眼の日記/ヨレンタ探偵事務所事件録   作:すう

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第三十二話:フベルト

「あたし達には、守秘義務がある。」

 アイーダはきっぱりと言い切った。グラスも口を閉ざし、横目でオクジーたちを伺い見る。

 警戒の滲んだその態度に、オクジーが思わず声を上げた。

「ま、待ってください。俺たちはあなた方と対立する気はない。ただ、ラファウの情報が必要で。」

 だが、オクジーの言葉を受け止める者はいない。

 重い沈黙が流れる。部屋の隅で揺れる振り子時計の音が、やけに大きく聞こえる。

 沈黙を崩したのは、アイーダであった。

「命の選択を迫られたこともないあんた達に、何がわかるっていうの。」

 言葉を発したアイーダ自身が驚いたように口元を押さえた。だが言葉は堰を切ったように溢れてくる。

「…フベルトは、泣いて終わらせてくれと言った。なのに、私は、処置台に運ばれてくるあの人を何度も何度も延命した!望んでいなかったのに、無理やり生かした!」

 低く震える声は、ほとんど慟哭のようだった。

「……地獄だった。」

 グラスがアイーダの肩を抱き、椅子に座らせた。彼の表情にいつもの親しみやすさはなく、眉根を寄せた深い皺が影を作っていた。

「…私の仕事は、フベルトの警護だった。毎日実験室に輸送し、あの苦痛を味あわせた。助けてくれと頼まれても、扉の鍵を開けなかった。」

 二人の懺悔と後悔からは、今も二人の心の深い部分を抉り続けていることが分かる。

 バデーニは静かな声で問うた。

「その実験を指示したのが、ラファウだったのですね。彼は何のためにそんな実験を?」

「それを言うつもりはない。君たちは知るべきではないし、知ったところで何もできない。」

 グラスの決意は頑なだった。

 石油ストーブにかけられたやかんの中で、水が温められ、白い蒸気が立ち上っている。

 オクジーが身じろぎをしようとして、思いとどまった。軽々しく踏み込んではいけない空気が部屋を満たしている。

 沈黙ののち、グラスははっきりと二人を見据えた。

「この際言っておく。私たちは君らの味方ではない。敵でもないがね。だから教える義理はない。」

 グラスの宣言に、オクジーは決定的な壁を感じた。

「では、実験のその後はどうなったのです?先程は中断したと言われましたが。」

 バデーニがなおも食い下がる。

 グラスは眉をぴくりと動かしただけで、口は閉ざしたままだった。

 オクジーは椅子から少しだけ身を乗り出し、静かに口を開いた。

「……俺たち、誰かが傷つくのをもう見たくないんです。」

 二人は反応しない。だがオクジーは続けた。

「もし、また誰かがその地獄に放り込まれるなら…俺はなんとかして助ける道を選ぶ。」

 アイーダの指が膝の上で強く握られる。その震えを見逃さず、オクジーは一歩踏み込んだ。

「あなた方だって、そうじゃないんですか?俺たちを助けてくれたのは、あの時フベルトを助けたかったことへの贖罪だったのでは?」

 アイーダが小さく呻いた。目から涙がとめどなく流れ落ち、拳を濡らしていく。

「お願いします。助けられなかったから、苦しんでいるのは分かります。せめて、同じ苦しみが繰り返さないよう力を貸していただけませんか。」

 また、沈黙が続く。

 だが今度の沈黙は、拒絶の様相をしていない。

 葛藤の沈黙だ。

「……じゃない。」

 ぽつり、アイーダが唇を噛みしめたまま声をもらした。

 グラスの肩がわずかに跳ねたが、もう止めきれなかった。

「実験は中断したんじゃない…。」

 胸の前で手を組み、祈るような姿で、アイーダは震える息を吐いた。

「…先に限界が来たのは、フベルトじゃなかった。

 拷問を担当してた隊員の一人が、笑いながら頭を抱えて、壁に爪を立てて…突然発狂して、仲間に銃を向けて発砲した。部屋の中は正気でいることの方がおかしいくらいの惨状だった。」

 記憶が蘇っているのだろう。アイーダの目の焦点がぶれる。祈りの形で組んだ拳を額に押し当て、静かに涙を流す。

 グラスがやっと口を開いた。

「その混乱の中で、フベルトは行方をくらました。

 ……自ら危険に飛び込むことはない。若者が苦しむ姿をもう見たくはないんだ。」

 グラスは、聞いたことは忘れてくれ、と呟いた。

「ありがとうございます。

 我々の目的は所長を探し出す。それだけです。どんなことでも、手がかりになることなら知りたい。」

 バデーニが立ち上がる。オクジーもそれに続いた。

「行くのか。」

「はい。」

 グラスは目を細めて若い二人を見つめる。言葉は短くとも、彼らがフベルトの行方を追うつもりでいる事が分かった。

「手がかりもなしに、どこを探すつもりだ?」

「私たちは以前、フベルトと思われる男と接触している。」

 ラファウの父、ポトツキを訪ねた時に警告を発した男。彼のフードの中は、まるで拷問を受けたかのような傷跡が残っていた。

 オクジーは記憶を辿る。フベルトの視線に射抜かれた瞬間を思い出し、背筋が凍るのを感じた。

 ただ、彼はラファウの被害者だった。今もなお、どこかで助けを求めているかもしれない。

 バデーニの迷いの無い行動は、焦りにも見える。

 一刻も早くフベルトを探し出すために、動かなければ。オクジーは急いでバデーニの背中を追いかける。

 

 ダンッ。

 

 グラスの大きな手が作業机を鳴らした。彼は机に両手を突き、うつむいていた。

「止めても無駄だって分かっている。…お前たちが行く理由も分かってる。だが。」

 わずかに顔を上げたその目には、覚悟と少しの恐れが揺れていた。

「……少しだけ時間をくれ。準備がある。」

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