ポトツキの死から数日。
時間が過ぎても、オクジーの胸の重さは晴れなかった。
自分の訪問が引き金になったのではないか。
その疑念だけが、事務所にひとり残された静けさの中で鈍く疼いた。
所長からは、これ以上ポトツキの件に関わるのはやめるよう通告を受けた。
今日は所長もバデーニも不在で、オクジーが事務所の留守を預かっていた。
最近は忙しくてつけていなかったノートを開いているが、なんとなく落ち着かず、筆の進みは悪い。暖房設備の配管の音と、時計の音がやけに大きく響く。
陶器人形の捜査については、とくに進展なしとのことだった。そもそも、エミルという少年の前世の話が事実だという確証はどこにもない。
ただ、バデーニはエミルの生まれてからこれまでの環境や、話をする時の仕草から見て、彼の話には真実味がある、と話していた。
生まれてから今までの人生をほとんど病室で過ごす彼が、行ったことのない場所や百年前の情報を知る機会は極めて少なかったはずである。それにしては詳細な様子を話していた。また、彼が話をする時に左上を向くのは、過去に見た映像や光景を思い出す時の自然な動作なのだそうだ。
今日もそろそろドゥラカが定期連絡をしてくる頃合いだったが、今日は時間を過ぎても連絡が来ない。何かあったのでは、と妙に胸が騒ぐのも、書き物に集中できない要因の一つであった。
思考の海に沈みかけたその時、静寂を引き裂く電話のベル音が鳴った。
「…もしもし。」
『やりましたよ、オクジーさん!』
ドゥラカだった。
いつもの落ち着いた声ではなく、珍しく年頃の少女のようにはしゃいでいる。その様子に、今までの不安が吹き飛んだ。期待が高まる。
「もっもしかして。」
『もしかしてですよ!見つけました。夫人の疎開先が分かったんです。夫婦と人形が写った写真が残ってました。』
夫が出兵してから、夫人は田舎に疎開していたらしい。夫は戦場で足を負傷し、送り返された。ただ、元いた家に夫人の姿はない。戦乱の中で、連絡がうまくいかなかったようだ。
連絡手段の少なかった当時のことを思うと、絶望に近い思いだったに違いない。
それでも夫は不自由な足で夫人を探し続けたらしい。
『疎開先で、夫人は夫婦で撮ったという写真だけは持って来れたと言って、よく人に見せてたそうなんです。』
とても精巧な人形だったが、指輪が左手についていて不吉だと、当時話題となったらしい。その噂は人づてに夫にも伝わる。
『夫は取るものもとりあえず疎開先に駆けつけ、二人は無事に再会できた…ってわけです。その後、夫婦は比翼の鳥ように仲良く暮らし、天寿を全うしたそうですよ。』
「そう、なんだ…。」
長い時間を越えて、エミルの記憶がつながったのだ。思わず目頭が熱くなる。
『私が思うに、夫婦が無事再会できたのは左手の結婚指輪のおかげですよ。ほら、噂って良くない方が広がるでしょう?』
はやくシモンやエミルに伝えてやってくれと言ってドゥラカからの電話は切られた。
部屋の静けさが、今度はやけに広く感じた。一呼吸おいてから、シモンに電話をかける。一刻も早くこの事実を伝えねばと、はやる気持ちを抑えながらボタンを押した。
…………………………
オクジーからの連絡を受けたシモンは、早速エミルに伝えようと、病室に向かっていた。
面会が許可されている時間まで残りわずかだったが、この吉報を伝える時間くらいはまだ残されているだろう。
今日は廊下がやけに静かだ。いつもならまだ子供達が自室に戻らず、看護師の手を煩わせている頃なのに。
「あれは、院長…?」
エミルの部屋の前に、男が立っていた。この病院の最高責任者である、アントニ院長であった。白くなった髪を切り揃え清潔感を出しているが、腹の中が読めず、シモンにとっては正直、不気味な印象を持つ人物である。医療者というより経営者としての側面が強いと思っていたが、エミルに何の用があって来たのだろう。
数人の男達が、エミルをベッドごと移動させているのを見て、慌てて駆け寄る。
「エミルに何かあったんですか?」
容体は落ち着いていると聞いていたが、彼の体調に異変があったのかと近づくと、男の一人に制止させられた。男は制服を着ておらず、看護師ではないようだった。
「君は?」
アントニが今しがたシモンに気がついたように、声をかけた。
「学生ボランティアのシモンです。エミルに何かあったんですか?」
男達の体の隙間から見えるエミルはベッドに横たわり、目を閉じて眠っているようだった。
「いや、簡単な検査の必要があってね。病棟を移動することになった。」
「そうなんですね…あの、彼にすぐ伝えたいことがあって。」
「見てわからないのか?この患者は話せる状態じゃないだろう。」
厳しい口調で言われ、慌てて身を引く。
「す、すみません…。あの、じゃあ伝えてもらえますか。前世のことで君が気に病むことは無かったんだよって。」
「前世…?」
「荒唐無稽な話かもしれませんが、エミルには今とは違う、前世の記憶があって…。彼には心残りがあって、僕の友人がそのことについて調べてくれたんです。」
アントニは一瞬だけ目を細めた。その笑みは、喜びとも困惑ともつかない。
「……分かった。伝えておこう。」
シモンは安堵したが、男たちの無言の視線だけが、妙に冷たかった。
「さあ、面会の時間は終わりだ。君も帰りたまえ。」
「ありがとうございます。エミルのこと、よろしくお願いします!」
シモンは深々と礼をして、その場を立ち去った。シモンの背が病棟の角に消えるのを見届けてから、アントニは隣の男に囁いた。
男は無表情で頷き、足音も立てずシモンの後を追った。