オクジーが書き、バデーニの補足により仕上げられた手紙は、早速ベーカリーの店主へ渡された。
あとは彼の手から、アルベルト宛に手紙が来ているというシナリオで本人に届く手筈になっている。
手紙はシンプルな白い便箋に印字された。機械的な文字列が整然と並ぶ。もちろん筆跡を誤魔化すためでもあるが、合理的な彼ならそうするというバデーニからの提案でもあった。
それから数日は、溜まっていた小さな依頼をこなしながら過ごした。
溜まりに溜まった一週間分の依頼だったが、バデーニが効率よく依頼をこなせるよう組み立ててくれたおかげで、あっという間に片付けることができた。仕事が落ち着き暇になると、今度は手紙のことが気になりはじめた。
店主からは未だ何の連絡もない。
大学終わりにベーカリーへ足を向けた。アルベルト宛ての手紙のことを悟られないよう、ベーカリーには近づかないようにしていたので、ずいぶん久しぶりだ。
ベーカリーは今日も繁盛しており、店の窓には新商品の売り出しが始まったことを知らせるポスターが貼ってあった。
「やあ、オクジー。久しぶり。」
話しかけてきたのは、アルベルトだった。
オクジーと同じくらいの背丈に、黒い短髪。ラフな格好に店主と揃いのエプロン。穏やかな見た目の青年だ。
「課題は終わったのかい?」
「え?」
「同じクラスの子たちが随分心配してたよ。
このところ、君が課題か何かに追い詰められてるみたいで、大変そうだって。でも今日の様子を見るに、何とかなったって感じかな?」
手紙の依頼で悩んでいた事だ。大学でそんな風に噂になっていたのか。
何とか平常心を保ちながら「まあそんなとこ。」と言葉を濁す。彼はもう手紙を受け取ったのだろうか。
「……学ぶって、どんな感じなのかな。」
アルベルトからの不意な問いかけに、オクジーが言葉に詰まった。
「え?」
「いや、時々学生さんたちが来て、授業の話とか勉強の話とかしてるのが耳に入るんだ。ちょっと気になって。」
「……知らなかったことを知ると、少しだけ見える世界が広がるんだ。それでさ。」
「それで?」
「見える世界が増えると、知らないことがもっと増える。その繰り返し。終わりがないんだ。
俺の知り合いがさ、知識欲がありすぎて働いてたところから追い出されちゃったらしいんだけど、それでもまだ知ることを諦めないんだ。」
「知ることで自分の身を滅ぼしてでも、やめないってこと?」
「そう。感心しちゃうよな。一体どんな世界が見えてるんだろうって思うよ。俺はまだまだだけど、いつかその人が見ている世界も見てみたいなぁって思う。」
「そうなんだ…。
実はさ、オヤジさんから大学に行かないかって言われたんだ。」
すでに店主から聞いていた話だ。平静を装いながら、知らないふりを決め込む。冬にも関わらず、背中に汗が流れた。
「へ、へー。それで、どうしたの?」
「最初、断ったんだ。過度に知識を求めることは自分や周りの人を滅ぼす事にもなる。さっき君が言ってた人みたいにね。
でも、最近ある人から手紙が届いて。…そこに、知識は新しい発見や人と出会う手段でもあるんだって書いてあった。
僕はずっと、知ることってやつは恐ろしいものだと思っていた。でも、今回の手紙をきっかけに、そうでない考えがあるって事に気づかされたんだ。」
オクジーはアルベルトの話に静かに頷いていた。
「手紙の送り主がなぜ今になって僕にそんなことを伝えたのかはわからないけど。
でも、学ぶことにわくわくしていた頃のことを思い出したんだ。山ほど知りたいことがあった。見つけた小さな発見を父に報告すると、いつも喜んでくれた。その発見を何かに役立てられるかを一緒に考えてくれた。
あの頃の時間はもう帰ってはこないけど、僕がそれを否定したら、父との時間も無くなってしまう気がする。今の僕ができるのは、あの時の気持ちを引き継いで前に進むことだと思う。」
…………………………
夕方。
パンが売り切れてしまうとベーカリーは店を閉め、翌日の仕込みに入る。長年やってきた連携で手早く済ませると、三人揃って夕食を摂るのがいつものルーティンになっていた。
自分の部屋に戻ってきたアルベルトは、暗くなった部屋の明かりをつけた。ベーカリーの上階は、夫婦とアルベルトの住む住居になっている。夫婦はアルベルトを実の子のように可愛がってくれて、こうして一人部屋も与えてくれた。ここまで育ててくれた二人には、感謝してもしきれない。
アルベルトはベッドに腰掛けた。
ベッドに座ったまま、本棚から一冊の本を取り出して開く。そこには白い封筒が挟まっている。
封筒から便箋を取り出す。
切手も消印もなく、住所も書かれていない。ただ表に「アルベルトへ」と印字されているのみ。
差出人の名前も書かれていない。
親愛なるアルベルトへ、から始まり、突然の便りで驚かせたこと、続いてアルベルトの息災を祈る言葉が丁寧な筆致で綴られている。
語り口は丁寧で、理性的な筆致でありつつも、知の絶対性への信奉が見え隠れする。
十数年経っても忘れられない、あの人の姿が脳裏に浮かぶ。
家庭教師として、君と書物のページをめくるたび目を輝かせて問いを重ねたあの時間は、かけがえのない時間であった。
父の命を奪ったことにより、知識と暴力とを結び付かせてしまったことは、自分の過ちであった。それはとても不本意で、知識は本来、支配や破壊にも、慈悲にもなる。
知織の重さを理解している君だからこそ、知識を、新しい発見や人と出会う手段として受け入れ直して欲しい。
ということが、書かれていた。
この手紙は、アルベルトに赦しではなく、知の再定義を促していた。
家庭教師の男の姿形、声に至るまで、今でも鮮明に思い出せる。
短く切り揃えられ整えられた金色の髪に青い瞳。いつも笑みを湛えて自信に満ち、言葉は聞く者を魅了する。
手紙からは、彼の姿形をありありと浮かび上がらせた。
ただ、この一文だけがアルベルトの胸をざわつかせた。
君の父の命を奪ってしまったことは、本当に申し訳なかった。
この手紙は偽物だ。
彼にこのような人間味のある感情はない。
おそらく、店主に頼まれて、店によく顔を出すあの青年、オクジーが書いたものだろう。今日彼と話をして確信した。
この一文が無ければ、本当に家庭教師の男からの手紙であると信じていたかもしれない。
父の最期の姿は、今でも目に焼き付いている。
知を得るためなら多少の犠牲などあの男の前には些細なことであった。情報を手に入れた今、自分たちのことなどもう忘れているかもしれない。こんなことのために父は命を落とさなければならなかったのか。あの男を憎む気持ちは決して消えないだろう。
家庭教師を騙ったこの手紙に対し、怒りは湧かない。
行間から店主や友人が自分に向ける暖かな気遣が伝わるから。
手紙をもう一度本に挟み込む。
アルベルトは立ち上がり、部屋の明かりを消した。店主たちはまだ起きているだろうか。
これからの話をするために、アルベルトは廊下に出た。