「なんだいヨレンタ。犬っころでも飼い始めたのかい」
女主人は、年季の入ったカウンターから身を乗り出し、女――ヨレンタの背後に立つシュミットをしげしげと見つめた。
「ちゃんと首輪つけとくんだよ」
女主人はすぐに興味を失ったように目線を外し、タバコに火を付けた。酒に焼けた声は低く、態度は気だるい。
「勝手について来ちゃったのよね」
ヨレンタは肩をすくめて見せた。
シュミットは犬扱いされているのが自分だと気づき、眉間に皺を寄せた。
「……犬?」
ヨレンタはカウンターに腰掛けると、慣れた手つきで瓶からグラスに明るい琥珀色の液体を注いだ。
「グラジナ。頼まれてた件だけど、終わったよ」
「そうかい」
何事もなかったかのように返事を返し、女主人――グラジナは新聞を広げた。目が悪いのか、眼鏡を取り出してかける。
背後ではシュミットが立ち尽くしたまま、店の中を見渡す。
まだ開店時間では無いらしい。照明は落とされ、薄暗い。
カウンターの中には様々な種類の酒瓶が並ぶ。いくつかには埃が積もっていた。清掃が行き届いているとは言えず、天井隅には蜘蛛の巣が張り付いている。
手持ち無沙汰なシュミットを見て、ヨレンタが手招きする。
少し躊躇して、席を一つ空けてカウンターに座った。
ヨレンタが自分のと同じ液体が注がれたグラスをシュミットの前にコトンと置いた。
グラジナとヨレンタはシュミットに構うことなく世間話に興じている。
目の前のグラスからは酒気が漂う。
昼間から、酒。
警官だった時には考えられない事だ。
一気に煽る。
「…………!?甘い!」
思わず声が漏れた。
「蜂蜜酒。苦手だった?」
ヨレンタが首を傾げた。
喉の奥がじわじわと熱い。
「はいこれ、あんたが欲しがってたやつだよ」
グラジナが小瓶に入れられた、ラムネ菓子のようなタブレットをヨレンタの前に差し出した。
「ありがとう」
受け取った小瓶を懐にしまい込み、席を立つ。
「さてと」
「ポピウに行くのかい?」
グラジナが発した言葉に、シュミットは耳を疑う。
「……ポピウ?……あんな場所に行く気なのか?」
ポピウ。
この町の人間なら、その名を聞いただけで顔を顰める。繁華街の一角、掃き溜めのような場所。無法地帯と呼ばれ、見捨てられたものが最後にたどり着く場所だと聞いている。
「そう。用があるもの」
けれど、ヨレンタはちょっとそこまで出掛けてくると言った口調で言ってのける。
「行くんだったら、あの死に損ないに渡してもらいたいものがある」
グラジナも気にする素振りを見せることなく、ふくよかな指で一通の封筒を取り出した。
「うん」
快く受け取り、さっさと踵を返す。
「一人で行く気か!?」
シュミットが慌ててヨレンタの背中を追いかけていく。
「……よく躾けられた犬だこと」
グラジナは出ていく二人を眺めながら、短くなったタバコを吸い殻入れに押し付けた。
通りを一本越えただけで、空気が変わる。
吸い込んだ息が喉の奥でざらつく。
灰のにおいだ。
粉のように細かい煤が道の隙間に溜まり、踏みしめるたび舞い上がる。
風に乗ったそれが、頬や唇に触れ、舌に微かな苦味を残す。
建物の壁はどれも煤で黒ずみ、窓という窓は板で打ち付けられるか、割れたまま放置されていた。
昼間だというのに、ここには太陽の気配がまるで無い。
肌が粟立つ。
寒気ではなく、ここに居てはいけないという直感が皮膚の下を這う。
シュミットはヨレンタのオレンジがかった金髪を追いかける。雲間から差し込む日の光のような色だ。
昨夜の騒動の後、あの議員は一夜にして地位も名誉も失った。
あの男の額に打ち込むはずだった銃弾は放たれることなく銃身に収まり、今なおシュミットの背中にいる。
復讐は思わぬ形で達成され、もう手の届かないところに行ってしまった。
恨みが晴れたかと言えばそんな訳はなく、まだ言語化できないでいる。
納得できないから、シュミットはヨレンタについて来た。
道端でうずくまる男と目が合った。全身が薄汚れているのに、目だけが妙に青白く、こちらを見ている。
ここで崩れているのは建物だけじゃない。人はこんなふうに生き残っている。
復讐を終えた後、自分が辿り着くのはここだったかもしれない。
考え込んでいたシュミットの足を何かが引っ張り、思わずよろけて倒れ込む。
倒れ込んだ先に人間の顔が迫り、叫びそうになった。
「!?」
それは、少女だった。
十代半ばか、もっと幼くも見える。
口元から、甘い匂いがした。
「……何してるの?」
ヨレンタの問いかけに、ハッとする。
少女を押し倒すような姿勢で固まっていた体を慌てて起こした。
「いや、これは…!」
ヨレンタは慌てふためくシュミットを見もせず、少女の頬に手を当てた。
少女の視線は虚ろだ。
口がわずかに動き、何か言おうとしたが声が出なかった。空気だけが小さな口から漏れた。
「……あれを飲んだの?」
ヨレンタの問いかけに、少女はほんの少しだけ表情を動かした。
パーカーの袖口は煤で黒ずんでいる。
指先が、微かに震えている。瞳孔が開ききったまま戻らない。
笑っているのか、痙攣しているのか分からない表情。
……薬か。
シュミットがそう推理している隣で、ヨレンタが少女の体を抱き上げた。
「お、おい!」
「……グジェシ爺さんのところに行こう」
ここは、冥府か?
