トレーナー室の窓辺、遠く積もる雪を眺めていた。この時期になるとあそこの公園へ登校中のウマ娘がやってくるのだ。そして雪を触って、花が咲くような笑顔を浮かべては、またどこかへ消えていく。
今日もそんな姿が見えはしないかと、新聞を広げる手を止めては窓へ視線を移し、しかしやはり誰も居らず、音を立てて新聞を張る。
……誰か来ないものだろうか。そう考えている私の脳裏に、担当バの顔は浮かびやしなかった。
私は併馬 刹那、35歳、噂は立っても人気の立たないトレーナーだ。痩せた身体と気力のない表情からついたあだ名は『もやし』。最新鋭技術を使ったトレーニングに定評があったが、皆から寄せられる期待に応えたためしもなく、いつしか誰もに忘れられ、凡才の育成を続けるばかり。
結局この仕事は何をすればいいのだろう、と自問する毎日。たづなさんに手を引かれ競バ場を飛び出した、あの真夏日の陽射しはどんなものだったろうか。そんなことを日々回想しているような男だ。
グラウンドへと向かう早朝、足元では氷を踏みながら、血の巡りの悪い指先をポケットへと突っ込む。
「はあ……」
先ほどの担当バからのメールを思い出すと気持ちが重かった。
私の担当バは黒縁の眼鏡がよく似合う若い娘だ。毎年会ってきたような、とても元気がよく優しい娘で、私の話をよく聞いて走る賢さもまた、去年の担当バとよく似ているように感じる。
そんな彼女と私は、数日前のいさかいのせいで冷え込んだ関係にあった。それもこれも全て私のせいだと分かっている。だが、今朝貰った素っ気ない返事を思うと、どうしても不安になるのだ。
今日も彼女は何も言わないのだろうか。昨日の午後、私に言いかけた言葉は何だったのだろう。ぼんやりと見上げた空が、やけに黒く感じる……
それはトレーニングの最中のことだった。足音がしてノートパソコンから顔を上げると、そこには私の担当バ――シュワルツヒストリが、私を見下すようにして立っている。
「タイム、どうなの」
切れ長の瞳を光らせて訊いてきた。
「......目標まで13秒減らそうか」
私の言葉を聞くと、彼女は栗色の髪をなびかせながらトラックに立ち、合図もせずにまた走り始める。
いつもと変わらない時間だった。周囲ではウマ娘やそのトレーナー達が声を掛け合い、シュワルツはトラックを廻り続け、時計の短針はあっという間に過ぎていく。
私には彼女の元へ行く勇気もない。ただ、この場所でキーを打ち続けていられたら、そうして今日も過ぎて行ってくれば……そんな風に、ずっと思っていたのだ。しかし。
「あの!!」
「なっ!?」
驚いて顔を上げると、そこにはシュワルツの姿があった。汗にまみれた顔で私を睨んでくる。
「またそれですか......」
画面を割らんばかりの勢いでラップトップを閉じる。目の前にいた彼女は、まるで失くし物でもしたような、心細そうな顔を俯かせていた。
「す、すまない! ......昨日撮ったモーションデータの修正を行っていた。明日のトレーニングではこれを基に――」
「今日は、どうするんです」
「あ……」
彼女がひねり出すように口にした言葉。私は何も答えられず、たじろいで、そんな自分を罵倒する言葉を思い浮かべているうちに余計彼女を苛立たせてしまう。
シュワルツの脚が地面を掻く。
「今日もまた、指示なしでトレーニングですか!? 私そんなの嫌です!」
「すまない……本当にすまない……」
どうしたらいいか分からなくなり謝罪を繰り返した。しかしシュワルツの怒りは収まらず……
「そうやって謝るばかりでっ! 私のこと見てないんじゃないですか……! もう、私……」
「この前考えたメニューを試そう、そうだ、それがいい——」
「いいですよ! あなたとの契約、切りますから!!」
彼女の叫びが脳内で反響し続けた。
ついに。言われてしまった。ああ、言わせてしまった。今日まで私を信じ続けていた娘に。視界はぼやけて、立っていられなくなり、芝生に力なく崩れ落ちる。
「私は……私は……」
去り行く彼女の背中へと声をかけようとした。そうだ、私たちには目指す夢があって、それを追いかけて……!
しかし、それが何だったかも思い出せないまま、グラウンドに一人倒れ込むのだった。
そして無気力に迎えた翌日、机に影を落としていた一枚の用紙を見て、私はフローリングへと崩れ落ちた。『シュワルツヒストリ』......彼女の名前が刻まれた、契約解除の届け出。にじんだインクの字が痛々しく映る。
昨日の夜彼女に弁明を繰り返したことも、電話をかけたことも、全てが私の悪あがきに過ぎなかった......この紙はそういう事実をあらためて私に突きつけてきたのだ。結果はもう出てしまったのである。
……私は、こんなことを、繰り返して。
美しい仕上げだった床材が、私で汚れていく。トレセン学園の床が。私なんぞが流す涙の一粒で。どれだけ大声を上げて泣きたくても、涙は自然と堪えられた。