眼の日記/ヨレンタ探偵事務所事件録   作:すう

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第五十三話:アントニの誤算

 第五十三話 アントニの誤算

 

 今にして思えば、最初の報告が届いた時点で、すでに手遅れだったのかもしれない。

 

 ネット上で、訳の分からない文章が話題になっている。

 そう報告を受けた時、アントニは鼻で笑った。

 

 政治的主張ではない。

 告発でも、扇動でもない。

 なにものにも属さない、輪郭の曖昧な言葉の断片。

 

 そんなものに、いったい何ができるというのか。

 

「消せ。」

 

 それだけで済む話だと、疑いもしなかった。

 これまでも、そうしてきた。

 消し、黙らせ、忘れさせる。

 情報は管理できる。

 人の心など、新しい餌を与えることですぐに移り変わってゆくものだ。

 それは紛れもなく事実だった。

 

 少なくとも、これまでは。

 

 削除されたはずの文章が、別の場所に現れる。

 引用され、切り取られ、順番を変えられ、意味を増して戻ってくる。

 消した行為そのものが、注目を呼び、増殖の起爆剤になっていった、

 

 理解が追いつかない。

 アントニが頭を抱える。

 

 誰かが指揮しているわけではない。

 旗を振る者も、明確な敵もいない。

 それなのに、情報が勝手に動き、勝手に繋がり、勝手に広がっていく。

 

 制御できない、という感覚。

 それ自体が、アントニにとっては異常だった。

 

 幼い頃の記憶が、ふと蘇る。

 

 庭先で、虫を踏み潰したことがある。

 理由はない。

 そこにいた。

 動いていた。

 踏めばどうなるのか、知りたかった。

 無邪気で、無慈悲な行為。

 潰される側の理由や声など、考える必要はない。

 生殺与奪の権は、常に自分の側にある。

 

 ……そのはずだった。

 

 かつて処理したはずの事象が、掘り起こされる。

 消したはずの痕跡が、詳らかにされていく。

 

 見られている。

 

 無数の視線に。

 

 眼の日記。

 そう呼ばれ始めたそれは、それ自体は、怒りも、主張も、結論も持たない。

 読んだ者が考え、解釈し、広め、勝手に見つけ出してくる。

 

 その見るという行為が、アントニに恐怖を与えた。

 アントニは、幼い頃から、「見られなかった」人間だったからかもしれない。

 

 父は、自分を見ていなかった。

 見ていたのは、ラファウという化け物。

 継承すべき異物。

 管理すべき知性。

 自分は、それを受け継ぐための器にすぎなかった。

 

 愛される理由も、認められる価値も、すべては役割と成果の中にしか存在しなかった。

 

 だから、権力にしがみついた。

 肩書と支配だけが、自分の存在を証明してくれたからだ。

 

 従わせることで、価値を感じた。

 操ることで、生きている実感を得た。

 

 ……それが今、崩れていく。

 

 否定も、攻撃もされず、ただ、見られている。

 

 眼がある。

 無数の眼が、こちらを向いている。

 

 もはや、踏み潰す側ではない。

 だが、アントニはその可能性を、最後まで認められなかった。

 

 資産はある。

 肩書も、影響力も、まだ何も失ってはいない。

 敗北には、早すぎる。

 

 そう、判断した。

 

 ――それが、致命的な誤算とも知らずに。

 

 ただ見られること。

 評価も、支配もできないまま、存在を晒されること。

 それだけのことが。

 アントニの精神を、静かに、しかし確実に侵食していった。

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