日の昇りきらぬ工房に、機械の唸りが広がる。
電源を入れ、温まるのを待つあいだ、いつもの日課に取り掛かる。
作業台の上に置かれた木枠の写真立てに向かって、声をかけた。
「おはよう。またあの古い基盤の調子が悪いらしい。全く、あのじゃじゃ馬には毎度手こずらせられる。
えぇ、最近少し腹が出てきたって?少し運動するかなぁ。」
写真立ての中の妻と娘は薄く微笑んだままもう何年もこのままだ。
この日課は自分にとって重要な祈りだった。しかし、この姿を見て辞めた従業員も、気味悪がったアルバイトもいた。
けれど去年の夏だけは違った。
作家志望の、あの若者だけは。
遠い昔に亡くした家族との思い出を人に聞いてもらったのは、ずいぶん久しぶりのことだった。
ドサリ。
工房の裏手で大きな布が落ちるような音がした。猫かカラスが悪さでもしているのかと覗き込む。
音の正体が分かると、男は慌てて工房に戻り、電話機に手を伸ばした。
………………………………
オクジーが意識を覚まして最初に見たものは、熊だった。空腹と疲労で、最初は幻覚でも見ているのかと思った。何度も目を擦って、ようやく目の前の現実を受け入れる。
「……え?熊?」
「おお、目を覚ましたか!」
いきなり人語を話す熊に、頭が急速に覚醒する。彼は熊ではない。人だ。しかも、顔見知りである。
「あ、あなたは…グラスさん?何でここに?」
グラスは工業用油のついた顔でニカッと笑った。去年の夏、彼の経営する修理工場でアルバイトをさせてもらったのだ。とても人のいい店主で、仕事とは別に基盤や配線などの扱いを教えてもらった。
ベッドに横たわるオクジーの顔を覗き込んでいたらしいグラスは、豪快に笑った。
「久しぶりだなぁ、オクジー君。君、丸一日眠っていたんだぞ。」
オクジーはベッドに横たわったまま、あたりを見渡す。
金属と油の匂い。
古いストーブの湯気。
カーテンの向こうには、見覚えのある工具が覗いていた。
ここは、グラスの工房だ。
バデーニと二人、尋問されていた工場の非常口から逃げてきた。そう遠くへも行けないうちに夜が明けて、どこかに身を隠そうと路地裏に倒れ込んだのだ。記憶はそこで途切れていた。
「バデーニさんは…?」
「金髪の兄ちゃんかい?」
グラスが視線を部屋の中に滑らせる。バデーニは横長のソファの上で布団に包まっていた。規則正しく上下する胸の動きに、安堵の息を吐く。
グラスによると、昨日の早朝、工房の裏手でボロ雑巾のように折り重なって倒れている二人を見つけ、慌てて自宅に運んだそうだ。
監禁されていた工場からグラスの工房はそう離れていなかったのか。朦朧とする中で、無意識に知っている道を選んだのかも知れない。
「…本当にありがとうございます。グラスさんは命の恩人です。」
医者や救急車を呼ばれていたら、せっかく逃がしてもらったのが無駄になったかも知れず、口には出さなかったがそこもグラスに感謝した。
「そんな畏まらないでくれたまえ。君と私の仲じゃないか!」
グラスはワハハと笑い、横たわるオクジーの胸をバンバンと叩いた。
「いっつ…!」
脱臼させられた左肩に衝撃が伝わり、オクジーが顔をしかめる。
「すまんすまん、怪我してるんだったな。今、ちゃんと診てもらえるよう手配してあるからな。」
「え。」
医者を呼ばれるのはまずい。そう考えたのが顔に出たのか、グラスは手のひらをオクジーに向けて、落ち着くようにと言った。
「私の古い知り合いでね、君の心配することは起こらない。」
グラスは、オクジーたちが訳ありなのを分かって匿ってくれているのだ。オクジーは申し訳ない気持ちで言葉に詰まった。
窓から差し込む光が明るくなり始めた頃。
カーテンから顔を出したのは、大柄な女性だった。ゆったりしたロングスカートに毛糸で編まれた肩掛けを羽織っている。
