下のゴミ掃除当番やらされてるんだからな」
「おい、口を慎めよ·········こんなこと聞かれたらなにされるかわかんないぞ?」
「別に大丈夫だって。俺たち以外誰に聞かれるわけでも――」
「俺が聞いてるんだが?」
「ひい⁉️」
この駐忍部隊の班長であった。「陰口は感心せんな。あの方にはあの方の、我々には我々の仕事があるって、それ
だけの話だろ? そして偉そうに言うならさっさと自分の仕事を片付けろ」
「はい! ボス‼️」
そう言ってそそくさと自分の作業に戻っていく駐忍であった。
が、彼の陰口も、あながち的外れとは言い難い。
思い出して欲しい。彼が伊賀嵐維心を〝ご当主様〟と呼んだことを。
当主たるものが、このような血生臭い暗殺任務に従事するものだろうか?
その異常。理由を知る者達は存外多く、そしてその重大さ故に、ある日誰かがふと零したのだ。
第漆話 伊賀の字も今は朽ち
迅徒本部の一室、簡易処置室。壁には人体模型や医学書が並び、普段の訓練所とは違う清潔な雰囲気が漂っている。
ベッドに横たわるのは、またしても戦闘で身体の節々を痛めている天野純弥。その隣では、白衣代わりのTシャツを羽織った多貴悠樹が、真剣な表情で右手を純弥の腹部に翳している。
「いいか、純弥。前回の夜叉戦で無茶な特攻をかました罰だ。腹部の打撲の治療を兼ねて、俺の医療忍術の練習台になってもらうぞ」
「うぐ·········わかってるって、タキ·········!でも、もうちょっと優しくしろよな!お前の『医療忍術』とやらは、いっつも痛いか、くすぐったいか、どっちかしかないんだよ!」
タキは純弥の文句を無視し、集中力を高める。彼の右手のひらから、微かな緑色のP霊子が漏れ出し、純弥の腹部のガーゼに触れる。
「よし、今回は緻密なP霊子コントロールの練習だ。治癒術の出力調整を慎重に
·········」
次の瞬間、緑色の光は一気に強烈な青白い光に変わり、純弥の腹部をキン!と冷やすような感覚が襲う。
「ひっぎゃあああ!冷たい冷たい冷たい!南極に放り出されたのか!」純弥はベッドの上でエビ反りになり、思わずタキの手を叩き払う。
「くっ、また失敗か·········。P霊子を精密に制御するってのが、こんなに難しいとはな。つい癖で土遁の硬さに霊子を集中させすぎちまう!」
タキは汗を拭い、気まずそうに純弥を見下ろす。純弥は涙目になりながら腹をさすり、タキを睨みつける。
「土遁の堅牢壁(けんろうへき)じゃねえんだよ!俺の腹で石の柱作るな!罰っつーか、もはやこれは実験台だろ⁉️」「うるさい!俺に足手まといを脱却する機会を与えてくれてるんだろ!ほら、すぐにやり直しだ!俺に世話になるのを嫌がりそうだしな!」
「なんでだよ!せめて三十分休憩!休憩!!」
「却下だ」
二人の間の騒がしいやり取りを、部屋の隅で明日香と青年形態のキラが腕を組んで見つめていた。
「相変わらず見てて滑稽だね。一般人くんの学習能力のなさときたら」キラは鼻を鳴らした。
「あんな、通常忍術もままならないド素人が、あまつさえ医療忍術なんぞに手を出
して。忍術戦闘のほうが楽かもしれない険しい道のりだというのに」 明日香は小さくため息をつく。
「そう言ってやらないでよ。純弥が戦って、タキが治す。これからに不安は確かにあるけど、良いツーマンセルじゃない。純粋な友情ってヤツよ。アンタも見習ってアイツの精霊従、しっかりやってよね?」
へいへい、キラは手をヒラヒラと振った。
「にしても、医者への未練を煽って無茶へのブレーキにするなんて、残酷で面白い坊やだとは認めるがね」
キラはタキを評して、だが、と続ける。「あんなお笑いじみた治療で、本当に人の傷を治せると思っているのかねえ」
キラの言葉に、明日香は反論せず、ただ静かに処置台の二人を見た。タキがまたP霊子の制御に失敗し、「ぎゃあああ!」と叫ぶ純弥の声が響く。
明日香は、そっと窓の外の空を見上げた。
(·········それでも、一人で業を背負おうとするよりは、ずっとマシよね。タキ、アンタには感謝しなきゃ)
そう、明日香は胸中でごちるのだった。
「もうやだ! やっぱ一抜ける!」
純弥はついに耐えきれなくなり、ベッドから飛び起きた。腹部の激痛と、タキの集中する眼差しから逃れたい一心だった。
タキが慌てて手を伸ばすが、純弥はそれをかわし、そのまま勢いよく処置室のドアを開け放った。
