現代ダンジョン発生初日。世界がパニックになる中、俺だけが攻略wikiの知識で最強ビルドを試している~将来のSSS級探索者? ああ、全員俺の弟子です~ 作:パラレル・ゲーマー
大田区の町工場で【魔導分解炉(サルベージ・ファーネス)】の検証を行ってから一夜が明けた。
港区ミッドタウン・タワー最上階、アルカディア本部のマスターオフィスには、今日も穏やかな午前の光が差し込んでいる。ギルドの巨大倉庫では、朝から実務部隊が不要装備の仕分け作業に追われており、宮原精機との試験運用の準備はすでに軌道に乗り始めていた。
そういう面倒な実務と契約書のすり合わせはすべて有能な部下たちに任せ、俺、八代匠はデスクの革張りチェアに深く身を沈めながら、私有ダンジョン相談窓口に寄せられた未調査案件のリストを眺めていた。
タワーディフェンスの果樹園、昭和レトロなガチャの遊技場、そして装備を素材へと還元する魔導分解炉。
ここ数日で立て続けに触れた特殊ダンジョンの数々は、前世で何万時間も『ダンジョン・フロンティア(ダンフロ)』を遊び尽くした俺のゲーマー魂を、心地よく刺激し続けていた。
「……いやあ、本当に飽きないな。世界を救った後になって、まだこれだけ未開拓のサブコンテンツが現実のあちこちに眠っていたとは」
俺がコーヒーカップを傾けながら満足げに呟くと、隣のデスクでスケジュール管理をしていた秘書の乃愛(ウィズ)が、眼鏡の奥の瞳をわずかに細めて顔を上げた。
「マスター。宮原精機への第一陣の廃棄装備搬出は、本日の午後には完了する手筈となっております。……それで、そのお顔から察するに、今日もまた別の未調査物件へ『現地視察』という名の遠足にお出かけになるおつもりですか?」
「遠足とは人聞きが悪いな。これもI・G・U(国際公式探索者ギルド連盟)の最高技術顧問として、国内に点在する未知のダンジョン資源を把握するための立派な調査業務だ。……で、乃愛。先日リストアップしていた案件の中で、一つ気になっていたやつがあるんだが、詳細は出せるか?」
「どの案件でしょうか?」
「ほら、数日前の報告の中にあっただろ。『古い倉庫の奥のゲートをくぐったら、砂浜と海が広がっていた』っていうやつだ」
俺の言葉に、乃愛は手元のタブレット端末を素早くタップし、該当するファイルをメインモニターへと映し出した。
「こちらですね。埼玉県郊外にある個人所有の古い倉庫に出現したプライベートダンジョンです。所有者は高瀬航(たかせ・わたる)氏、二十九歳の会社員。すでに私有ダンジョンとしての登録と管理資格の取得は済ませています。本人の報告によれば、内部には広大な砂浜と桟橋、そして水平線まで続く海が存在し、魚も釣れるとのことですが……敵対的なモンスターは一切出現せず、魚を捌いても魔石はドロップしないそうです」
「……埼玉県に、海。しかもモンスターが出ずに魚が釣れる、か」
俺はモニターに添付された、どこかの南国のビーチのような美しい海の写真を睨みつけながら、口元が勝手に緩んでいくのを止められなかった。
(……間違いない。これ、『ダンフロ』の生活系コンテンツの中で一番の沼と呼ばれていた『釣りフィールド』じゃないか!)
