眼の日記/ヨレンタ探偵事務所事件録   作:すう

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第三十一話:グラスとアイーダ

第三十一話 グラスとアイーダ

 グラスに倒れていたところを拾われて、一週間が経とうとしていた。

 彼が日課にしている妻と娘への報告には、工房にやってきた新しい居候の話題が増えた。

 オクジーが肩を庇いながら工具の整理や清掃をはじめると、バデーニも見よう見まねで仕事を手伝いはじめたのだ。

 バデーニは工房を歩き回り工房の配置をつぶさに観察すると、グラスへの提案を行った。作業導線や工具の位置を見直し、発注の効率化を進めると、仕事の効率が格段に上がった。一日にこなせる仕事量が二倍になった日には、グラスも笑うしかなかった。

 バデーニは表情筋を動かすのにも痛みが走るらしく、言いつけを守って無口で過ごしていた。

「静かなバデーニさんって新鮮ですね。」

 と、口を滑らしたオクジーにものすごい形相を向けた以外は安静にして過ごした。

 アイーダは毎朝顔を出し、二人の怪我の状態を診て食事を差し入れてくれた。オクジーはアイーダの味に覚えがあり、思わず声を上げた。

「ドゥラカさんのご飯と同じ味!」

「あら、ドゥラちゃんのこと知ってるの?うちの店でバイトしてるのよ。最近連絡がなくて心配してたんだけど…。」

 彼女は依頼を受けて遠くまで足を運んでくれていたのだ。調査報告を終えた後、彼女の足取りは掴めない。

「まあ、あの子は立ち回りが上手いから、無事にやってるでしょ。」

 アイーダは、心配していると言っている割にあっけらかんと言う。ドゥラカへの信頼がにじんでいた。

 オクジーは返事ができなかった。事情を話せば、二人を巻き込むかもしれないからだ。

 

 早朝の工房は、静かな機械音に支配されていた。

 洗浄された部品を棚に戻し終えると、オクジーは石炭ストーブにかけられたやかんの湯を新しいものに入れ替えた。

 バデーニは木の椅子に腰掛け、アイーダに顎を軽く持ち上げられている。消毒液の匂いが漂う中、抜糸が行われていた。

「……終わり。経過も良好ね。」

 バデーニはゆっくり口元に触れた。傷付近に痺れはあったが、縫われて引き攣っていた感覚が消えたことで人心地がついた。

「……ありがとうございます。」

 一週間ぶりに出された声は、かすれて聞き取りにくい。

 傷の痛みは治ったものの、動かしていない筋肉が固まって違和感が残る。少しずつ慣らしていくしかない。

「はあ、筆談で会話するのがどれだけ不便だったか。」

 メモを丸めながら、バデーニがため息をついた。

 ほとんど話すのと同じスピードで書いていたから、あまり困っていないのかと思っていたが、本人としては不便だったらしい。

「得体の知れない私たちを助けてくださったこと、本当に感謝しています。」

 バデーニは、やっと自分の声で感謝を伝えることができたと言って二人に頭を下げた。

「いいのよ。ほっとけなかったもの。」

 バデーニが居住まいを正すと、改めて口を開いた。

「私たちは、行方不明のボスの手がかりを求めて、ある人物について調べていました。」

「わわわ!ちょっと!」

 バデーニの口を、オクジーが慌てて塞ぐ。

 「いたい。オクジーくん。」

 オクジーが小声でバデーニに耳打ちする。

「そんなこと話しちゃまずいですよ。」

「二人を危険に巻き込むつもりはない。」

 バデーニが国のデータベースを覗いて何を知ったか、オクジーは知らされていない。グラスと三人で生活していて話せる機会がなかったのもあるが、得た情報をオクジーと共有する気がないように思う。彼は未だオクジーを巻き込まずに済む方法を考えているのではないだろうか。

 バデーニの口を塞いだ手が震えているのに気づき、オクジーは手をそっと引っ込めた。

 バデーニが煩わしそうにオクジーの手を払って退ける。

「お二人は軍の関係者とお見受けします。間違いありませんね。」

 バデーニのはっきりとした物言いに、グラスとアイーダの表情がぴたりと止まる。ちらと視線を交わし、グラスが頷いた。

「…なんで分かった?」

「グラスさんは、歩き方。歩幅が一定で、無駄がない。訓練された動きは抜けにくい。つぎに、工房の棚の配置。使いやすさを犠牲にしてでも、外から覗かれにくく、光が漏れないように工夫されている。情報任務にあたっていたのでは無いですか?

 アイーダさんは、麻酔がわりにウォトカを使ったこと。軍属の医師が野戦で負傷した兵士の治療に使う手だ。満足に医療物資が手に入らない場所での治療に慣れていることから、従軍医だったのでは。」

「……話せるようになった途端、ずいぶんお喋りね。」

 どうやら正鵠を得ていたようた。アイーダが低い声で唸って口元を覆った。

「ま、元、軍の所属ってだけだがね。誰にも話して無かったから、驚いたよ。」

 グラスとアイーダは、参ったと言うように肩をすくめて見せた。

「あなた方を危険に巻き込むつもりはありません。ただ、我々が欲しい情報を、あなた達が持っている可能性がある。」

 バデーニは唇を一度湿らせて、元軍人達の表情を窺い見ながら話を続けた。

「フベルトという男について、何か知りませんか。」

 二人の顔から血の気が引いたのが分かった。グラスは拳をきつく握り込んだ。

「知っていますね。」

「なぜ、なぜその名を。…まさか、機密情報を盗み見たの?」

 バデーニが頷く。

 アイーダが目元を手で覆って深く息をついた。吐息と共に「なんてこと。」と言葉が漏れた。

「我々はラファウという人物を追っていました。彼は、行方不明になった我々のボスへの唯一の手がかりなのです。

 このラファウと言う人物の研究が、国の機密データベースの中にあった。彼の研究内容は、前世の記憶を持つ人間についてだった。」

「それって…!」

 オクジーの頭に、ある人物が浮かび上がる。百年前に生きていたと言う陶器職人の記憶を持つ少年、エミル。彼の心残りを解消したいと願った心優しい青年は、謎の死を遂げた。

 オクジーが言いかけると、バデーニに手で制された。今はエミルやシモンの話はするなと言うことらしい。

「フベルトはラファウの研究に関わっていた。あいにく、研究は失敗に終わったようだったが……。」

「終わったんじゃない。中断したんだ。」

 バデーニの言葉を、グラスが遮った。

 アイーダの顔は蒼白で、自分の体を抱きしめるように組んだ腕を握りしめている。

「フベルトは、ラファウの実験の被害者だ。」

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