「だあああ、逃げた! あいつ、待てよ純弥!」タキも純弥を追って処置室から飛び出す。
純弥が廊下に出たその瞬間、角を曲がってきた人物と激しくぶつかった。
「あいたあ!」
純弥は尻餅をつき、誰しも覚えのあるであろう、あの尾てい骨を強打した痛みに悶絶しそうになるが、何とか耐えて相手に謝ろうと顔を上げると、ぶつかった相手は微動だにせず、ただ純弥を見下ろしていた。
それは、紺碧色の髪をした青年だった。
身長は高く、スラリと伸びた手足でまるでモデルのようだった。
しかし、絶対にそんな煌びやかな存在では無いと確信させるのは、その眼だった。
虚無。
そう一言で言い表せてしまうほどに、彼の瞳からはあらゆる情動を感じ取れなかった。
そんな只者ではない雰囲気に圧倒され、純弥は身動きが取れなくなってしまった。
「ちょっと純弥! 人にぶつかっといて何ボサっとしてんのよ⁉️ どうもすみませ―
―」
純弥の後を追って来た明日香もタキも、同じくその雰囲気に呑まれ、言葉を失ってしまった。キラはというと、青年が誰か分かったのだろう。げ、とだけ言うと処置室の奥に引っ込んでしまった。
時間にして数秒だが生まれてしまった膠着状態を破ったのは、意外にも青年――伊賀嵐維心の方からだった。純弥に手を差し伸べて、
「怪我は·········無いか?」とだけ尋ねてきた。
「――え。あ、はい」
ようやく相手から人間味を感じられたことで、三人は再起動することができた。 「あの、ぶつかっちゃってすみませんでした」
「大事無い」
とはいえ、伊賀嵐の返答も素っ気ないもので、接するのに緊張感を感じずにはいられなかったが。
その時、廊下の奥から、地を這うような低い唸り声が響いた。
「ああ! 申し訳ございません! 維心様!」
その声と共に、一陣の風が吹き荒れたかと思うと、一頭の巨大な青龍が、二人の間にぬっと割って入った。
埠頭では和風執事服の姿であった精霊従・迅頼が、全長5メートルはあろうかという青龍形態で現れたのだ。しかし、その青龍の口元や顎鬚は白毛で覆われており、永い時を生きてきたであろう風格を感じさせた。
巨大な青龍は、維心と純弥の間に割って入ると、その巨体で頭を下げ、維心に向かって深々と謝罪の言葉を述べた。
「この迅頼、維心様の護衛として、不覚にも死角を作ってしまいました! 貴方様の大
切なお体に傷を負わせるなど、万死に値する愚行! 重ね重ね申し訳ございませんッ!」
「いやいやいや! ぶつかったのは俺の方で!」
純弥が慌てて立ち上がり、青龍に手を振って否定する。
「いえいえ! 若輩者の貴方様が、我らが維心様のご通行を妨げることが、まずあってはならない事態なのです! 不慮の事故とはいえ、私めの管理不足でございます!」
「いやいや、待って! ここ廊下だし、青龍形態でそんなに頭下げられたら、床が傷ついちゃうから!」
タキも思わず叫んだ。すると、青龍は純弥の言葉を聞いてさらに焦る。
「なんと! 主が突き飛ばされた上に、公共物を傷つけるおそれまで! 青龍たるもの、
この上なき恥辱!」
青龍はさらに頭を下げようとし、その度に巨大な体が震え、廊下の空気が振動する。
「ちょっと待ちなさい! アンタ、頭下げすぎ! 純弥、もういいから逃げなさい!」 明日香が、青龍の巨体に気圧されながらも、二人の間に割って入ろうとする。その騒ぎが、本部の廊下に鳴り響いた。
「おやおや、珍しい。維心君がこんなところで立ち往生とは」 その騒ぎに、穏やかながらも威厳のある声がかけられた。
三人が声のした方に視線をやると、そこには迅徒本部最高幹部の一人、八首が立っていた。彼はいつものように優雅な微笑を浮かべ、状況を楽しんでいるようにも見える。
青龍は八首の姿を見ると、慌てて変身を解き、再び和風執事服の迅頼に戻った。
「八首様、これは誠に申し訳ございません。廊下で騒ぎを·········」迅頼が頭を下げる。
「構わないよ、迅頼君。しかし、この騒ぎの原因は維心君が時間を過ぎても来ないからなんだが?」
八首は維心に問いかける。
維心は、依然として無表情のまま、八首に視線を向けた。
「·········気に病むな、迅頼」
維心はまず従者に一言告げた後、八首に向き直った。
「済まない。少し私用が入った」
「ふむ、私用か。それも珍しい。まあいい、会議までまだ多少時間はある。君たち、こっちへ」
