眼の日記/ヨレンタ探偵事務所事件録   作:すう

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第九話:手紙Ⅱ

 バデーニの提案に、店主は喜んだ。

 学ぶことを拒絶するアルベルトの気持ちを変えるために、家庭教師になりすまして手紙を書く。

 オクジーにとっても、オヤジさんへの恩返し、そしてアルベルトのためになるなら力になりたい。

 しかし、会ったこともない人間になりすまして手紙を書くのは、あまりにハードルが高すぎた。アルベルトの頑なな考えを変える内容にしなければならない。

 思わず冷や汗が背中を伝う。

 オクジーの葛藤などいざ知らず、バデーニはさっさと依頼を受けてしまった。

 店主は満足した表情で帰っていった。

 まだ何も解決していないというのに。

「どうするんですか!」

オクジーは机を叩きそうになり、椅子に深く座り直した。

「知りもしない人間の手紙を捏造するなんて…!」

 依頼人の来訪によって有耶無耶になっていたが、バデーニに自分のノートを覗かれたことはまだ許せていない。つい、トゲのある言い方になる。

「どうするも何も、書けばいい。」

 人の気も知らないで、なんてことないように言ってくれる。

「無茶ですよ!知りもしない人間の手紙を捏造するなんて!」

「作家志望なんだろう。人の心ってやつを想像するのは得意じゃないのか。」

 私は忙しい、とでも言うように、再び自分のデスクに戻り、キーボードを叩き始めた。こうなったらもう何を言っても無駄だろう。しかも、もう依頼は引き受けてしまったのだ。

「あの〜。」

 恐る恐る、事務所の扉が開かれる。最初にドゥラカが、続いて所長が顔を出した。

 オクジーの声は、廊下まで響いていたらしい。

「所長、すいません。俺、今日はこれで上がらせてください。…これ、依頼人の方からいただいたシャルロトカです。皆さんで食べてください。」

バックパックからすっかり冷めてしまったシャルロトカを取り出し、机に置く。そのまま振り向きもせずにドアを目指す。

 バタン。

 と、いつもより大きな音を出して扉が閉められた。

 

 明るいうちに下宿先に帰ってきたのは久しぶりだ。

 元々は十九世紀頃に作られた貴族の屋敷であったというが、今は集合住宅に改装されている。外壁の漆喰はところどころ剥がれ落ち、たびたび補修の手が入っている。

 

 オクジーの住居は、元使用人の部屋だったらしい。とても狭く、部屋に置いてあるものは衣類数着と、生活に必要な身の回り品のみ。

 けれどオクジーはこの部屋を気に入っていた。実家にはそもそも自分の部屋はなかったので、初めてできた自分だけの城に、ずいぶん浮かれたものだった。

 バックパックをベッドに下ろし、机に向かう。帰る道すがらずっと依頼された手紙のことを考えていた。

 師を殺した家庭教師の青年。どんな人物だったのだろう。学問に熱心な、優秀な若者だったと店主は言っていた。

 いや、店主ですら会ったことのない人物になりきろうなどと何度考えても難易度が高すぎる。

 何かヒントはないか、アルベルトの気持ちを変える言葉は何か……。

 

 翌日。

 オクジーは机に向かったものの、ノートは真っ白のままだった。何を書けばいいのか、どう表現すればいいのか、頭の中は混沌としたままだ。

 ペン先が、まるで文字を拒むかのように動かない。

 そのまま寝てしまったようで、目を覚ますと頬に服の跡がついて赤くなっていた。シャワーを浴びて着替えようと、のそりと動き出す。

 今日は休日だ。探偵事務所に顔を出す気にもなれず、部屋の中でぼんやりと筋トレをこなしていた。けれど頭は依頼のことで占められていて、どうにも身が入らない。

 そのうち腹が減ったので、食料を調達しようとバックパックにノートと財布を詰めて、部屋を出ることにした。

 いつものベーカリーの前を通ると、アルベルトは焼き上がったパンを店頭に並べる作業や接客に忙しそうだった。

 オクジーは器用な方ではない。変に顔に出たり、口を滑らせてアルベルトに怪しまれては元も子もない。

 ベーカリーには寄れず、仕方なく街をぶらつく。

 

 街の外れまで歩いていた。

 昨日の雨に濡れた枯葉が石畳に張り付き、冬の気配が肌に触れる。アパートに暖房はないので、今冬も毛布に包まって過ごすのだろう。

 人通りもなく寂しい場所だ。

 民家がポツン、ポツンと建っている。そばに小さな用水路が流れており、この先の畑や草原が広がる地帯に繋がっているようだった。用水路の水が石に当たってはねる音だけが、周囲の静けさを際立たせている。

 用水路を跨ぐ小さな橋を渡っていると、視界の端に人影が揺れた。

「あれ、所ちょ…。」

 かけようとした声は、喉元で止まる。

 視線の先にはヨレンタ所長がいた。橋のたもとに立つ彼女の表情はいつもと違い、鋭さを帯びていた。寒気を帯びた横顔は、オクジーが見たことのない姿をしていた。

 所長と話をしているのは、見覚えのない大柄の男だった。短い黒髪を綺麗に整えた美丈夫。口元が隠れるくらいのピンと立った髭が特徴的だった。

 二人は声を押し殺して話しているようで、時々視線を巡らし、あたりを警戒している。

 オクジー条件反射で物陰に潜めた。

 大男の視線がちらりとこちらを向いた気がして、大きく心臓が跳ね上がった。

 男は何事もなかったように視線を戻し、短い会話を終えた。男は橋の影へと滑り込むように姿を消す。所長も、あたりを見渡しながら、早足でその場から立ち去っていく。

 見てはいけないものを見たような気がして、心臓がドキドキしていた。

 あの男は何者だろう。所長が今までに見たことのない顔をしていた。もしかして、本格的な探偵の仕事だろうか。

 用水路の長閑な音だけが、取り残されたオクジーのそばで響いていた。

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