かつてのゲーム時代、レベルカンストやエンドコンテンツのボス周回に疲れた廃人プレイヤーたちが、最後に辿り着く場所がいくつかあった。その筆頭が「釣り」だ。
戦闘力にはほとんど直結しないにもかかわらず、潮の満ち引き、時間帯、天候、ルアーの種類、そしてロッド(釣り竿)のアクションに至るまで、開発陣の異常なこだわりによって本物の釣りシミュレーター並みに作り込まれていたのだ。特定の条件でしか出現しない幻の巨大魚を釣り上げるためだけに、何十時間も同じ桟橋に立ち続けて竿を振り続けた日々が、鮮明に脳裏に蘇る。
「……乃愛。その所有者の高瀬さんに今すぐ連絡を取ってくれ。今日の昼から、うちのトップチームで現地調査に伺いたいとな」
「承知いたしました。すでにリンさんたちも、マスターがそう言い出すと思って待機室で準備を始めていますよ。……それにしても、マスターは本当にそういう風変わりな場所がお好きですね」
「何がだ?」
「いえ。数百億ドルの利権や国家間の駆け引きよりも、未知のダンジョンの仕組みを解き明かしに行く時の方が、ずっと生き生きしていらっしゃいますから。攻略そのものが本当にお好きなのだな、と」
乃愛が少しだけ柔らかい笑みを浮かべて言う。
俺は照れ隠しにコーヒーを一気に飲み干し、立ち上がりながら肩をすくめた。
「当たり前だろ。俺は最初から、世界を救う英雄になりたかったわけでも、大富豪になりたかったわけでもない。ただ、こんな面白いダンジョンが世界中にあると分かったら、隅々まで遊び尽くしたくなる。それだけの話だよ」
◇
都心から車を走らせること一時間あまり。
埼玉県郊外ののどかな住宅街と畑が入り混じるエリアの一角に、目的の場所はあった。周囲には見渡す限りアスファルトの道路とネギ畑が広がっており、潮の香りどころか小さな川すら見当たらない、正真正銘の「海なし県」の風景である。
古びたスレート葺きの大きな農業用倉庫の前に車を停めると、そこにはすでに一人の青年が立って俺たちを待っていた。
年齢は二十代後半。ほどよく日に焼けた精悍な顔立ちをしており、フィッシングベストに偏光グラスを首から下げた、見るからにアウトドア派といった出で立ちだ。
「おおっ、本当に八代さんだ! それにニュースで見たアルカディアの皆さんまで! 初めまして、倉庫の持ち主の高瀬航です!」
青年――高瀬さんは、世界最強の探索者パーティを前にしても萎縮する様子をみじんも見せず、まるで遠くから訪ねてきた趣味仲間を迎えるような明るい笑顔で歩み寄ってきた。
「初めまして、八代です。突然の連絡にもかかわらず、受け入れていただきありがとうございます」
「いやあ、こちらこそ大歓迎ですよ! 正直、相談窓口に連絡した時はお役所の人が事務的に見に来るだけだと思ってたんですけど、あの一個一億円のフルーツが採れる果樹園のニュースを見てピンと来たんです。八代さん、ああいう普通の狩場じゃない『変なダンジョン』がお好きなんでしょう?」
「ははっ、まあ否定はしませんね。珍しいギミックがあると聞くと、どうしても自分の目で確かめたくなってしまう性分でして」
「やっぱり! 実は俺も、根っからの海釣りマニアなんですよ。祖父から相続したこの倉庫の奥にゲートができた時は、最初は化け物が出ると思って腰を抜かしたんですけど、恐る恐る覗いてみたら見たこともない最高の釣り場が広がってましてね。それ以来、休日はわざわざ県外の海まで遠出しなくても、この倉庫に引きこもって一日中釣り糸を垂らすようになっちゃいました」
高瀬さんは本当に楽しそうに笑いながら、倉庫の重厚な引き戸を開けて俺たちを中へと招き入れた。
薄暗い倉庫の内部には、耕運機などの古い農機具と並んで、手入れされた何十本もの釣り竿やルアーケースが整然とディスプレイされていた。そしてその最奥部に、空間を青白く切り裂くダンジョンゲートが静かに揺らめいている。
俺たちは高瀬さんに先導され、順番にそのゲートへと足を踏み入れた。
――瞬間、五感が一気に塗り替えられた。
鼻腔をくすぐる、濃厚で爽やかな潮の香り。
ザザァーッ、と規則正しく打ち寄せては引いていく白い波の音と、遥か上空を舞う海鳥の甲高い鳴き声。
足元にはサラサラとした純白の砂浜が広がり、少し離れた岩場からは、木製の長い桟橋がエメラルドグリーンの海へと突き出している。そして視線の先には、遮るもののない水平線と、突き抜けるような青空がどこまでも続いていた。
「……うわああああっ! 海だーっ! ほんとに海がありますよ、マスター!」
リンが砂浜の上を駆け出し、波打ち際で水しぶきを上げながら大歓声を上げた。
「ちょっと待ってください! さっきまで外はネギ畑だったじゃないですか! ここ、埼玉県ですよね!? 海のない県にこんな綺麗なビーチがあるなんて、反則ですよ!」