八首は純弥、タキ、明日香の三人を手招きし、維心の隣まで連れてきた。
そして、彼らを交互に見比べながら、穏やかな口調で紹介を始めた。
「君たちがぶつかったこの青年こそ、第百三十二代目伊賀嵐家当主にして、迅徒が誇る化忍銘・切宇(キリュウ)、伊賀嵐維心君だ。そして、こちらは彼の精霊従である迅頼君」
八首は維心に向き直り、三人を指し示す。
なお、純弥達三人は、改めて自分達が誰にぶつかったのか思い知らされ、顔を青ざめさせていた。
「こちらの三人は、最近頭角を現してきた――」
「聞いている」 八首の説明を遮り、維心は、三人の詳細な人となりを諳んじてみせた。
「多貴悠樹。一般人でありながら友を助けんと組織に飛び込む友誼は買うが、それ以上に蛮勇が過ぎる。生きているのは奇跡と思え。
魅上明日香。恋慕を戦いに持ち込むなと言いたいところだが、それも難しい年頃なのだろう。だが〝その時〟が来たとき、心乱さぬよう、心がけておけ」
ここまで人となりを明け透けに評されていたタキと明日香の二人――しかも明日香ははっきり〝恋慕〟とまで言われたが――維心の言葉の針と圧は、二人に反論を封じさせており、当主の名は伊達ではないことを証明していた。そして――
「天野純弥。·········復讐の道は、険しいぞ」
最後の言葉は、維心の他の評と異なり、憐憫を帯びていた。ように感じたが、すぐに元の無表情に戻ったので、純弥は自分の見間違えだったのではないかという疑念を抱かずにはいられなかった。
さて、と八首が手拍子を打った。
「せっかくの出会いだ。伊賀嵐の名と実力を守り続ける維心君と、仲良くしてあげてくれ」
八首の言葉に、純弥たちは緊張した面持ちで、ただ静かに維心を見つめ返した。
「·········よろしく、頼む」
維心は、相変わらず感情がないかのように、静かにそう口にするだけだった。 そして迎える昼時。
純弥達の維心への理解はさらに混迷を深めるのだった。
維新は配膳の列に並ばず、そそくさと席を確保すると、迅頼にとある紙袋を取り出させた。
〝当主〟と呼ばれるエラい立場のやつが買い食い?それだけでも驚きに値するが、紙袋の柄が問題だ。落ち着いた茶色をベースとして、中央の赤い柄に印字された、誰もが知るあの黄色いMの字――!
「「「マ、〇ックだと⁉️」」」
影の国防の食を司る料理人たちが、威信をかけて用意した昼食を前にして、この伊賀嵐家の当主が選んだのは、資本主義の象徴たる、あのファストフードの袋。茶色の紙袋は、純弥ら三人の描いていた〝当主〟という座の伝統、格式、そして何よりも維心への理解という名の城壁に、巨大な亀裂を入れる爆弾のように見えた。
――と、思われたが。
「·········あれ? みんな···普通、じゃね?」
いち早く再起動して異変に気付いたのはタキだった。
そう。食堂の人々はこのミスマッチな食事風景に見向きもせず、各々の昼餉を掻き込むのみである。 「·········あ、そっかそっか。偉い上に長く所属してるんだもんね。そりゃ、皆さん知ってるはずだわ」
いち早く納得に至った明日香。だが――。
「〝ご当主さま〟が·········マッ〇·········か·········」 なんか釈然としないのが純弥。
こう見えて、作晃の男手一つで育った純弥は料理が出来る。身長を伸ばしたかったのもあって栄養価も考える健康志向派だ。そんな家庭的人間のお約束なのか、お節介根性を抑えることが出来ないのだった。
「あ、ちょっと純弥······! ステイ······!」 明日香の制止も聞かず、純弥は突撃を敢行した。
ちなみに維心は現在バク!バク!と〝二つ目の〟サ〇△イ※ックに齧り付いている。
メニューだけでなく食い方も相応にジャンキーである。
「·········あ、あの、失礼します」
「んむ? おお、これはこれは純弥さま。いや、重ね重ね、先程は大変失礼を致しました」
「い、いや。それは良いんです。ほんとにもう」
「では、何用で·········は! もしかして、維心様とお昼をご相伴に·········⁉️」
「え?·········ええ、まあ。そのついでと言っちゃなんですが、ちょっとお尋ねしたいことが·········」
「はい。お答え出来る事でしたら」
今こそ好機‼️ 純弥はついにそれを問うた!
