眼の日記/ヨレンタ探偵事務所事件録   作:すう

52 / 64
第五十一話:オクジーの日記

 夕刻。

 オクジー達の無事を聞いたアイーダが、たっぷりの料理を差し入れてくれた。久方ぶりの睡眠としっかりした食事は脳に栄養を行き渡らせ、曇っていた頭の中を冴え渡らせた。

 食事が落ち着き、工房に一時の静けさが戻った頃。

 バデーニが、静かにナイフを置き、全員の顔を見渡してから口を開いた。

「……一つ、考えがある。」

 全員の視線が、自然と彼に集まった。

 バデーニはオクジーの方を真っ直ぐに見て言った。

「このオクジー君の文章には、人を動かす力がある。」

 机の上に置かれたノートの上に、手を置く。

「……は!?」

 突然指名された本人が一番戸惑っていた。オクジーは思わず肩を強張らせ、持っていた飲み物をこぼしそうになる。

「彼の日記には、事実がある。ただの記録じゃない。

 アントニに人生を狂わされた人間たちの息づかいが、記憶されている。」

 沈黙。

 誰も否定せず、バデーニの次の言葉を静かに待っていた。

「これを使って、アントニのこれまでの悪行と不正を暴く。」

 はっきりと言い切ったバデーニに向かって、オクジーが、手を挙げた。

「問題大有りです。俺のこれまでの日記は、おそらく公安に持って行かれてるんですよ。」

 その事実に、場の空気が重くなる。

「いや。ある。」

 バデーニは自分のこめかみを、指で軽く叩いた。

「ここに。」

 そして、不敵に笑う。

「全部、覚えている。」

「……全部!?け、結構あったと思うんですが……。」

「普通だろう。」

 何事もないようにバデーニが言う。

「六十ページくらい。」

「普通です。」

 ドゥラカが、真顔で頷いた。

「普通だな。」

 フベルトも同意する。

 三人の視線が揃って向いた先で、オクジーは言葉を失った。

 どうやら、ここでは自分の感覚の方が少数派らしい。

「……ていうか、読んだんですね。」

「無断で読んだ事については謝罪する。読まずにはいられなかった。君の文章には、それだけの魅力がある。」

 臆面もなくそう告げるバデーニの言葉に、オクジーの方が赤面し、黙ってしまう。

 バデーニは構わず続けた。

「問題は方法だが――。」

 ドゥラカが手を挙げ、話を引き取る。

「私に、心当たりがあります。」

 彼女は、少しだけ間を置いて、全員の顔を見渡した。

「ヨレンタさんの起こした爆発を、唯一報道したジャーナリストがいたんです。」

 あの時、どこの報道機関も情報がコントロールされているようだった。しかし、世界に向けて真実を投げかけた、ただ一人がいた。

「彼女に、掛け合ってみようと思う。」

 ドゥラカはにっと笑って静かに言った。

「これは、大稼ぎできる気配……!」

「おい。」

「間違えた。大衆の心を掴むチャンス!」

 話は、驚くほど滑らかに進んでいく。

 誰もが現実的で、合理的で、迷いがない。

 だが、オクジーの周りだけ、膜が張ったかのような温度差があった。

「……君は。」

 不意に、低い声が割って入る。

 フベルトだった。

「納得しているのか。」

 その一言で、場の空気が止まった。

 全員の視線が、一斉にオクジーへと向けられる。

 逃げ場は無かった。

 オクジーは、ゆっくりと息を吸った。

「正直…怖い、です。」

 心の奥から、正直な感情が浮かび上がる。

 自分の書いた文章が、誰かを傷つける武器になるかもしれない。

 そんなこと、考えたこともなかった。

 日記は、ただの整理だった。

 混乱した記憶を並べて、気持ちを落ち着かせるためのもの。

 誰にも見せない、自分だけの場所だったはずだ。

 それが今、誰かを告発し、追い詰めるための武器として使われようとしている。

 手のひらを見つめて、ライフル銃の感触を思い出す。

 怖くないはずがない。

「……でも。」

 ふと、胸の奥の突っ掛かりが痛んだ。

 

 『…オクジーさん。書いてるものが完成したら、私にも読ませてもらえない?…』

 

 脳内でヨレンタの声が再生される。彼女との約束。

 結局、それを果たす前に彼女はいなくなってしまった。

 その後悔が残っている。

 もう、後悔はしたくない。

 オクジーは、顔を上げた。

「ヨレンタさん、シモン、ポトツキさん、レジスタンスの皆…これまで出会ってきた人達のことを、無かったことにはしたくない。」

 声が震える。それでも続けた。

「彼らがいた証を、生きた痕跡を残したい。……俺の文章、使ってください。」

 しばらく、沈黙が流れた。

 やがて、グラスがゆっくりと頷いた。

「……いいんじゃないか。」

 その声は、穏やかだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。