「ダンジョンの内部空間は地上の地理とは切り離された異位相ですからね、リンさん。……それにしても、外気の温度や湿度、風の心地よさに至るまで、完璧なリゾート地の気候が再現されています」
乃愛が髪を揺らす海風を手で押さえながら感心したように頷き、田中も「すげえな……こんなプライベートビーチみたいな場所で誰にも邪魔されずに釣りができるなら、釣り好きにとっちゃ天国じゃないっすか」と目を細めた。
「でしょう!? 他の釣り人と場所取りで揉めることもないし、ゴミ一つ落ちてない。俺にとっては、どんな高級リゾートよりも価値のある秘密基地なんですよ」
胸を張る高瀬さんの横で、俺は空間全体に【鑑定】を発動し、このフィールドの基本ルールを読み取った。
【特殊ダンジョン:蒼海の釣遊場(ブルー・フィッシング)】
【種別:非戦闘型 / 釣獲報酬式フィールド】
【目的:設置された専用の釣り具を用い、海域に生息する特殊魚を釣り上げる】
【備考:
・海中に向けての武器攻撃、および攻撃魔法・スキルの行使は無効化(あるいは魚が即座に消滅)され、釣果を得ることはできない。
・探索者の身体能力(STR・DEX等)は制限されないが、釣り具の耐久限界を超えた負荷をかけるとライン(釣り糸)が破断する。
・希少種の初回釣獲実績は、同じ釣獲者が最後まで竿を操作した場合にのみ認定される。
・釣り上げた魚は実物としてダンジョン外へ持ち出し可能。魔石はドロップしない。】
(なるほど。刀で海に飛び込んで魚を斬り殺したり、雫の氷魔法で海ごと凍らせて魚を回収したりする無法プレイは、システム側で完全に封じられているわけだな)
俺がルールを把握していると、高瀬さんが桟橋のたもとに置いてあった大型のクーラーボックスを開けて見せてくれた。
氷水の中には、地上の海ではまずお目にかかれないような、鮮やかで幻想的な色合いをした魚が数匹収められていた。
「これが今日、午前中に俺が釣った魚です。八代さんの鑑定なら、こいつらの名前も分かるんですか?」
「ええ、どれどれ……。この青い縞模様のやつが【青縞アジ】。銀色の尾びれが光っているのが【銀尾カサゴ】。そしてこの透き通ったヒレを持つのが【泡尾トビウオ】ですね。どれも微弱な魔素を含んでいますが、毒はなく、食用として非常に美味な小型・中型魚です。鱗や骨は初級のクラフト素材にもなりますが、魔石は出ませんし、先日の果樹園のリンゴみたいにステータスが爆上がりするような特殊なバフ効果もありません」
「へえー、そんな名前がついてるんですね! いや、バフなんかなくても全然いいんですよ。この青縞アジなんて、家に持ち帰って刺身にすると脂が乗ってて最高に美味いんです。自分で釣って、美味しく食べて、休日を満喫する。俺にはそれだけで十分すぎるお宝ですから」
高瀬さんは屈託なく笑った。彼には、このダンジョンを使って金儲けをしようとか、世間に公表して有名になろうといった野心はこれっぽっちもないらしい。ただ純粋に、自分の趣味を極めて楽しんでいるのだ。
だが、そこで高瀬さんの表情が、少しだけ真剣な「釣り師」の顔へと変わった。
「……ただですね、八代さん。そんな大満足のこの海で、俺がどうしても解決できずに悩んでいることが、一つだけあるんです」
高瀬さんはポケットからスマートフォンを取り出し、一枚の写真データを表示して俺に見せてきた。
それは、夕暮れ時の赤く染まった桟橋の沖合を撮影した写真だった。穏やかな海面を割って、まるで鋭い日本刀の切っ先のような『巨大な青い背びれ』が、一瞬だけ水飛沫と共に突き出ている様子が捉えられていた。
「毎日、夕方近くになって潮の流れが変わる時間帯になると、あの桟橋の沖合の深場に、とんでもなくデカい魚影が現れるんです。目測でも二メートル半、いや三メートル近くある化け物です。俺も釣り人の端くれとして、なんとかあいつを釣り上げたくて何度も手持ちのルアーを投げてるんですが……ほとんど見向きもされないし、一度だけ奇跡的に食いついた時は、竿を立てる間もなく一瞬で糸をブチ切られて逃げられちまいました」
高瀬さんは悔しそうに拳を握りしめ、それから期待に満ちた目で俺を見つめた。
「八代さん。安全確認のついでで構いません。あなたのその凄い知識と目で、あの沖合の主(ヌシ)をどうやって攻略すればいいか、一緒に考えてもらえませんか?」
俺はスマートフォンの画面に映るその青い背びれの形状と、周囲の波紋の立ち方を凝視し、思わずゴクリと喉を鳴らした。
(……おいおい、嘘だろ。この背びれの形とサイズ……釣りコンテンツの序盤の壁にして、釣り人たちがこぞって挑戦したあの『名物レア魚』じゃねえか!)