「·········お食事、偏ってませんか?」
「ああ、ご安心ください。サプリメントなら常備しているので!」
「やっぱりだああああああああ‼️」 天野純弥、吠える。
「駄目ですよ! 〝ご当主〟サマがそんな偏食! 特にこの仕事身体が資本じゃない
ですか⁉️ それをサプリメントで済ませるとか世界の平和舐めてるんですか⁉️」
「ご安心下さい。一口にサプリメントと言っても青龍族に代々伝わる――」
「そういうことじゃなああああああい‼️」
「天野純弥」
「⁉️」
静謐な食事の邪魔をされたからか、維心はあの厳かな『ご当主オーラ(今命名)』を解き放ち、純弥の口を封じた。そして自身はペーパーで手を拭い、純弥へ向けて手を伸ばしていく。そのまま息の根も封じられてしまうのか? 果たして――
と思いきや、普通に肩にポンと手を置いただけだった。そして一拍置いて口を開く。
「食事とは、何だ?」
哲学が始まった。
「俺はこう考えている。食事とは、単なる栄養摂取の為だけの行為ではない。
食事とは、〝救い〟なのだ」
「⁉️」
「え? それって〝孤独の――」
「シッ‼️」
「もっと言えば、幸福という、曖昧で目に見えぬものを唯一、噛み締めるという行為によって最も実感として感じ取ることの出来る儀式なのだ。そして、その幸福を最も
内包した食物こそ――」
「ジャンクフード·········!」
「いや、それ一種のまや――」
「シッ!」
「とても褒められた食事ではないのは承知だ。だが、この際限なき、身命を賭した使命という荷を一時下ろすことができるこのひとときにこそ、俺は出来る限り噛み締めたいのだ。生き残ることが〝出来た〟ことの感謝。そして〝この先も生き残る〟という覚悟の為にな」
そこまで聞いたあと、純弥は暫し沈黙し、徐にふ、と笑みをこぼす。
「·········負けたよ。やはりあんたがNo.1だ」 何がやはりなのかは分からないが。兎に角、純弥は敗北を覚え、後にこう述べたという。
――この人に健康を説くのは、海に向かって「塩分を控えてください」と忠告するようなものだ、と。
「·········ねえ、この流れ必要?」
「·········それは〝ジャンクフード必要?〟と問うのと同じことよ。タキ」
「こっちも〝当てられてる〟⁉️」
――なお、この愉快な光景を前にしても、周囲の人間と妖怪達に、維心に向けて視線が向くことは最後までなかった。
そして、昼が過ぎれば夕が来て、そこから夜が深まるまではあっという間だ。
――戦いの時間がやって来る。
しかも今夜の戦いは何時もと一線を画すものだった。
「朗報だ。源忍党のアジトのひとつを発見した」
「⁉️」
出動の準備に掛かろうとした純弥は、ブリーフィングルームへ呼び出された。既にそこには維心が着席しており、初めて邂逅した時の虚無の雰囲気を纏っていた。
それに気圧されつつも席に着くなり、八首からそう告げられたのだ。 「純弥君。驚くのも無理はない。我々もここまで早く手がかりを得られるとは思わなかった。だが、これは確かな情報だ」
八首は普段の柔和なものからは想像出来ない、威圧的な表情で、その眼光は鋭く光っていた。彼はテーブルに置かれた一枚の航空写真に指を滑らせる。
「場所は、湾岸エリアにある旧倉庫街の一角。表向きは廃墟となっているが、内部の熱源反応、そして定期的な通信の傍受から、彼らが拠点として利用していることは間違いない」
維心は微動だにせず、ただその写真を見つめている。彼の纏う虚無感が、張り詰めた緊張感をさらに増幅させていた。
