眼の日記/ヨレンタ探偵事務所事件録   作:すう

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第二十七話:拘束

 夜の足音が近づくにつれて、雪の勢いが強くなっていた。石畳の上を駆ける足は冷たさで痺れていたが、頬は熱を持っているのを感じた。

 降雪と夕闇で視界が遮られたが、事務所のぼんやりした明かりが見えると、安堵した。バデーニは事務所にいるようだ。

 だが、窓辺に複数の人間の影が見えて、心がざわつく。いつもと様子が違う。

 急いでビルの扉を開けると、大柄の男に道を塞がれていた。

 ノヴァクだった。女学院に通うヨレンタの父であり、公安庁を名乗る男。

「!?」

「……よかった、手間が省けた。」

 ノヴァクは眠たげに片手を上げた。

 次の瞬間、両肩を押し潰す圧が降ってきた。

「な、何するんです!」

「あ〜拘束の理由?」

 ノヴァクは面倒くさそうに、耳に小指の先突っ込みながら話し出した。目線はオクジーを見ておらず、小指についた汚れをフッと吹き飛ばす。

「なんだっけ、殺人事件の重要参考人?だったかな。」

 あやふやな言い方である。これは本当に正式な捜査なのだろうか。

 二階からガタガタと暴れるような音がする。

「なんだ、あっちは手こずってるなぁ。」

 やれやれと頭をかくと、大きなため息をついた。

 「バデーニさん!」

 身じろぎをすると、拘束の圧が強まった。二人がかりで押さえつけられているらしい。背中に回された腕が軋んだ。

「どっちか応援に行ってくれる?」

 ノヴァクの指示に、左肩を押さえていた力が弱まった。一瞬の隙をついて拘束を振り払い、背後にいた男二人に拳を打ち込む。

「え。」

 一人は小さくうめいて倒れ込み、一人は泡を吹いて既に気を失っている。

 オクジーは倒れ込んだ男たちに一瞥もくれず、ノヴァクの隣を通り過ぎた。二階に駆け上がり、事務所の中に飛び込む。

「バデーニさん!」

 突然呼ばれた名に、バデーニの目が驚きで見開かれる。

 抵抗を続けていたバデーニだったが、オクジーが現れた一瞬の隙をついて制圧される。壁に押さえつけられた彼の顔には、抵抗の時についたのか、大きな傷があった。鮮血が彼の顔やシャツの首周りを染めていた。

 オクジーの頭にかっと血が登り、バデーニを拘束する男たちに駆け寄ろうとしたが、次の瞬間、彼が目にしたのは見慣れた絨毯の模様だった。

「やれやれ、手間かけないでくれる?」

 頭上から降ってきたため息混じりの声に、自分が頭を掴まれて床に押し付けられていることに気付かされる。

 片腕が背後でねじ上げられ、肺に重さがのしかかる。

 呼吸が削られ、視界が歪んだ。

 何とか顔だけを動かしてバデーニを見ると、哀しさと辛さの混じった表情を向けていた。

 バデーニの表情を見た瞬間、喉がつまった。何か言おうと口を動かしても、声が出ない。

「抵抗の意思あり、と。仕方ないよね。」

 無情なノヴァクの声が降ってくる。捻られた片腕に力を入れられ、鈍い音とともに強烈な痛みが走り、急速に意識が遠のいていった。

 

 …………………………

 

 ここは、どこだったろう。

 

 暗闇の底から意識が浮上すると、懐かしい風の匂いのする場所に立っていた。

 夏の畦道。黄金のライ麦畑が風に揺れ、蛙の声が響く。

 そうか、これは故郷の景色だ。

 平原の中にポツンと建つ我が家は、ゆっくりと夕暮れに呑まれていく最中だった。庭先で妹が羊の世話をしていた。

 オクジーの手には、擦り切れたノートとペンが握られている。休憩をもらうと、いつも大きなナラの木の根元で書き物をしていたのだ。

 今頃、両親と兄はライ麦の収穫に追われているのだろう。一面の麦畑は黄金色に染まり、風に撫でられて波のようにさざめいている。ライ麦が一番輝く時期のこの景色が、一番美しいと思っていた。