胸の奥から、ふつふつと熱いゲームへの闘志が湧き上がってくる。
「……高瀬さん。その相談、乗らないわけにはいきませんね。夕方の出現時間まで、まずは俺たちもこの海の釣り仕様に慣れるところから始めさせてもらいましょう!」
◇
桟橋の入り口には、ログハウス風の小さな管理小屋があり、その中にダンジョン備え付けの『貸出用釣り具(ロッド、リール、各種ルアー)』がずらりと並んでいた。外部から持ち込んだ釣り具も使えるようだが、ダンジョン内の魚は魔力を帯びて引きが強いため、基本的にはこの専用釣具を使うのがルールらしい。
俺たち五人は、高瀬さんから基本的なリールの扱い方やキャスティング(投擲)のフォームを簡単に教わり、それぞれ桟橋の上に散らばって釣りを開始することにした。
ゲーム時代の俺は、マウスをクリックしてタイミングよくゲージを止めるだけで何千匹もの魚を釣り上げてきた。だが、現実の肉体を使って本物の釣り竿を操るのは、小学生の頃に父親に連れられて行ったサビキ釣り以来である。
そして、それは他のメンバーにとっても同じだった。
「ふふん! 一昨日の射的は変な細工のせいで負けましたけど、魚釣りなら話は別ですよ! 遠くに投げて、魚が食いついたら引っ張り上げればいいんでしょう? 私の反射神経とパワーを見せてあげます!」
桟橋の先端近くに陣取ったリンが、ダンジョン貸出用のしなやかなルアーロッドを構え、やる気満々で大きく振りかぶった。
高瀬さんが「あ、リンさん、最初は軽く手首のスナップだけで……」と声をかけたが、遅かった。
「せーのっ、いっけえええええっ!!」
世界ランキング一位のアタッカーであるリンが、戦闘時さながらのフォームで竿を全力で振り抜いた。
ビュオォォォォォッ!!
空気を切り裂くようなすさまじい風切り音が響き、先端についていた金属製のルアーが、まるでライフルから撃ち出された銃弾のような初速で水平線の彼方へとすっ飛んでいった。
リールから釣り糸(ライン)が猛烈な勢いで放出され、摩擦熱でシュルシュルと煙が上がりそうになる。
「……あれ? なんか、すっごく遠くまで飛んでいきましたけど……」
リンが目を丸くした次の瞬間。
リールに巻かれていた百五十メートル分のラインが最後まで引き出され――パァンッ! という乾いた破裂音と共に、根元からブチ切れた。
糸の切れた釣り竿だけが、虚しくリンの手の中に残される。
桟橋の上に、波の音だけが響く静寂が落ちた。
俺は思わず額に手を当てて天を仰いだ。
「……おい、リン。お前、釣り竿を投擲武器か何かと勘違いしてないか?」
「だ、だって! 遠くの深いところに投げた方が、大きい魚が釣れるって言ったじゃないですか!」
「限度ってもんがあるだろうが! レベル40超えのステータスでフルスイングしたら、どんな強化ラインだって音速突破してちぎれるわ!」
俺が突っ込むと、隣で見ていた高瀬さんが膝を叩いて大爆笑し始めた。
「あっはっはっは! いやあ、すげえものを見せてもらいました! 人類でルアーを百五十メートル以上飛ばしてラインを全部出し切った人なんて、俺、初めて見ましたよ!」
「ううっ、笑わないでくださいよー! 力加減が難しすぎます、この棒!」
顔を真っ赤にするリンに、高瀬さんが新しいラインとルアーをセットし直しながら、「指の力を抜いて、竿の『しなり』だけで前に押し出す感覚でやってみてください」と優しく指導している。
一方、桟橋の中ほどでは、大男の田中がリンとは正反対の苦戦を強いられていた。
彼は自分の怪力で竿をへし折ってしまうことを極度に恐れるあまり、巨大な体躯を丸めて、まるでガラス細工でも扱うかのように恐る恐る竿先を揺らしていたのだ。
