全三話です。
ぜひ、本編を読んでから本作「拍手をあなたに」をお読みください。
ビーツを使った冷製スープが、夏の気配を伝える。
日差しは強いが、窓から入り込む風は心地よい。
――そう、目の前の人物に目をつぶれば、の話だが。
ノヴァクは今日も、娘の話をしに探偵事務所を訪れていた。
「うちのヨレンタがね、科学雑誌のコンテストで賞をもらってさ」
「……はあ」
「ノヴァクさん。その話、もう七回目だ」
ため息混じりに返すオクジーと、机に肘をついて露骨にうんざりした顔のバデーニ。
それでもノヴァクは気にした様子もなく、両手で頬杖をついたまま頬を緩めている。
ノヴァクの娘、十五歳のヨレンタが書いた論文が、科学雑誌主催のコンペティションで最優秀賞を獲ったのだという。
父親として鼻が高いのだろう。さっきからずっとこの話題を繰り返している。
「来週が授賞式でさ。何色のスーツ着て行こうか迷ってるんだよ。派手すぎるのも違うし、地味すぎると優秀な娘の父親として締まらないでしょ? ……まあ、スーツ一着しか持ってないんだけど!」
楽しそうに笑うノヴァクを見ながら、オクジーは何度目かの愛想笑いを返した。
ヨレンタ。
その名を聞くたび、オクジーの頭には前所長の顔が浮かぶ。
名前も、顔立ちも、驚くほど似ている少女。
全寮制の女学校に通う彼女とは、ある事件をきっかけに知り合った。その時はまさか、公安関係者の娘だとは思ってもいなかった。
かつてノヴァクは、ヨレンタ前所長を追ってオクジーたちを拘束した。あの時のノヴァクのやり方は、決して穏健だったとは言えない。
今では和解した関係とはいえ、あの時の体験と冷えた視線は簡単に忘れられるものではない。
廊下から、ツカツカと大股の足音が近づいてくる。
「……迎えが来たな」
バデーニが呟いた。
「ノヴァクさん!この忙しい時に、油を売ってる場合じゃないでしょう!」
扉を開けて顔を出したのは、部下のダミアンだった。
どれだけ優秀な捜査官でも、愛娘の話題になると歯止めが利かなくなるらしい。
「お騒がせしました」
ダミアンが頭を下げながら、親バカを引きずって連れ出していく。
「はは……はぁ」
二人の背中を見送り、オクジーは、張り付いたままの愛想笑いをゆっくりと剥がした。
それから数日後。
事務所の扉を開けたノヴァクは、明らかにやつれていた。目の下には隈が張り付き、息も荒い。
「ど、どうされたんです?」
声をかける間もなく、ノヴァクが詰め寄る。
「オクジーくん、頼む!!」
息がかかるほどの距離。
差し出された手には、札束が握られていた。
「ヨレンタの護衛を頼みたい!!」
「……はい?」
話を聞けば、国際的に指名手配されている人身売買グループが大規模な犯行を計画しているらしい。ノヴァクはその捜査の指揮を執っており、現場を離れられない。
つまり、仕事が入ったため娘の授賞式に出席できなくなったのだ。
「私の代わりに、あの子の授賞式に付き添ってほしい。
ヨレンタは…可愛いから…誘拐されるかもしれない」
最後の一言は、流石に考えすぎでは。そうオクジーが口に出そうとした時。
その横から。
「お任せください。お父様」
するりと伸びた手が、札束ごとノヴァクの手を包み込む。
ドゥラカの目が、楽しげに光っていた。
「え?でも君、未成年じゃ――」
「先週、十八になりました」
ドゥラカはニヤリと笑い、身分証を突きつける。
「成人しました。問題ありません。そのご依頼、お受けします」
「でも報酬は受け取れませ――むぐぐ」
オクジーの口が、後ろから塞がれた。
同時に、バデーニが完璧な営業スマイルで頷く。
「もちろん、我々も同行する」
「ありがとう……ありがとう……!」
ノヴァクは鼻を赤くしながら何度も頭を下げた。
「私も、仕事を片付け次第すぐ向かう。本当に、君たちを信頼している」
そう言い残し、ノヴァクは足早に去っていった。
姿が見えなくなってから、ようやくオクジーは口を解放される。
「ドゥラカさん、バデーニさん。報酬は受け取らない約束だったはずでは……」
ヨレンタ前所長の言付けで、探偵事務所は無報酬を貫いてきた。
「甘い。甘ーい!」
ドゥラカが即答する。
「オクジーさん、うちの経済状況、分かってます?」
「以前は前所長が資金を調達していた。今は、収入の目処がないからな」
冷静に追撃するバデーニ。
「取れるところから取るべきだ」
「取れるところって……」
二人に挟まれ、オクジーは言葉を失った。
「……甲斐性がなくて、すみません」