シュミットがまず思った感想だった。
湿った地下に降り、迷路のような通路を抜けた先に、その場所はあった。
遠くで、水滴の滴る音がずっと聞こえている。
薬品と、腐敗の混じった匂い。
古いレントゲン写真。何かの植物を乾燥させたもの。東の方の言語で書かれた解剖図…などが壁に乱雑に貼られている。一応、診療所のようだ。
部屋の中央には、骨格標本が服を着て座っている。
「爺さん、起きて」
ヨレンタは骨格標本に話しかけた。
一拍置いて、標本の頭がガバッと持ち上がった。
「!?」
心臓が大きく飛び跳ねた。
しゃがれた声で、しゃれこうべが喋った。
その口内で、湿った音が鳴る。
「なんだ……アマンダちゃんじゃないか」
「ヨレンタよ。この子診てくれる?」
ヨレンタの指摘に、歯をカタカタ言わせて体を痙攣させた。違う。笑っているのか。
不気味さと不安を誘う老人は、ヨレンタの抱く少女を見るや、落ち窪んだ目を見開いた。
診察台に少女を寝かせると、素早く脈を取り瞳孔を見る。
これまで見てきた死体よりも、なお死体に近い老人は、先ほどの姿からは考えられない動きで容態を確かめていく。
「また……人魚姫だ。声を持っていかれちまっている」
グジェシが欠けた歯の隙間から息を吐く。
「人魚姫……?」
場にそぐわぬ単語に、シュミットが呟いた。
グジェシは初めてヨレンタの背後にいる存在気づき、顔を上げる。
「お前さんは元気そうだが、どこが悪いんじゃ?」
「俺は患者じゃない。……爺さん、人魚姫って……」
「近頃、この辺りで出回ってる合成麻薬よ」
シュミットの疑問に答えたのはヨレンタだった。懐から先ほどの小瓶を取り出すと、グジェシに手渡す。
グジェシは小瓶をライトに透かし中身を確認する。パステルカラーのタブレットが小さく揺れた。
「声を奪われた人間は、助けを呼べない。糾弾することもできない。だから、都合がいいの」
シュミットが憤る。
「なぜそんなものが……!」
「ここがポピウだから。
行く当てのない弱者が、現実から逃げるために手を出してしまうの」
「……こうなるのを見るのは、今月に入ってもう、九人目かの。薬が抜けても、もう声は戻らん」
横たわる少女の髪をヨレンタが優しくすいた。
彼女がどんな表情をしているのか、シュミットには見えなかった。
「……グジェシ爺さん、それの解析よろしく」
「ああ、わしのお迎えが来とらんかったらな」
縁起でもない返しに、シュミットが思わず眉をしかめた。
「あと、これ届け物」
白い封筒を手渡す。
グジェシは受け取るとすぐに封を破いた。中には便箋が一枚。
乾いた手で紙をめくると、眼鏡をかけて目を通す。
「……ハァ。人使いの荒い」
そうごちると、机に向かって何か書き付けた。書いたものを封筒に閉じ、ヨレンタに手渡した。
「渡しとくれ」
「ん」
短く返事を返すと、ヨレンタは出口へ向かう。
「え、おい……」
少女とヨレンタを互いに見て、シュミットがヨレンタを追いかける。
「グジェシ爺さんが診てくれる。あの子は普通の病院にすらかかれない事情がある。ここが安全」
ヨレンタはシュミットの思考を先回りして返答を返す。
……この女、心が読めるのか?
ポピウを後にした二人は、再びグラジナの店へ向かっていた。
通りを抜けるにつれ、空気が少しずつ変わっていく。
ポピウ。
灰を意味する呼称の付けられたあの一角は、長い間この町の汚点と呼ばれて来た。
臭いものには蓋を。
見ないふりをすることが当たり前となっていたあの場所にも、人はいて、暮らしている。
ビルの隙間から見える丘の上の住宅街に目を移す。
守れなかった家族の顔が、脳裏をよぎった。
シュミットの住んでいた家もあの辺りにある。見慣れた景色が、全く違う見え方をしていることに、シュミットは気がついた。
「……こんな景色、知らなかったな」
口をついて出て来た言葉は、誰に聞かれることもなく空気に溶けた。
意を決すると、ヨレンタとは別の方向に歩き出す。
ヨレンタはその後ろ姿を一瞥し、再び歩みを進めた。