「目を覚ましたのね。」
「ああ。来て早々だけど、早速診てやってくれるかい。オクジー君、こちら、アイーダさんだ。」
「は、初めまして…。」
「初めまして。グラスとはちょっとした腐れ縁なの。」
チャーミングにそう言うと、片手を差し出した。握り返した手は骨張っていた。
「じゃ、診てみましょうか。」
アイーダは手慣れた手つきで鞄から瓶や清潔なタオルを取り出して机の上に並べていく。木の簡易椅子をグラスに持ってこさせると、そこに上着を脱いで座るよう促した。
肩から肘にかけて、青黒いあざが広がっている。冷気にさらされると表皮が過敏になって痛みが増した気がした。
アイーダは袖を捲り消毒を済ませたあと、オクジーの背中に触れた。
「外れてからどのくらい経つ?」
「さあ、たぶん、3日ぐらいじゃないでしょうか。」
どれくらいの時間あの場所に監禁されていたかわからないので、正直に言った。声を出すと、肩の奥からずきりと痛む。
「よく我慢したな。…少し痛むぞ。」
アイーダが低く呟くと、片腕をオクジーの背中に添えた。呼吸に合わせるように数度揺らす。
「息を吸う…吐く。はい。」
鈍い音と共に、骨がはまり込む衝撃。思わず、喉の奥から短いうめきが漏れた。
「はい、終わり。しばらくは動かしちゃダメよ。外れやすくなってるから。」
テキパキと三角巾を結び、オクジーの顔色を確認する。血色は悪いが、目に光が宿っている。もう大丈夫そうだ。
「ありがとう、ございます…。」
「さて次は、こちらのぼっちゃんね。昨日一度怪我の様子を見せてもらったんだけど、傷が深いから縫わなきゃいけないわ。」
オクジーが横たわったバデーニに視線を落とすと、丁度薄く目を開けた瞬間だった。
「麻酔なんて気の利いたもの無いから、覚悟して頂戴。」
アイーダが少しだけドスの効いた声で告げる。彼女の用意した針が、照明に反射してキラリと鋭い光を放つ。
「……は?」
覚醒したばかりバデーニは、戸惑いを隠せず眉をしかめた。何故か皆気の毒そうな目で自分を見つめている。
アイーダが金属のトレイを手に、バデーニの側に腰を下ろす。机の上から瓶に入った透明な液体をコップに注いだ。
「飲んで。」
アイーダが差し出したのは、ウォトカだった。刺激的な匂いが鼻腔に走る。
「麻酔代わり。無いよりマシでしょ。」
バデーニの顔の傷は、鼻筋を横切るように一本。左頬から口にかけて縦に一本。特に頬の傷は深く、唇の一部を抉っていた。
アイーダはガーゼに消毒液を染み込ませてから、バデーニの傷の状態を確認する。
「時間が経っているにしては、化膿は見られない。運が良かったわね。でも、傷は残っちゃうわ。」
バデーニはぐいとウォトカを飲み干すと、「やってくれ。」と目を閉じた。グラスがぴゅうと口笛を吹いて「肝が座ってる。」とバデーニを称えた。
ウォトカを浸したガーゼで傷の周辺の感覚を鈍くしていく。
「息を整えて。……いくぞ。」
針が皮膚を貫くたび、バデーニの眉がわずかに揺れた。
「はい、最後。」
ひと結びして、糸を切る。清潔なガーゼで軽く押さえる。
「終わった。……よく耐えたな。」
額に玉の汗を浮かべて、アイーダが太く長い息を吐いた。縫い終わった患部を、医療用テープで保護していく。
「数日は口を動かしちゃダメよ。痛みで動かす気にもならないでしょうけど。」
口元に人差し指を当てる仕草に、バデーニは目だけで了承を示す。
「ありがとうございます。」
バデーニに代わり、オクジーが頭を下げて礼を伝えた。
「どういたしまして。抜糸は一週間後。二人ともそれまでは安静にね。」
「さあ、腹が減ったろ。」
グラスが石炭ストーブの上で、アイーダの持ってきたスープを温めていた。
「アイーダさんの命のスープだ。これを飲めば怪我なんてあっという間に治る。」