夕刻。
オクジー達の無事を聞いたアイーダが、たっぷりの料理を差し入れてくれた。久方ぶりの睡眠としっかりした食事は脳に栄養を行き渡らせ、曇っていた頭の中を冴え渡らせた。
食事が落ち着き、工房に一時の静けさが戻った頃。
バデーニが、静かにナイフを置き、全員の顔を見渡してから口を開いた。
「……一つ、考えがある。」
全員の視線が、自然と彼に集まった。
バデーニはオクジーの方を真っ直ぐに見て言った。
「このオクジー君の文章には、人を動かす力がある。」
机の上に置かれたノートの上に、手を置く。
「……は!?」
突然指名された本人が一番戸惑っていた。オクジーは思わず肩を強張らせ、持っていた飲み物をこぼしそうになる。
「彼の日記には、事実がある。ただの記録じゃない。
アントニに人生を狂わされた人間たちの息づかいが、記憶されている。」
沈黙。
誰も否定せず、バデーニの次の言葉を静かに待っていた。
「これを使って、アントニのこれまでの悪行と不正を暴く。」
はっきりと言い切ったバデーニに向かって、オクジーが、手を挙げた。
「問題大有りです。俺のこれまでの日記は、おそらく公安に持って行かれてるんですよ。」
その事実に、場の空気が重くなる。
「いや。ある。」
バデーニは自分のこめかみを、指で軽く叩いた。
「ここに。」
そして、不敵に笑う。
「全部、覚えている。」
「……全部!?け、結構あったと思うんですが……。」
「普通だろう。」
何事もないようにバデーニが言う。
「六十ページくらい。」
「普通です。」
ドゥラカが、真顔で頷いた。
「普通だな。」
フベルトも同意する。
三人の視線が揃って向いた先で、オクジーは言葉を失った。
どうやら、ここでは自分の感覚の方が少数派らしい。
「……ていうか、読んだんですね。」
「無断で読んだ事については謝罪する。読まずにはいられなかった。君の文章には、それだけの魅力がある。」
臆面もなくそう告げるバデーニの言葉に、オクジーの方が赤面し、黙ってしまう。
バデーニは構わず続けた。
「問題は方法だが――。」
ドゥラカが手を挙げ、話を引き取る。
「私に、心当たりがあります。」
彼女は、少しだけ間を置いて、全員の顔を見渡した。
「ヨレンタさんの起こした爆発を、唯一報道したジャーナリストがいたんです。」
あの時、どこの報道機関も情報がコントロールされているようだった。しかし、世界に向けて真実を投げかけた、ただ一人がいた。
「彼女に、掛け合ってみようと思う。」
ドゥラカはにっと笑って静かに言った。
「これは、大稼ぎできる気配……!」
「おい。」
「間違えた。大衆の心を掴むチャンス!」
話は、驚くほど滑らかに進んでいく。
誰もが現実的で、合理的で、迷いがない。
だが、オクジーの周りだけ、膜が張ったかのような温度差があった。
「……君は。」
不意に、低い声が割って入る。
フベルトだった。
「納得しているのか。」
その一言で、場の空気が止まった。
全員の視線が、一斉にオクジーへと向けられる。
逃げ場は無かった。
オクジーは、ゆっくりと息を吸った。
「正直…怖い、です。」
心の奥から、正直な感情が浮かび上がる。
自分の書いた文章が、誰かを傷つける武器になるかもしれない。
そんなこと、考えたこともなかった。
日記は、ただの整理だった。
混乱した記憶を並べて、気持ちを落ち着かせるためのもの。
誰にも見せない、自分だけの場所だったはずだ。
それが今、誰かを告発し、追い詰めるための武器として使われようとしている。
手のひらを見つめて、ライフル銃の感触を思い出す。
怖くないはずがない。
「……でも。」
ふと、胸の奥の突っ掛かりが痛んだ。
『…オクジーさん。書いてるものが完成したら、私にも読ませてもらえない?…』
脳内でヨレンタの声が再生される。彼女との約束。
結局、それを果たす前に彼女はいなくなってしまった。
その後悔が残っている。
もう、後悔はしたくない。
オクジーは、顔を上げた。
「ヨレンタさん、シモン、ポトツキさん、レジスタンスの皆…これまで出会ってきた人達のことを、無かったことにはしたくない。」
声が震える。それでも続けた。
「彼らがいた証を、生きた痕跡を残したい。……俺の文章、使ってください。」
しばらく、沈黙が流れた。
やがて、グラスがゆっくりと頷いた。
「……いいんじゃないか。」
その声は、穏やかだった。