「……うーん、全然食いつかないっすね。魚がルアーの近くまでは来てるんすけど、プイッとそっぽ向いて帰っちまいます」
「田中さん、それは慎重すぎてルアーの動きが死んでるんですよ! もっと竿先をチョンチョンと弾いて、水中で小魚が必死に逃げてるみたいに演出してやってください!」
「な、なるほど……! タンクみたいにじっと構えて待ってるだけじゃ、魚は騙せねえってことっすね!」
高瀬さんのアドバイスを受け、田中がぎこちない手つきでリールを巻き始める。戦闘ではA級の攻撃すら涼しい顔で受け止める男が、数十センチの魚を相手に冷や汗をかいている姿は、なんとも微笑ましいギャップがあった。
その少し後ろでは、乃愛がタブレット端末を片手に海面と風向きを睨みつけ、ブツブツと計算式を呟いていた。
「……現在の南南東からの風速が秒速3メートル。ルアーの質量が20グラム、空気抵抗と潮流の速度を逆算すると、桟橋に対して北東へ42度の仰角でキャストすれば、あそこの岩陰のポイントへ正確に着水するはずです」
完璧な物理演算を終えた乃愛が、意を決して竿を振る。
だが、頭の中の計算と、普段運動をしない魔術師の身体操作は別物だった。リールのベール(糸止め)から指を離すタイミングがコンマ数秒遅れたせいで、ルアーは計算とは全く違う手前の海面へとボチャンと不格好に落下した。
「……あら? おかしいですね、計算は完璧だったはずなのですが」
「乃愛、理論と実践は別ってことだな。頭で計算する前に、まずは手で感覚を覚えろ」
「むう……不覚です。もう一度、今度は指のリリース速度も変数に入れて試します」
悔しそうに眼鏡を押し上げて再挑戦する乃愛の隣で、一番最初に成果を出したのは、意外にも無口な雫だった。
彼女は最初から高瀬さんのキャストフォームや、リールを巻く一定の速度、竿先を動かすリズムをじっと横で観察していたのだ。そして、余計な力みや計算を挟まず、高瀬さんの動きを鏡写しのように精密にトレースして糸を垂らしていた。
クンッ、と雫の竿先が小さくしなる。
「……あ。何か掛かりました」
雫が落ち着いた手つきでリールを一定の速度で巻き上げると、水面から銀色の鱗をきらめかせた30センチほどの【青縞アジ】が飛び出してきた。
「ええーっ!? 雫ちゃん、もう釣れたの!? 私なんてまだルアーを海に入れる練習中なのに!」
驚くリンに、雫は釣り上げたばかりの魚を眺めながら、普段の無表情な顔をほんの少しだけほころばせた。
「高瀬さんの動きの周期をそのまま真似ただけです。……でも、竿を通じて生命の振動が伝わってくるこの感覚、思っていたよりずっと楽しいですね」
「お見事です、雫さん! 筋がいいですよ!」
高瀬さんに褒められて、雫が少しだけ誇らしげに胸を張る。
さて、メンバーたちがそれぞれのスタイルで釣りに挑む中、俺もいよいよ本領を発揮することにした。
俺は【鑑定】の目で海中の地形と潮流、そして回遊している魚群のステータスをスキャンした。ゲーム時代の知識と照らし合わせれば、どの深さにどの魚がいて、どの色のルアーを好むかは手に取るように分かる。
「あそこの潮目の下、水深五メートルのところに青縞アジの群れがいるな。使うのは青と銀のジグミノー……よし、そこだ」
俺はまずまずのフォームでルアーをポイントへと投げ込み、ゲームで記憶していた通りの『水中での誘いパターン』をイメージして竿を動かした。
すると、狙い違わず数秒で『ガツンッ!』という明確なアタリが手に伝わってきた。
「よし、来たぞ! 一発ツモだ!」
俺は得意げに声を上げ、そのまま一気にリールを巻いて引き上げようとした。
――だが、次の瞬間。
針に掛かったアジが海中で反転し、俺の予想を遥かに超える鋭い力で横方向へと爆走を始めたのだ。
ジジジジジッ!!
