眼の日記/ヨレンタ探偵事務所事件録   作:すう

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第二十六話:決意

 オクジーとバデーニは探偵事務所への帰路についていた。

 しかし、事務所内は盗聴の危険性があるため外を歩きながら小声で話すしかない。さらに、こうしている今も何者かに見張られているのかもしれなかった。

「ラファウについて、もう一度調査してみようと思う」

「でも…その件は所長に止められていますが。」

「その所長は今や連絡がつかず行方不明。彼女にも関わりがあるとしたら?

 これだけ立て続けに疑わしい出来事が起こっているんだ。所長の失踪にも関わりがあると見る方が自然じゃないか?

 公の記録を改竄できるような大きな組織と渡り合えるとしたら、それは慎重な知性と時に大胆な度胸を持ち合わせた…まさに完璧な英傑だけだろう。」

「そ、そんな人…どこにも…。」

「いる。私だ。」

「……。」

「私が以前、国の機密データに不正アクセスをしたことがあった、というのは話したな。」

「はい。研究職の除籍の原因になったという…。」

「そこで数十年の研究データを漁っていた時、度々ラファウという名が出ていた。偶然とは思えない。だからもう一度、アクセスしてみようと思う。」

「!!それは…。」

 その行為は今度こそ研究職への復帰が完全に閉ざされるかもしれない危険なものだ。せっかく所長が作ってくれた一縷の望みであったはずだったのに。

「だが、肝心の所長がいないのであれば意味はない。そして、君はまだ学生だ。危険を犯す必要はない。ここで降りてもらう。」

「な、何言ってるんですか」

「作家になるんだろう。」

バデーニは真っ直ぐにオクジーを見据えて、手のひらをオクジーに向けた。

「次に足を踏み込むのは、国の中枢を動かすかもしれない領域だ。……もう後戻りは出来ない。」

 オクジーは口を開きかけたまま、言葉を出せずにいた。頭を巡るのは、田舎の家族のこと、書きためたノートのことだった。

「そもそも、ここから君にできることはもう無い。

 私も所長も、君の書く文章が好きだ。文章を書き続けてほしい。だから、ここで降りてくれ。」

 バデーニの指先が、かすかに震えていた。これは拒絶ではなく、祈りだと思った。

「君が未来を失ったら、戻ってきた時に所長が悲しむ。」

「……。」

「では。オクジー君。…神のご加護を。」

 オクジーは何も言えないまま、ただその背中が遠ざかっていくのを見つめた。

 

 

 ひとり、下宿に向かう足は重かった。雪が石畳に落ちては消えていく。影だけが、妙に小さく見えた。

 オクジーが下宿に着くと、廊下に先客がいた。ここで昼間から住人と顔を合わせることはほとんどないので、珍しいと思いつつ歩いていると、男が立っているのが自身の部屋の前だと気がついた。

 がっしりとした体つき。特徴的な髭。黒髪の美丈夫。真っ白なロングコートを着込んで立っていた。

「あ、あなたは…。」

「遅かったな。オクジー。」

 男はオクジーに向かって話しかけた。この顔には見覚えがあった。

 以前、町外れの用水路の橋の下で、所長と話をしていた男だ。あの時は、所長の探偵仲間か何かかと勝手に思っていたが、声をかけられる雰囲気では無かったため、身を隠してしまったのだ。こちらの顔は見られていないはずだったが。

「だ、誰、ですか…?」

「私はシュミット。ヨレンタさんと昔、一緒に事務所をやっていた。

 話はしていないが、以前会っただろう。街外れの橋のところで。」

 バレていたのか。

「ヨレンタさん…君たちの所長と連絡が取れない。何か知らないか?」

 オクジーが息を呑む。なんと答えるべきか。しかし、彼が所長の味方だと言う保証はどこにもない。

「まさか、降りたのか。」

 その言い方は、責めるでも蔑むでも無く、ただ事実を告げただけだった。感情の無い話し口調に、相手の奥底が読めず、口を開くことができない。

「バデーニが降りろと言ったのか。」

 図星だ。この男はどこまで自分たちのことを知っているのだろう。

「君の文章を守るため、か。それは立派な事だ。まことに美しい。だが…。」

 シュミットはオクジーの胸をトンと指で押さえた。

「まさか、君はそれに納得したのか?」

 オクジーの息が詰まる。

 この男の、奥底の見えないところが所長と似ている気がした。

「さて、話を本題に戻そう。ヨレンタさんの行方について、心当たりは?」

「し、知らないです。本当に…。」

 シュミットはがっかりした顔を見せた。

「そうか。ではここに居ても何の収穫もないと言うことか。彼女の側に居た君たちなら、何か気づいくことがあったかと思ったんだが。」

 これ以上は時間の無駄だとでも言うように、コートを翻した。迷いのない靴音を響かせて出口へ向かって歩いて行った。

 シュミットの姿が見えなくなると、やっと自然に呼吸ができるようになった。失望された態度に胸が痛くなる。しかし、なぜだか軽い。

 シュミットの言葉が頭の中でリフレインする。「君はそれに納得したのか。」

「納得、なんてしていない。……行こう。」

 気づけば足が動いていた。下宿の扉を開けもせず、オクジーは来た道を駆け出していた。

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