翌日。
オクジーは大学の大講義室にいた。
昨晩、下宿に帰り着いたのは、未明をすぎた頃であった。
何時間も猫を抱えて歩いたためか、帰宅後は疲労で泥のように眠ってしまった。今朝は遅刻こそしなかったものの、あろうことか卒論を指導してもらっている教授の講義で眠りこけてしまっていた。
授業の終わった講義室に、自分と教授以外に生徒の姿はなく、どっと冷や汗が流れ出す。
「授業は終わったよ。オクジー君。」
「は、はい…あの、すみません。」
「私の授業は退屈だったかな。」
「え!?いや決してそういうわけじゃ。」
教授がくつくつ笑う。
丁寧に切り揃えられた口髭の、初老の男性だ。よくこうやって生徒を揶揄う。
「夢の中では卒論のテーマ探しが大いに捗ったのではないかね。」
「はは……。」
「なんだ、芳しくなかったのか。」
教授は残念そうに、口髭を撫でた。
窓の外では冬に向かう冷たい風が木の枝を揺らし、乾いた葉同士の触れ合う音を奏でる。
教授が講義台から移動する。ゆったりした足音がからっぽの講義室に響いた。
「読む人を感動させる文章を書きたい、だったかな。」
「!」
教授が口にしたのは、入学理由を話した時の内容である。
「読む人を感動させられる作家になりたいです。けれど、ただ物語を書くだけじゃ足りないと思ったんです。
人を震わせる言葉の奥には、人間の心や、社会の仕組みや、世界の歴史や、知らなかった真実が詰まっている。 ――だから、大学では文学を中心に、まだ見ぬ知識を手に入れたいと思ったんです。」
「お、覚えておられたんですか。」
「覚えているとも。農家の次男坊が我が学舎にやってきて、目を輝かせて夢を語っていた姿ごとね。」
今の自分は、死んだ魚の目をしている自覚がある。
積み重ねられた学もなく、言葉選びも感覚的な自分の文章はひどく幼稚に感じる。同級生から君の文章は素直で素朴だねと講評された時は、田舎者扱いされているようでショックだった。
「俺が学べたのは、自分がいかに世間知らずだったかってことくらいです。……卒論のテーマ決め、もう少し待ってください。」
「私は、君の素直な文章がとても気に入っているけどね。君は、自分に何か足りないから、それを埋めようと苦しんでいないかい?
まあ、君が納得しないことには前に進めないだろう。手助けできることがあったら、言ってご覧。」
教授の優しさが、余計に自分を小さく感じさせた。
………………
昼過ぎ。
オクジーが探偵事務所のドアを開けると、胸に強い衝撃が走った。倒れることなく踏みとどまったが、ボールをぶつけられたような衝撃に息が詰まる。
部屋の中を黒い塊が縦横無尽に飛び回っている。
「オクジー君、いいところに来た。」
「バデーニさんよそ見しちゃダメです、そっち行きました!」
部屋の中では、バデーニと若い女性が黒い塊を追いかけまわしていた。若い女性の方は、捕獲網を振り回して追いかけている。
「何事ですか、一体!?」
「猫だ。餌を与える隙にゲージから逃げ出した。ドゥラカ君、棚の上だ。」
「おりゃー!」
黒い塊、もとい、昨晩の迷い猫は、長い毛で覆われた尻尾を膨らませて唸った。かなり興奮しているようだ。
「逃げ出したあと、バデーニさんが尻尾を引っ張ったんですよ。それで怒っちゃって。」
「元はといえば、君が逃すのが悪い。」
「私は!ヨレンタさんから!猫の世話をするように!言われたんです!誰かさんが!世話しないから!」
怒鳴り合いながら猫を追い詰めようとする2人。猫が怯えている。これでは逆効果だ。
オクジーは猫のゲージの中に敷かれていた毛布を取り出して広げた。
「お二人とも、ちょっと黙っててくれますか?」
小さな低い声で指示を出す。ドゥラカと呼ばれた女性が素早く察して、バデーニを掴んで下がらせる。
毛布を広げたままふわりと猫を覆い、抱き上げた。
「すご、瞬殺。」
オクジーの鮮やかな手際に、ドゥラカが賞賛を送る。
猫は毛布ごとゲージの中に入れられ、急いで鍵を閉める。毛布から顔を出した猫は観念したのか、毛繕いをはじめた。もう興奮は冷めている。
「お見事です、助かりました。オクジーさん。」
「いや、俺が扉を開けた時に逃げなくて良かったです。それより…。」
チラリとバデーニの顔に視線を送る。彼の白い顔には、猫による引っ掻き傷がつけられていた。みみず腫れになっている。
「猫の爪や歯が媒介するバルトネラ•ヘンセレ菌は、引っ掻き傷を通じて人体に侵入することで感染症を発生させる恐れがある。ヒトでの潜伏期間は3日から数週間。傷を受けた部分が虫を刺されたようになり、場合によっては化膿したり潰瘍となる。その後一、二週間でリンパ節炎を引き起こす可能性がある。痛み、発熱、倦怠感などの症状を伴うが、一ヶ月ほどで完治し。」
「長い。はやく洗って消毒。」
ドゥラカに台詞を遮られ、不服そうにバデーニは事務所の奥に引っ込んでいった。
不機嫌そうな顔をして何を言い出すかと思えば、猫のうんちく。本当に変な人である。
「鮮やかなお手並みでした。猫、飼っていたんですか?あ、私、ドゥラカって言います。あなたと同じ、アルバイト。」
バデーニを見送ってから、ドゥラカが話しかけてきた。手を差し出されたので、握って返す。
「よ、よろしくお願いします。オクジーです。」
ドゥラカは、クセの強い黒髪を頭のてっぺんでひとつ結びにして、ボーイッシュな服装に身を包んでいる。タレ目と浅黒い肌がエキゾチックだ。ハスキーな声と雰囲気が落ち着いて見せているが、十代後半か、もしかしたら、未成年なのかも知れなかった。
「猫は、実家の納屋で妹がこっそり飼ってて。捕まえる時にああしていたんです。時々手伝わされてました。」
「ああ、それで。ご実家は何かされてるんですか?」
「まあ、ライ麦農家を…小さい規模ですが。」
「へぇー、もしかして東部のご出身?」
「そうです。」
ドゥラカの目に興味の光が灯った。これは何かの目に似ている。そうだ、猫が獲物を見つけた時の目だ。
「オクジー君、ドゥラカ君の前で不用意に個人情報を漏らすと、恐ろしい目にあうぞ。」
消毒が済んだのか、バデーニが奥から顔を出す。淹れたばかりのコーヒーを啜りながら、倒れた自分用の椅子を起こし、どかりと座る。
事務所の中は、猫によってもたらされた災害によって無茶苦茶だ。本棚の中身は散乱し、花瓶は倒され、飛び出た中身が絨毯にシミを作っている。
「恐ろしい目って…。」
「あ、そろそろ約束した時間です。バデーニさん、オクジーさんと猫を依頼人のところに返してきてくださいよ。」
「断る。オクジー君、頼んだ。」
「この部屋、誰が掃除するんですか?ヨレンタさん、ほや〜としてるように見えて結構厳しいんです。でっかいバデーニさんがいると、邪魔です。」
ドゥラカのはっきりした物言いに、バデーニよりも体の大きなオクジーは体を縮こめる。
「チッ。」
大きな舌打ちに、うとうとしていた猫がビクリと顔をあげた。