リールが悲鳴のような音を上げ、竿先が海面へと強く引き込まれる。
ゲームの画面なら、ここは「左クリックを連打してゲージを押し戻す」だけの簡単なフェーズだ。俺は反射的に腕に力を込め、魚の動きを力づくで止めようとハンドルを強引に回そうとした。
「八代さん、ストップ! 今は巻いちゃ駄目です!」
横から飛んできた高瀬さんの鋭い声に、俺の指がピタリと止まった。
「魚が全速力で走ってる時に無理やりハンドルを巻くと、糸にヨレが出て一発で切られるか、魚の口が裂けて針が外れます! 竿を60度くらいの角度に立てて、竿の弾力だけで魚の引きを受け止めてください! 魚が疲れて止まるのを待ってから巻くんです!」
「……くっ、なるほど! こうか!?」
俺は言われた通りに巻く手を止め、両手で竿の角度を保って魚の暴走を耐え凌いだ。
手元に伝わるダイレクトな重量感と、生き物が必死に抵抗する生々しい躍動感。コントローラーの振動機能などとは比較にならない情報量が、手のひらから脳へと駆け巡る。
数秒後、魚の走る勢いがふっと弱まった。
「今です! 竿をゆっくり起こして、竿を下ろしながらその分の糸を巻いてください!」
「よし……!」
俺は高瀬さんのナビゲートに従ってポンピングの動作を繰り返し、ついに水面へと立派なサイズの【青縞アジ】を引き上げることに成功した。
「……ふぅーっ! 獲ったぞ!」
桟橋の上でピチピチと跳ねる美しいアジを見下ろし、俺は思わず額の汗を拭って笑みをこぼした。
「頭の中で知識として攻略法を知っているのと、実際に自分の手で竿を操って引き上げるのとでは、難易度がまるで別物だな……!」
「でしょう? 魚も生き物ですから、こっちの思い通りには動いてくれないんですよ。でも、そのやり取りが一番面白いんです!」
「ええ、同感です。いやあ、これは想像以上に奥が深いぞ……!」
自分の実技の未熟さを痛感したにもかかわらず、俺の心は悔しさよりも、未知の操作系ゲームに出会った時のような純粋なワクワク感で満たされていた。
◇
それから昼過ぎまでの数時間、俺たちは時間を忘れて桟橋での釣りを楽しんだ。
最初は糸をブチ切っていたリンも、高瀬さんの熱心な指導のおかげで力加減のコツを掴み、昼前にはついに念願の初釣果となる【泡尾トビウオ】を一匹釣り上げることに成功した。
「マスター! 見てください、見てください! 私にも釣れましたよー! 糸を切らずにちゃんと上げられました!」
胸ビレが七色に輝くトビウオを両手で掲げ、リンが子供のように無邪気に飛び跳ねて喜んでいる。
「おお、やったじゃないか、リン。随分と立派なサイズだ」
「へへへ、力任せに引っ張るんじゃなくて、魚の動きに合わせて優しく引っ張ってあげるのがコツなんですね! なんだか、自分で苦労して釣り上げたお魚って、ダンジョンで宝箱を開ける時とはまた違う嬉しさがあります!」
リンだけでなく、田中も慎重なやり取りを覚えてアジを二匹確保し、乃愛も計算式を実践向けに微調整して底にいる【銀尾カサゴ】を見事に釣り上げていた。
全員が最低一匹以上の釣果を上げ、桟橋のクーラーボックスが賑やかになったところで、俺たちは一度竿を置いて小休止を取った。
乃愛がタオルで手を拭きながら、クーラーボックスの中の魚を改めて観察して言った。
「……こうして見ると、どれも美味な食材や初級の素材にはなりますが、魔石が出ない以上、時間あたりの金銭的収益性(時給)という観点だけで見れば、通常のC級やD級ダンジョンを周回する方が遥かに効率的ですね」
「まあ、そろばんを弾けばそうなるだろうな。だが乃愛、この世のすべてのダンジョンが、金儲けや戦力強化のためだけに存在する必要はないだろ?」
俺が冷たい麦茶を飲みながら言うと、隣に座っていた高瀬さんが我が意を得たりとばかりに大きく頷いた。
