眼の日記/ヨレンタ探偵事務所事件録   作:すう

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第二十九話:解放

 革靴が床の油膜を踏む足音が遠ざかっていく。ノヴァクと部下が倉庫から出る一瞬、扉から漏れた光が部屋を照らし出す。バデーニは逡巡する。

 一瞬見えた部屋の中は、むき出しのハイプが張り巡らされていた。ここは機械の制御室のようだった。外部に繋がっているのは、先ほどの出入り口か、排気口だけだろう。部屋の奥ではオクジーが体を丸めたくらいの大きさのタービンが稼働し続け、相変わらず重低音を響かせていた。規則的な雑音が思考を鈍らせていく。

「オクジー君。なんで来た。」

 今更だ、と思いながらも、思っていたことをバデーニはオクジーにぶつけた。

 オクジーはバデーニの声に反応して体を動かした。意識がまだはっきりしていないのかも知れない。

「奴らは部屋から出て行った。…私たちの会話はどこかで聞いているだろうが。」

 オクジーがモゾモゾと体を動かした。どうにか痛みを逃そうとしているようだ。拘束された状態では満足に動かせないようで、不自由そうだ。痛めつけられた肩が痛むのだろう。折れていなければいいが。

 オクジーはバデーニの声のする方に顔を向けて、静かに声を絞り出した。

「…バデーニさんと俺は、バディじゃないですか。バデーニさんだけに全てを押し付けるなんて、出来ません。」

 はあ。

 呆れて大きなため息をついた。しかし、オクジーの言葉に、自分の頬が緩んで情けない顔になっているのが分かった。今だけは、オクジーの視界が遮られていて良かったと思った。

「バデーニさん。怪我は、大丈夫ですか?」

 この男は。

 この期に及んで人の心配ときた。自分が今どんな状態か理解しているのかと問いたくなる。

 全く、お人好しにも程がある。しかし、バデーニは気の利いた返し方を思いつけず、少々ぶっきらぼうに「問題ない。」と答えるしかできなかった。

「君の方こそ、怪我はどうなんだ。どこか痛むところは?」

「左肩が、痛みます。折れてはいないと思うんですが。あとは、大丈夫そうです。」

「脱臼させられたのかもな。利き手でなくてよかった。書くのに困るだろう。」

 バデーニの言葉に、オクジーが「はは。」と掠れた笑い声を立てた。

「こんな時なのに、俺の文章の心配してくれるんですか?」

 自分のことは棚に上げておいて、よく言う。バデーニは今度は本気で呆れ返った。

「は?するだろ。心配くらい。」

 オクジーは頭に黒布を被せられて、暗闇の中にいる。見えず、呼吸もままならぬ中で、バデーニが口を閉ざしてしまえば、暗闇の孤独の中で心を折られることになる。彼のためにも会話を続けなければと、なんとか話を繋いでいく。

 尋問がいつまで続くかは分からない。自分達がノヴァクらの期待する情報を吐けば用無しとなるのだろうが、あいにく自分達だって所長の居場所を探している最中なのだ。

 ただ、ここで我々が所長の居場所を伝えたところで、無事に解放されるとは考えにくかった。

 バデーニは不安を押し殺すように、取り止めのない話を続けて行った。

 

 どれくらいの時間が経ったのだろう。暗闇の中で時間感覚が狂わされていく。今は昼か、夜か。

 寒さと睡魔と空腹感がのしかかってくる。オクジーとの会話は途切れ途切れになり、抗えぬ睡魔に目が閉じかけた時。

「!?」

 顔面に水がかけられる。顔に水を浴びせられるたびに意識だけが引き戻され、同じ質問が繰り返される。

「所長の居場所、思い出した?