 夏の始まりの頃の記憶だ。この日、自分はある決意をして、そのことを家族に伝えるために家へ向かっていたのだ。

 その日の夕食の時間。家族全員で食卓につき、食前の祈りを唱和するのが我が家の日課だった。その前に、オクジーが声をあげた。

「作家になるために、大学に行かせてほしい。」

 何度も頭の中で推敲してきた言葉だった。

 幼い頃から物語を読むのが好きで、空想の世界に浸っていた。よく自分で創作した話を作っては妹に聞かせていた。いつか、作家になりたい。歳を重ねるごとにその思いは強く大きくなっていった。

 両親ははじめ、面食らった顔をしていた。無理もない。我が家の経済状況を考えると子供を大学にやる余裕などほとんどないのは自明であった。反対されるのならそれで納得しようと思っていた。それでも言うだけ言ってみようと決意したのが、今日だった。

 最初に口火を切ったのは母だった。

「やっと言ってくれたねぇ。あんたは小さい頃からわがまま言わない子だったからさ。やっと自分のやりたいことを言ってくれて、あたしゃ安心したよ。ねえ、あんた。」

 黙って話を聞いていた父は、母に促されて頷いた。

「ああ、やったみたらいい。」

 父は長い畑仕事で染みついた土の匂いのする手を机の上で組んだ。日に焼けて深く刻み込まれた皺が優しく動いた。

 妹にはずっと前から相談に乗ってもらっていたから、話が良い方向に流れていくと、そばかすの浮いた顔をニコニコさせた。彼女は小さい頃から、オクジーの一番の味方だった。

 家族全員の視線は、ある一点に集まった。食卓の中心に鎮座する、歳の離れた兄だった。苦い顔をして、オクジーとよく似た太い眉毛をギュッと寄せていた。

「何を、夢みたいなことを言い出すかと思えば。」

 浅く息をついて吐き出すように言った。怒りではなく、呆れと疲労感の込められた言葉だった。

 九つ歳の離れた兄の言葉は、家族の中の誰よりも現実的だ。幼い頃にライ麦の不作が続いたことがあり、当時の一家は長いこと飢えに苦しんだらしい。その時の記憶が彼のその後の人生に大きな影響を与えている。

「この家を回すのに、今家族五人で手一杯なのは分かっているだろう。一人欠けたらその仕事は誰がやる?」

 今や家長となっている兄の言葉に言い返す者は誰もおらず、長い沈黙が続いた。

 オクジーが沈黙に耐えられなくなり、発言を撤回しようとした時、父が先に口を開いた。

「まあ、何とかなる。今年はいつになく豊作だった。蓄えのことは心配するな。」

「父さん、今年が豊作だからと言って、来年またそうなるとは限らない。

 分不相応な大学に行かなくたって、家業をしながらできることをやればいい。」

 兄の言葉からは、オクジーが生半可な気持ちで作家を夢見ていると思っていることが伝わってくる。これまで黙っていた妹が口を挟む。

「作家になるなら、大学に行ったらってあたしが言ったの。オク兄さんの文章は特別だよ。絶対作家になれるって。」

 両親達が理想を語る。

 兄は現実的でないその話を心底呆れた目で見つめている。

 テーブルの上で冷めていく食事を見つめながら、オクジーは家族の言葉の重さに押しつぶされそうになっていた。

「…… 大学に行ったからって、作家になれるとは思っていない。勉強すれば、もっと人に届く文章が書けるようになると思ったから…。」

 緊張のあまり、喉奥から絞り出す程度の音しか出ていない。オクジーのあまりに小さな声は、家族に届いているか分からなかった。

「現実を見ろ。自分が特別だなんて、思い上がりだ。」

兄の太い眉が、怒りではなく諦めで歪んでいた。

「俺は、反対だ。」

 その日の夕食は、ほとんど味がしなかったのを覚えている。その日から、兄はオクジーの目を見なくなった。

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