「その通りですよ! もしこの海から一個何百万円もする魔石やレア武器がボロボロ出るようになっちまったら、先日の果樹園みたいに世界中の欲深い連中が押し寄せてきて、俺がのんびり釣りをする場所なんかなくなっちまいます。金にならなくて、ただ釣りが楽しいだけ。それがこのダンジョンの一番いいところなんです」
「違いない。最高の贅沢ですよ、ここは」
俺と高瀬さんが釣り人同士のシンパシーで笑い合っていると、ふと高瀬さんが腕時計に目を落とし、表情を引き締めた。
「……おっと。八代さん、そろそろ午後四時を回ります。潮が止まって、逆方向に動き出す時間だ」
高瀬さんが立ち上がり、桟橋の先端から沖合の海面を指差した。
今まで穏やかに岸へと寄せていた波のリズムが変わり、沖合の水の色が一段と濃い群青色へと変化し始めている。
「毎日、この時間帯になると、あの深場に例の『巨大魚』が回遊してくるんです」
その言葉に、休憩していたリンや田中、雫も一斉に立ち上がって桟橋の先端へと集まった。
俺たちが海面を凝視していると、待つこと数分。
桟橋からおよそ五十メートルほど離れた潮目の下で、海水を大きく押し分けるような『巨大な黒い影』が、ゆらりと浮かび上がったのだ。
そして、ザバァッ! という水音と共に、あの写真で見た通りの鋭く巨大な青い背びれと、長く伸びた槍のような吻(くちさき)が、一瞬だけ夕陽を反射して海面を割った。
「うわっ……! ほんとにいた! なんか、イルカとかサメよりデカくないですか!?」
「……ええ。推定全長2.8メートル以上。かなりの質量です」
リンと雫が息を呑む中、俺は水中の魚影に最大出力の【鑑定】を叩き込み、その正体と生態データを完全にロックオンした。
【個体名:潮渡りの青槍魚(アズール・マーリン)】
【分類:特殊魚 / 海域の主(レア種)】
【習性および攻略条件:
・夕刻、潮流が反転する約30分間のみ、桟橋西側の急深エリアを回遊する。
・警戒心が極めて強く、通常の小魚型ルアーや不規則なアクションには一切反応しない。
・『銀鏡のロングジグ』を用い、三回の短いジャーク(竿の煽り)の後、竿で誘う動きを止めて5秒間自然に沈下(フリーフォール)させた時のみ、捕食スイッチが入る。
・針に掛かると、最初の突進、深場への垂直潜行、そして最後の水面跳躍(エラ洗い)という三段階の激しい抵抗を行う。】
(……やっぱり『アズール・マーリン』だ! 『ダンフロ』の釣り大会イベントで、初見のプレイヤーたちを片っ端から糸切れで絶望させた海域の主!)
俺の脳内に、かつて攻略Wikiの釣り板で有志たちが血の涙を流しながら検証して辿り着いた、対マーリン用の攻略チャートが鮮明にフラッシュバックする。
「高瀬さん。あの魚の正体と、食いつかせるための『条件』が分かりましたよ」
「えっ!? 本当ですか、八代さん!?」
高瀬さんが驚愕に目を見開いて俺を見る。
「ええ。高瀬さんはこれまで、あいつを釣ろうとしてどんなルアーをどう動かしていました?」
「えっと、大型魚用の赤や青のプラグを使って、見切られないように絶えず高速でリールを巻いてアクションを入れ続けてましたが……」
「それだと、あいつの警戒心を煽るだけで絶対に食いつきません。あいつは『潮渡りの青槍魚』といって、極めて特殊な捕食習性を持っています」
俺は管理小屋から持ってきたルアーケースの中から、一切の着色がない鏡面仕上げの細長い金属片――『銀鏡のロングジグ』を取り出し、太めのラインが巻かれた大型スピニングタックルにセットした。
「使うのはこの銀一色のジグだけです。そして動かし方ですが、着水させて少し沈めた後、竿を短く『三回』だけシャクり上げます。……その後は余計な誘いを入れず、ラインを送りながら『五秒間、自然に沈める(フリーフォール)』んです」
「ご、五秒も誘いを入れずに落とすんですか!? 俺はあいつを誘うには、ずっと動かし続けないと駄目だと思ってましたよ!」
「ええ、常識的にはそうです。ですが、この青槍魚だけは別なんです。三回の規則的な光り方の後に、誘いの動きが止まって自然に沈んでいく獲物を見た瞬間にだけ、反射的に食いつくという習性(プログラム)があるんですよ」