「…知らない。本当に。」

「……あの女はさぁ。」

 同じ質問を繰り返すだけだったノヴァクの口から、別の話題が出たのはこの尋問が始まって初めてのことだった。

「テロ組織のリーダーとして指名手配されてるの、知ってた?」

 ノヴァクは持っていたペットボトルの水で口を潤してから、話し始めた。

「危険思想を掲げ、若者を取り込み、国家を脅かそうとしている。社会秩序を乱す脅威である可能性が、すでに閾値を超えている。」

「嘘だ。…所長はそんな人じゃありません。」

 オクジーが口を出す。ノヴァクがオクジーに向けて、憐れみのこもった表情を向けた。

「君たちも、あの魔女の危険思想に侵された被害者である可能性は十分にある。」

 ノヴァクは柔らかな声で、オクジーに語りかける。

「君は、作家志望だったね。魔女は人の心に入り込むのが上手い。自信のない若者に取り入り、自分は特別になれると思わせる。そうして信頼関係を築き、利用する。

 …家族の中で、自分だけが作家になりたいなんて夢を追いかけている。お兄さんは反対されていたんだって?」

 オクジーの肩が小刻みに震え出した。

「お兄さんに認められたいという承認を代わりに満たしてくれたのが、所長や探偵事務所だったんじゃないか?君は魔女に洗脳され、その弱さごと、利用されたんだよ。」

 ノヴァクは優しく微笑んだ。勝ちを知っている者の表情だ。人差し指で掬い上げるように、オクジーにかけられた黒布を取り払う。

 光を失ったオクジーの瞳が宙を見ていた。幾つもの涙の筋が頬を伝っている。

「さあ、所長について知っていることを話してくれるかい。」

「……はあ。」

 大袈裟なため息が、場の空気を引き裂いた。

「家族を材料にした精神的圧迫。手垢がつくほど使い古された手だな。」

 バデーニが皮肉を纏った声で吐き捨てた。とても偉そうに見える。縛られているのに。

 ノヴァクがわずかに顎を引く。

「いいか。」

 バデーニの、ノヴァクに向けられる視線は鋭かった。

 ノヴァクの目にわずかな苛立ちが宿る。

「彼は自分で決めてここにいる。誰かが道を作ったわけじゃない。それを洗脳だの利用だのと言い換えるから、話をつまらなくする。」

 バデーニが自嘲気味に笑って言う。

「所長は我々の運命を変えた。その意味では魔女…ファム・ファタールと呼べるかもしれない。だがな。」

 バデーニのよく通る声が機械室の中に響き渡る。

「その先を掴むのは、自分の手だ。彼女はチャンスをくれただけだ。」

 演説が終わると、バデーニは咳払いを一つした。

「……ところで。そろそろ拘束を解いてくれないか?研究の続きが待っているんだが。」

 この状況には本来全く似つかわしくない態度に、ノヴァクがブハッと吹き出した。唾の飛沫がオクジーにかかった。

「いやー面白いね。君たち。」

くっくっと笑いながら目尻に滲んだ涙を拭った。

「そうだなぁ。取引をしないか。」

 ノヴァクが新たな提案を持ち出す。先ほどの拷問めいた尋問の時とはガラリと変わった態度に、二人は面食らった。バデーニはこれも全て彼の計算なのだろうと読み取る。

「司法取引だ。魔女の居所を教える代わりに、今回の逮捕を不問にするって言うのはどう?

 今のままでは魔女と共犯だったのは変わりないんだから、悪い提案じゃないでしょ?」

 身の保身のために所長を差し出せと言うことか。オクジーが憤り、声を荒げた。

「そ、そんな取引に応じるわけ…!」

「ま、考えといてよ。」

 ノヴァクはくるりと二人に背を向けると、「あとよろしくね、フライくん。」とあくびの混じった声で部下に指示を出し、出口に向かった。

 残された部下が頷き、こちらにちらりと目線を送る。

 また、いつになるとも知れず暗闇の中で待つことになるのだろうか、そう思った時、背後でブツリと何かが切れる音がした。音と共に、それまでぴくりとも動かせなかった手首が自由になった。何時間かぶりに体の末端に血が巡る感覚がした。

「?」

 先ほどのノヴァクの部下だった。オクジーの足の拘束を外しながら、神経質そうな顔を向ける。フライ、という名で呼ばれていたか。

「あなたは?」

 オクジーの問いには答えず、フライは小声で手早く部屋の奥を指差して指示した。

「非常口の鍵を開けてあります。そこから外に逃げられる。」

 長時間の拘束により、体は想像以上に疲弊していた。バデーニが倒れそうになるのをオクジーが支えた。

「シュミット隊長は、ヨレンタさんに近づくのはあなた方だと言っていました。」

 フライは無表情を貼り付けたまま「はやく。」と急かす。

 オクジーとバデーニは言われるまま、互いを支えにするようにフラフラと示された非常口を目指した。

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