世間を騒がせた「眼の日記」の話題が冷め、しばらく経った頃。
ネット上から巻き起こったこの論争によって、国が変わったのかどうかは、誰にも分からなかった。
まだ知らないところで燻り続けているのかもしれない。
しかし、多くの市井に暮らす者達にとっては、一時の熱病のようなもので、実生活の何かが変わることはほとんどなかった。日々の買い物は変わらず、朝はやってきて、仕事は続く。
そんな日々の中で、眼の日記のこともいずれ忘れ去られていくのだろう。
オクジーは、ノヴァクたちに拘束されて以来、手つかずだった探偵事務所の片付けに追われていた。
大立ち回りを繰り広げた室内は、かつて猫が暴れ回った時とは比べものにならない荒れようだ。
資料やファイルがそこかしこに散乱し、扉は歪み、窓ガラスは割れて床に落ちている。
それらを一つずつ片付けながら、オクジーは、ようやく現実に戻ってきたのだと実感していた。
大学を卒業し、オクジーは作家と探偵事務所、二足の草鞋を履いて生きていくことを決めた。
田舎の両親は「帰ってこないのか」と残念がっていたが、この春、小さな出版社から出た本を送ると、行く先を応援すると言ってくれた。
後日届いた手紙には、妹からの長い感想と、兄からの一言だけのメモが添えられていた。
いい話だった。
たったそれだけの文字が、長いあいだ胸の奥に固まっていたわだかまりを、静かに溶かしてくれた気がした。
カン、コン、カン――ガキッ。
調子外れの金槌の音が、事務所に響いた。
扉の蝶番を直していたバデーニが、眉をひそめて手元を見つめている。釘はあらぬ方向を向いていた。
「……オクジー君。手伝え。」
呼ばれて、オクジーは苦笑いを浮かべて向かう。
バデーニは今、ピャスト教授の研究所に籍を置いている。長く調査してきた研究成果が、ようやく認められたのだ。
ヨレンタの指に握られていた金属片が、当時の活版印刷に使われたものではないかと判明した。
中世の異端たちの遺物であるという決定的な結論には至っていないが、研究の余地は十分にあるらしい。
「研究はどこでも続けられるからな。」
そう言って、彼は相変わらず事務仕事を続ける気でいるらしかった。
事務所の一角には、ファイルやメモの束が山のように積まれていた。
斜めに取り付けられた扉を眺めて、ドゥラカが小さく息をついた。床に散らばったガラス片を、黙々と箒で集めていく。
ドゥラカは、探偵事務所と食堂、その他いくつものバイトを掛け持ちしながら、相変わらず忙しくしている。
密かに、最後まで「眼の日記」の行末を観測し続ける覚悟を持っているのは、彼女だった。
レジスタンスの解体後、逮捕された者や解放された者の世話も手伝っているらしい。
先日、ドゥラカからラファウの研究所に連れてこられていた患者が保護されたと言う情報がもたらされた。その中にはエミルの名前もあり、無事だと言う。
「今度、手紙を書こう。」
オクジーはドゥラカにそう言って微笑んだ。
キッチンの隅に置かれた小さなテレビが、速報のアラートを鳴らした。
何事かと三人が覗き込む。
『行方不明だった天文学者が、突如帰還しました。』
キャスターの声とともに、画面が切り替わる。
そこに映し出された顔を見て、空気が凍りついた。
――フベルト。
騒動の最中、結末を見届けることなく、いつの間にかふらりと姿を消していた。
誰もその行方を知らなかった。
画面の中で、彼は相変わらず掴みどころのない表情でカメラの向こうを見ていた。
三人は顔を見合わし、すぐには言葉を発せなかった。
片付けも終盤に差し掛かった頃、アルベルトが大きな紙袋を抱えてやってきた。
オヤジさんからの新装開店祝いだという。
焼きたてのパンのいい匂いが事務所内を包んだ。
アルベルトは少し居住まいを正して、オクジー達に向き直る。
「この秋から、首都の大学に行くことになったんだ。」
経営学を学び、いつか恩返しをしたいのだと、少し照れくさそうに話す。
オクジーたちは喜び、口々に祝福の言葉を贈った。
ノヴァクが訪ねてきた時は、さすがに身構えた。
だが彼は、過去の違法な取り調べについて正式に謝罪し、オクジーのノートを返してくれた。
どんな償いもする、と言う。
オクジーとバデーニは顔を見合わせ、もう気にしていないと伝えた。
「……お詫びと言ってはなんだが、時々仕事を頼んでもいいかな。」
ノヴァクの申し出に、オクジーは冷や汗を流しながら、答えた。
「ご、合法のやつでお願いします……。」
その一言に、ノヴァクは吹き出し、声を上げて笑った。
そして、ひとしきり娘の話をして、彼は帰っていった。
「……ふう。」
放置されていた事務所の補修も、ようやく一段落した。
看板を磨いていたドゥラカに、バデーニがふと尋ねる。
「ヨレンタさんは最後に、何て言ったんだ?」
少し間を置いて、彼女は答えた。
「……これからは、あなた達の目で、見て。」
それだけだった。
後悔も、命令も、期待もない。
ただ、託すと意味を込めた言葉。
彼女らしい、と誰もが思った。
「眼の日記」を公開した後、雑木林に花を手向けに行った。
オクジーはこの日、事務所を引き継ぐと決めたのだという。
しんみりとした空気を破るように、扉が開く。
両手に酒瓶を抱えたグラスが、呆れた顔で立っている。
「なんだ、まだ終わってなかったのか。」
グラスの発案で、事務所の再開パーティを開催しようと言うことになっていたのだ。
「アイーダさんが、とっておきの料理を用意してくれているぞ。さあ、早く終わらせよう。」
その一言で、場が一気に賑やかになる。
工具を片付け、掃除をして、最後に扉へと向かう。
綺麗に磨かれた看板を掲げた。
ヨレンタ探偵事務所
小さな積み重ねが、時にとてつもなく大きな岩――《運命》を動かすこともあるのかもしれない。
次は自分たちが引き継ぎ、未来に手渡していく番だ。
おしまい。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
眼の日記/ヨレンタ探偵事務所事件録はここでおしまいです。
人生で初めてこれだけの文章を書きました。
拙く、お目汚しするところも多々あったと思いますが、読んでくださる方が居てくれる、という事実に勇気をもらい、ここまで来れました。
ありがとうございます。
この後、後日譚(全三話)と、前日譚(全六話)がありますので、よろしければ、もうしばらくお付き合いください。