ゲーム時代、「三回シャクった後は5秒間フォールに徹する」という独特な条件に気づくまで、釣り人たちは何週間も無駄なキャストを繰り返したものだ。もちろん、それが前世のゲームの仕様だとは口にせず、あくまで【鑑定】による生態解析の結果として説明する。
高瀬さんは俺の説明を聞いて、目から鱗が落ちたような顔で唸った。
「……三回シャクって、五秒は自然に沈める。なるほど、俺はずっと動かしすぎて、魚を追い払ってたってわけか……!」
「はい。これで『食いつかせる』ところまでは確実にいけます。……ですが高瀬さん、問題は針に掛かった『後』です」
俺は太い釣り竿を握りしめ、真剣な目で高瀬さんを見た。
「さっきのアジ一匹でさえ、俺は高瀬さんのアドバイスがなければ危うく糸を切られるところでした。あの三メートル近い化け物が本気で暴れたら、俺の頭の中の知識だけじゃ、絶対に竿をさばき切れません。……俺が食いつかせますから、釣り上げるまでのファイトの指示(コーチング)を、隣で高瀬さんにお願いしたいんです」
このダンジョンの初回釣獲実績は、魚を掛けた本人が最後まで竿を操作した場合にだけ認められる。途中で高瀬さんに竿を渡せば魚自体は釣れるかもしれないが、初回実績の報酬は得られない。網を使った最後の取り込みは手伝ってもらえるとしても、竿の操作だけは俺がやり通す必要があるのだ。
俺の言葉に、高瀬さんは釣り人として最高の笑顔を浮かべ、力強く拳を握った。
「……そういうことなら、任せてください! 知識は八代さん、実技のサポートは俺。二人の力を合わせて、あの埼玉の海の主を絶対に釣り上げてやりましょう!」
◇
夕陽が水平線へと傾き、海面が黄金色と深い群青色のコントラストに染まっていく。
桟橋の先端には、竿を構える俺と、そのすぐ右隣で海面と俺の手元を注視する高瀬さん。そして数歩後ろでは、乃愛、リン、田中、雫の四人が、まるでワールドボスとの決戦を見守るかのような緊張感で固唾を呑んでいた。
「マスター。先ほどから計測していた潮流の速度が、完全にゼロを経て逆転しました。……条件、整っています」
乃愛の静かな報告が響く。
「よし。行くぞ」
俺は深く息を吸い込み、高瀬さんから教わった通りのフォームで、全身のバネをしなやかに使って大型ロッドを振り抜いた。
銀色に輝くロングジグが夕空に美しい弧を描き、巨大な魚影が潜む桟橋西側の潮目のど真ん中へと、寸分の狂いもなく着水した。
糸がスルスルと海中に引き込まれ、適切な水深へと到達する。
俺はベールを戻し、海中のルアーに意識を集中させた。
「……一回。……二回。……三回!」
俺は竿先を短く、鋭く三度跳ね上げた。海中で銀のジグが太陽の光を反射してキラッ、キラッ、キラッと三回煌めくイメージ。
そして三回目の直後、俺は竿を煽る動きを止め、ラインを送りながらルアーを自然に沈めていった。
一秒。二秒。三秒。
波の音だけが聞こえる。リンが後ろで「ご、五秒って、結構長いですよ……」と小声で呟く。
四秒。
海中の黒い巨影が、沈みゆく銀色の光に向かって、音もなくスッと向きを変えたのが見えた。
そして、五秒目――。
ゴツンッ……ズガァァァァァンッ!!
前触れのない、暴力的なまでの衝撃が竿を突き抜けた。
まるで海の中を猛スピードで走るダンプカーに、誤ってロープを引っ掛けてしまったかのような、圧倒的な質量と運動エネルギー!
「――ッ! 食ったぞおおおおお!!」
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
YouTubeチャンネルを開設しました!
自作小説の朗読動画を投稿しています。
再生リストから第1話から通して聞けるので、作業用・睡眠用にもどうぞ!
現代ダンジョン発生初日も毎日朗読動画を投稿中!!!
よかったら、下のリンクから聴いてみてください!
YouTubeチャンネル「パラレル・ゲーマー」はこちら