「そして何より重要なのは、このアジトは敵の主力の居場所である可能性が高いという点だ。単なる末端の集会所ではない。〝幹部〟クラスの者が複数名、今宵この場所で会合を開く。我々が喉から手が出るほど欲していた、源忍党の心臓部に肉薄する千載一遇の好機だ」
八首はそこで言葉を区切り、純弥と維心を真っ直ぐに見据えた。
「つまり、今夜の任務は『掃討』ではない。『捕獲』だ。可能な限り多くの敵幹部を生きたまま確保する。特に、『頭領』につながる手がかりを持つと目される人物が狙いだ」 彼の言葉には、成功以外許されないという決意がにじみ出ていた。ブリーフィングルームの空気は一気に沸騰したかのように熱を帯びる。「純弥君、君には奇襲・制圧の役割を担ってもらう。維心君、君は後方支援及び退路の封鎖だ。決して逃がすな。そして何より、絶対に深追いはするな。相手は手練れだ。リスクを冒してまで単独行動に出れば、すべてが水泡に帰す」
八首は最後の指示を出し終えると、静かに立ち上がり、二人の肩に重い期待を乗せるように言葉を締めくくった。
「日本の夜を蝕む闇を切り払うのだ。抜かりなく、準備を整えたまえ」
ブリーフィングを終え、バイク形態でスタンバイしているキラ達の待つ駐車スペースへ向かう中、さしもの純弥も、緊張を抑えることが出来ないでいた。
(幹部クラス·········しかも「捕獲」が目的。いつもとは確かに違う。これまでの斥候や
末端の排除とは比べ物にならない危険な橋だ)
それを理解しつつも同時に、抑えきれない高揚感もまた渦巻いていた。源忍党という、常に手の届かない闇の中にいた巨悪の心臓部に、父と友の仇どもに、ついに刃を突き立てる機会が来たのだ。掌にじんわりと汗が滲む。
そんな相反する二つの激情を持て余したまま、駐車スペースに到着した。
当然のごとく、維心は既にバイク形態の迅頼に乗り込んでいた。
遅れたことを詫びると、すぐにバイクのキラに跨る。
あとは出動時間が来るのを待つだけとなった時、ふいに維心が声を掛けてきた。 「天野純弥」
純弥は反射的に視線を向けた。維心はヘルメットのバイザー越しで表情は読み取れないが、声にはブリーフィングルームで感じた、あの虚無感と冷徹さが宿っていた。
「今回、八首殿は『深追いはするな』と命じた」 純弥は緊張した面持ちで頷いた。
「あの言葉の真意は、貴様の感情を制御しろ、ということだ。貴様には『仇討ち』と
いう個人的な動機がある。それは理解する」
まただ。普段は読み取れない維心の感情が、憐憫が声に滲み出ているあの感覚。
「だが、今宵の任務は、一人の感情で左右されるほど軽いものではない。『頭領』につながる糸を、この手で掴むことが最優先事項だ。もし、貴様が感情に駆られ、確保すべき対象を仕留めることに固執すれば、それは組織に対する裏切りと同義となる」
その言葉自体は、まるで鋭利な刃物で純弥の心を抉るかのようであり、かと思えば声色は優しく肩を叩いているような、奇妙なものだった。
「――肝に銘じます」
純弥は低い声でそう答えた。仇討ちの炎は彼の内奥で燻っているが、今宵、自分は一介の工作員として、そしてどうやらこちらを案じてくれていると思われる維心の情に報いる為にも、任務を優先しなければならない。
維心はそれ以上、何も言わなかった。彼の視線は、既に眼前の閉ざされたシャッターの向こう、夜の闇へと向けられていた。
それから間もなくして――
「時間だ。幸運を祈る」
八首からの通信と同時、眼前のシャッターが音もなく静かに跳ね上がった。
直後維心が駆る迅頼が、雷鳴のような轟音と共に、一瞬早く飛び出した。その後に続く純弥のキラも、凄まじい加速で夜の闇へと突っ込んでいく。
二台のバイクは、二つの黒い流星のように、夜の街を裂いていった。
九十