「お帰りなさい。オクジーさん。…もしかして、歩いて帰ってきたの?」
捕獲した猫を入れたクレートを抱え、探偵事務所に着いたのは日を跨いでからであった。
事務所でオクジーを出迎えたのは、所長ひとりだった。
デスクで読み物をしていた所長は、オクジーの帰還に気づいて顔を上げると、立ち上がって出迎えた。
椅子が床を擦るわずかな音が静かな部屋に響く。
所長はオクジーからクレートを受け取り、中を覗いて微笑んだ。睫毛の影が頬に落ちる。
その仕草は、歳を重ねた人間がふと見せるには、少しだけ幼い表情だった。
「はい…バス停に着いたら終電が出てしまっていて。」
「大変だったね。経費で落ちるから、タクシーを使えばよかったのに。」
「タクシー…普段使わないから、考えもしなかったです…。」
事務のバデーニからは、猫を捕獲した時「ご苦労。」の一言しかもらえなかった。
「バデーニさんもさっきまでは残っていたんだけど、これまでに三日間徹夜してたらしくて、倒れられると困るから家に返したの。」
「…ここの事務ってそんなに大変なんですか?」
三徹は流石に労働基準を大きく逸脱しすぎである。
所長は苦笑して首を横に振った。
「その山、全部バデーニさんの研究資料なの。事務の仕事の傍ら、ご自分の研究を進めているの。」
スチールデスクの上には、乱雑に積まれた資料。一体何の研究なのか。教えてはくれなさそうだけれど。
「へー、スゲー。」
「オクジーさん、疲れてるわよね。もう帰る?もし時間があるなら、夜食あるけど食べるかしら?」
夜食、の言葉に忘れていた感覚が呼び起こされ、即座に腹がぐうと返事した。
「…お言葉に甘えて、いただきます。」
頭をかいて照れ隠しをする。
接客用のソファに座るよう促され、席に着くとすぐにカットされた大麦のパンと、具材の入った皿が目の前に並んだ。
「飲み物は、コーヒー?ミルク?」
「ミルクいただけますか?…苦いの苦手で。」
所長はふふと笑い、「奇遇ね、私も苦手なの。」と、言ってガスコンロのスイッチを入れた。ホットミルクにしてくれるらしい。
猫はクレートの中で丸まっていた。ヒゲが時折ヒクヒクと動いている。寝ているのかもしれない。しばらくはこのままでいてもらおう。
待っている間に、カットされたパンにカッテージチーズとハムを乗せてかぶりつく。噛むごとに硬いパンが音を立てる。空腹の胃にやけに沁みた。
食材を置いているスーパーはもう閉まっているし、下宿先の冷蔵庫の中身は空っぽなので、ありがたかった。
オクジーが二つ目のパンを口に入れた時、所長がマグカップを二つ手に持ってキッチンから出てきた。
「どうぞ、熱いから気をつけて。」
「いただきます。…パンも、いただいてます。美味しいです。」
口をもごもごさせながら感想を述べると、「たくさんどうぞ。」と勧められる。
所長はカップを温めるみたいに両手で包んだまま、木製のデスクにもたれかかる。オクジーの食べる様子を静かに眺めている。
木製のデスクは、事務所の中でもひときわ存在感がある。長く使われてきたもの特有の、やわらかな馴染みがあった。
用意されていた夜食を眺める。
帰りを待っていてくれたのだろうか。温かいミルクで口の中のものを流し込みながらそんなことを考えている時、所長が口を開いた。
「オクジーさんは、どんな生活をされてるのかしら。」
「大学に通ってます。……あの、自分、作家になりたくて。」
そこまで言ったところで、オクジーは口を閉じた。言葉にすればするほど、薄っぺらくなる気がした。
「でも…納得できる文章が書けなくて。」
それだけを、掠れる声で付け足した。
所長の目が少しだけ見開かれる。
「……文章を書かれてるのね。」
「でも、何を書いても、自分の浅さが滲み出てしまう。
どうしても、人に届く気がしない。
この探偵事務所で日常と違う経験を積めば、いい文章が書けるんじゃないかって、そんな下心もあってバイトに応募したんです。」
静かにオクジーの話を聞いていた所長が、口を開いた。
「……読むのは好き?」
「はい、もちろん。
昔の人たちの言葉や感情が文字として残されて、未来の読者がそれを読むことで、まるで時代を超えて会話してるような気持ちになれるんです。まさに……。」
「「文字は奇蹟。」」
オクジーと所長の言葉が重なった。やはり、所長は心を読んでいるのではないだろうか。
「私も同感。文字が時間や場所を超越して、知識や感情をずっと未来の誰かに伝えるかもしれない。…オクジーさん。書いてるものが完成したら、私にも読ませてもらえない?」
「それは、はい。でも、いつ完成するか。」
オクジーの返事に、所長が噛み締めるように言った。
「……約束ね。」
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。